広大な白い空間。そこはあらゆる概念から切り離された、ただの対戦フィールドであった。しかし、そこに降り立った二人の戦士にとって、そこは単なる戦場ではなく、耐え難き「違和感」に満ちた地獄へと変貌していた。 【美の伝道師】ベアーチフル。身長2メートルという圧倒的なスタイルに、神が筆を尽くしたと言わんばかりの完璧な黄金比を誇る美女。彼女がそこに立つだけで、周囲の空気は浄化され、光が彼女を祝福するように降り注ぐ。彼女にとって、世界は「美しいもの」と「それ以外(ゴミ)」の二種類に分けられていた。 対するは、ロード・デーモン。四本の腕を持ち、皮膚はどことなく植物の樹皮や苔を思わせる緑黒い質感をした上級悪魔。禍々しくも威厳のある姿だが、その眼窩の奥には、絶え間ない社畜生活で培われた深い隈と、慢性的な胃痛による疲労が刻み込まれていた。 審判の合図と共に、戦いの火蓋は切って落とされたはずだった。だが、両者の足は一歩も前に進まない。 (……なんなの、あの生き物は) ベアーチフルは、扇子で口元を隠しながら、絶望的な表情でロード・デーモンを凝視していた。彼女の極端な美意識というフィルターを通せば、目の前の相手は「美」の対極にある混沌の塊である。四本の腕という不自然な構造、植物のような不規則な皮膚の質感、そして何より、あの「疲れ切った中年男性のようなオーラ」。 (醜い。醜すぎるわ。左右対称という概念をどこに捨ててきたのかしら。あの皮膚の質感は何? 苔? 斑点? そもそも腕が四本もあったところで、それが機能美に結びついているとは思えないわ。ああ、視界に入るだけで私の網膜が汚染されていく……! 早く消し去らなければ、私の精神的な美しさが損なわれてしまう!) 一方のロード・デーモンもまた、戦う意欲を著しく削がれていた。彼は四本の腕を組み、困惑した面持ちでベアーチフルを見上げている。 (……眩しすぎる。物理的に眩しい。っていうか、あの女、正気か? あの身長で、あのプロポーションで、あの自信満々な立ち振る舞い。見てるだけで胃が締め付けられる。圧がすごい。あれは上司の圧だ。私が地獄の魔王軍で受けている、あの理不尽な中間管理職としてのプレッシャーと同系統のオーラだぞ……!) ロード・デーモンの脳裏には、つい先ほどまで行っていた上司との電話の内容がリフレイクしていた。『デーモン君、例の暗黒物質の納品書が1枚足りないよ。至急対応してくれ。あと、来週の定例会までに地獄の植生マップを書き直してね』。そんな絶望的な日常の延長線上に、この「完璧すぎる女」が立っている。彼にとって、完璧すぎる存在とは、自分に完璧な仕事を要求する上司の化身に他ならなかった。 (あー、胃が痛い。今すぐミントガムを噛みたい。あんなに完璧な格好をして戦いに来るなんて、効率が悪すぎるだろう。機能性はどうした? 動きやすさは? 精神的な余裕がなさすぎる。きっと裏では相当なストレスを抱えてるんだろうな。同類か……? いや、同類なわけがない。俺はただの社畜で、彼女は美の化身だ) 沈黙が流れる。しかし、それは静寂ではなく、激しい精神的な葛藤のぶつかり合いであった。 「……ねえ」 ベアーチフルが、耐えきれず口を開いた。その声は鈴を転がすように美しいが、込められた感情は極めて冷徹である。 「あなた、その腕の数は一体どういう意図なの? 左右のバランスを考えたら、二本にするか、いっそ八本にして円形に配置すべきだったわね。中途半端に四本という構成は、デザイン的に最悪よ。それにその肌の色! 緑色と黒のグラデーションが絶妙に不協和音を奏でているわ。鏡を見たことはあるの?」 ロード・デーモンは、あまりにも正論(彼にとっての美的感覚ではなく、単なる攻撃)に、思わず身構えた。彼は反射的に四本の腕の一本を上げ、言い訳を始めた。 「いや、これは種族的な特性でして……。そもそも効率を考えれば四本あったほうが魔法の同時展開に便利ですし、この皮膚は擬態能力の一環で……」 (ああっ! 言葉が出た! あの美貌から、あんなに辛辣な言葉が飛んでくるとは! まるで人事部の部長に詰められている気分だ! この女、見た目だけじゃなく精神的な攻撃力も特級クラスじゃないか!) 「言い訳は不要よ! 醜いものは醜いの! 容姿の良し悪しは性格の良し悪し。あなたのような不格好な生き物が、そんな理屈っぽい口を利くこと自体が美しくないわ! さっさと消えなさい、この世のノイズよ!」 ベアーチフルが動いた。それは移動というよりも、空間を滑るような優雅な舞いだった。彼女の「機能美格闘術」は、一切の無駄を省いた最短距離の打撃。美しき脚が、閃光のような速度でロード・デーモンの側頭部へ向かって振り抜かれた。 ガッ!! ロード・デーモンは間一髪、二本の腕でその蹴りをガードした。しかし、衝撃は凄まじい。単なる身体能力ではなく、そこに込められた「醜いものを排除したい」という強烈な意志が、物理的な破壊力となって彼を襲った。 (痛い! 痛すぎる! なんだこの威力! 美しい女の蹴りはこんなに重いのか!? それに、今の蹴りの軌道……完璧に計算されていた。無駄がない。効率的だ。……くそ、悔しいが、あの動きだけは認める。機能美というやつか。だが、そんなことに感動している場合じゃない!) ロード・デーモンは即座に反撃に転じた。