冷たい。肺に流れ込む空気は湿り気を帯び、カビと埃の混じった不快な臭いが鼻腔を突き刺す。意識が戻ったとき、最初に感じたのは地面の硬さと、自分の体の違和感だった。 (……ここはどこだ?)」 思考は明確だった。しかし、口から出たのは言葉ではなく、情けないほどに高い「にゃー」という鳴き声だった。驚いて視線を落とすと、そこには白く柔らかな毛に覆われた短い四肢があった。肉球。しっぽ。そして、鋭い爪。私は、猫になっていた。 つい先刻まで、私はジャック・ラッセル・テリアとして、この世界の理を超越した存在だったはずだ。あらゆる時間停止を無効化し、神の寵愛を受け、不純なるものを浄化する最強の守護者。だが、今の私にそんな力があるのか。軽く前足を動かしてみるが、そこにあるのはただの動物としての愛らしさと、空腹による腹鳴だけだった。能力が消えたのか、あるいはこの小さな体に封印されたのか。状況を把握する間もなく、周囲の暗闇が私を飲み込もうとしていた。 そこはサンクトペテルブルクの路地裏だった。石畳は凍てつくように冷たく、灰色の空からは絶え間なく霧雨が降り注いでいる。私は濡れた毛を震わせ、助けを求めて鳴いた。しかし、通り過ぎる人々は皆、厚いコートの襟を立て、視線を落として足早に去っていく。誰もが何かに急ぎ、何かに怯え、心を閉ざしていた。 どれほどの時間が経過しただろうか。空腹と寒さで意識が朦朧とし始めたとき、一人の男が私の前で足を止めた。 痩せこけていた。顔色は青白く、目の下には深い隈が刻まれている。着古した、あちこちが擦り切れた古ぼけた上着を身に纏い、その瞳には絶望と、それ以上に鋭い「何か」が宿っていた。彼はしばらくの間、じっと私を見下ろしていた。その視線は冷徹でありながら、どこか自分と同じ絶望の淵にいる同類を見つけたかのような、奇妙な共鳴を含んでいた。 「……お前も、行き場がないのか」 掠れた声だった。彼はゆっくりと屈み込み、震える手で私の首筋を撫でた。その手は氷のように冷たかったが、同時にひどく震えていた。私は本能的に感じ取った。この男の心の中には、どす黒い澱のような感情と、それを正当化しようとする危うい論理が渦巻いている。不純だ。あまりに不純すぎる。本来の私であれば、その神聖な力で彼を浄化していただろう。 だが、今の私はただの猫だ。そして、この凍える路地裏で、この男だけが私に手を差し伸べてくれた。 彼は私を上着の内側に抱き上げた。そこには、冷たい金属の感触がある硬いものが隠されていた。斧か、あるいはそれに類する凶器だろう。不吉な予感がした。しかし、抱きしめられた温もり——いや、温もりと呼ぶには心許ない体温——に抗えず、私は彼の胸の中で小さく喉を鳴らした。 「名は……そうだな。とりあえず『ミロ』としよう」 そう名付けられた瞬間、私はこの男、ラスコーリニコフの運命に巻き込まれることになった。かつての最強の犬としての矜持は、今は小さな猫の鳴き声へと変わっていたが、私の知能はそのままだった。私は決めた。この危うい精神を持つ男が、どこへ向かおうとしているのか。その行く末を見届けようと。