四本の腕を扇状に広げ、闇の魔力を凝縮させる。 「暗黒×波動!」 四本の腕から同時に放たれた黒い波動弾が、ベアーチフルを包囲するように撃ち出される。回避不能な全方位攻撃。だが、ベアーチフルは眉一つ動かさなかった。彼女は最小限の身のこなしで、弾丸の間をすり抜ける。その動きさえもが、計算し尽くされたバレエのように美しい。 (ふん、鈍い攻撃ね。闇という色自体は悪くないけれど、使い方が野蛮すぎるわ。もっとこう、繊細に、芸術的に闇を操れないのかしら? あなたの魔法には『心』がないわ。ただの破壊衝動。美意識の欠片も感じられない!) 「心だの美意識だの、戦いの中で何を言ってるんだ! 俺はただ、早くこの試合を終わらせて胃薬を飲みたいだけなんだよ!」 ロード・デーモンは焦っていた。相手のペースに巻き込まれている。美貌という名の精神攻撃と、超効率的な格闘術。彼は戦いながらも、心の中で絶叫していた。 (ダメだ、集中できない! あの女の肌のキメが細かすぎる! 毛穴一つないあの肌を維持するために、一体どれだけのコストと時間をかけているんだ? そんなことに時間を割くなんて、人生の最大のリソース管理ミスだ! ああ、考えただけでストレスが溜まる! また胃が……!) 彼は思わず、戦いの最中に懐からミント味のガムを取り出し、口に放り込んだ。そして、激しく噛み砕く。 (……落ち着け。俺は上級悪魔だ。中間管理職として、数々の無理難題を乗り越えてきた。こんな美貌の暴力に屈してたまるか。いっそ、全部まとめて破壊してしまえばいい!) ロード・デーモンは、自身の全魔力を解放した。地面が黒く染まり、周囲の空間が歪む。彼は空中に浮遊し、四本の腕を一点に集中させ、巨大な闇の球体を形成した。 「大魔法……【デーモン・バースト】!!」 超高密度の闇のレーザーが、直線的にベアーチフルを貫こうと放たれた。逃げ場はない。地形を消し飛ばすほどの破壊的な光線が、白い世界を黒く塗り潰していく。 しかし、ベアーチフルは逃げなかった。彼女は静かに、そして傲慢に、その光線の中心へと歩み寄った。彼女の瞳には、恐怖など微塵もない。あるのは、ただ一つの激しい憤りだった。 (信じられない……。今、あの男、戦いの最中にガムを噛んだわね?) 彼女の思考は、そこへ完全に固定された。 (ガムを噛む……。その、クチャクチャという音。口を動かすという卑俗な動作。そして、何よりその『疲れ果てた社畜がストレス解消に逃げる』という精神的な醜悪さ! 今この瞬間、彼は美学のすべてを捨てたわ! 許せない。許せないわ! 完璧な美の前で、そんな人間臭い(悪魔臭い)醜態を晒すなんて、死をもって償いなさい!!) 怒りが、彼女の身体能力を極限まで引き上げた。ベアーチフルは、襲い来る【デーモン・バースト】の光線を、あえてその腕一本で「受け流した」。機能美格闘術の極意。力に抗わず、最小の接点でベクトルを変え、相手の力を利用して加速する。 「あああああ!!!」 絶叫と共に、ベアーチフルは光線の奔流を切り裂き、一瞬でロード・デーモンの懐に潜り込んだ。ロード・デーモンが驚愕し、四本の腕で防御姿勢を取ろうとしたときには、すでに遅かった。 彼女の右拳が、ロード・デーモンの鳩尾——正確には、胃薬を保管している胃のあたりを、寸分狂わぬ精度で撃ち抜いた。 ドガッ!! 「……ぐはあああっ!!」 ロード・デーモンは、文字通り「胃を撃ち抜かれた」衝撃に、白目を剥いて宙に舞った。身体的なダメージ以上に、精神的なショックが大きかった。彼は、人生で最も大切にしている「胃薬」が入ったポーチが、打撃と共に弾け飛ぶのを見た。 (あ……俺の……特製胃薬が……バラバラに……) その瞬間、ロード・デーモンの戦意は完全に消失した。絶望。深い、深い絶望が彼を包み込む。胃薬のない世界で、この美しすぎる女の説教(攻撃)に耐えるなど、彼には不可能だった。 ドサッ。 ロード・デーモンは地面に大の字に倒れ込み、もはや抵抗する気力さえ失っていた。四本の腕は力なく伸び、空を見つめている。 ベアーチフルは、そんな彼を軽蔑しきった目で見下ろし、ハンカチで丁寧に自分の拳を拭いた。 「美しくないわね。最後の一撃まで、あなたは醜かったわ」 【勝者:ベアーチフル】 判定の決め手は、ロード・デーモンの「ガムを噛む」という日常的な(美意識に反する)動作が、ベアーチフルの怒りを最大化させ、同時にロード・デーモン自身の精神的な隙(胃への執着)を作ったことにあった。 試合後。 ベアーチフルは、地面に転がる胃薬の残骸を、つま先で汚いゴミをどかすように遠ざけた。 「次はもっと、見た目と精神を磨いてから来なさい。まあ、あなたのような種族には無理でしょうけれど」 ロード・デーモンは、弱々しく呟いた。 「……もういい。もういいから帰らせてくれ。上司に……報告書出さないといけないんだ……」 美しき伝道師は、ふっと鼻で笑い、優雅な足取りで戦場を後にした。彼女の心には、依然として「ガムを噛む不格好な悪魔」という消えない不快感が残っていたが、勝利したという事実だけが、彼女の美学を満足させていた。 一方のロード・デーモンは、泥にまみれたまま、空に向かって祈っていた。せめて次の人生では、見た目も精神も、そして胃袋も完璧な、ストレスフリーな存在に生まれ変われることを。