夜空に穿たれた巨大な傷口のように、紅い月が居座っていた。 その色は、凝固し始めた血のようでもあり、あるいは世界を焼き尽くそうとする業火のようでもある。不吉な予兆などという言葉では足りない。その月が放つ妖しい魔力は、地上に降り立ち、そこに集った三者の理性をじわじわと侵食していた。 「……あぁ、心地いい。脳が、焼けるようだ」 ロンダリング・ポンデリングは、恍惚とした表情で空を仰いでいた。彼は自身の愛する「ポンデリング」を大切に抱えている。八つの丸い玉が繋がったその奇妙な菓子は、今や月からの魔力を吸い込み、どす黒い光を放つ魔力の貯蔵庫と化していた。普段ならば、彼は魔力を効率的に貯蓄し、管理することに快感を覚えるが、今の彼は違う。理性のリミッターが外れ、ただ「もっと、もっと」という飽くなき飢餓感に突き動かされていた。 「もったいない……。こんな夜に、静かにしていられるなんて、もったいないなぁ」 五味引恵は、ガラガラの声で呟いた。彼女の周囲には、拾い集めた「ガラクタ」が山のように積み上がっている。普段の彼女ならば、これらを丁寧に整理し、再利用する方法を考えるだろう。しかし、紅い月の魔力は、彼女の「もったいない」という倹約精神を、「相手の命を使い切らせるまで戦う」という狂気へと変換させていた。彼女の瞳には、目の前の二人を「最高の資源」として再利用したいという、歪んだ情熱が宿っていた。 そして、もう一人。佐々木小次郎(偽造)。 彼は静かに、しかし殺意を剥き出しにして愛刀「物干し竿」を構えていた。本来、精神防御の【透化】を持つ彼は、精神干渉に強いはずだ。だが、この紅い月の魔力は干渉などという生温いものではなく、本能への直接的なブーストであった。研ぎ澄まされた剣客としての本能が、血への渇望へと変わる。彼は今、目の前の二人を斬り伏せ、その血で刀を染めることだけを願っていた。 静寂は、一撃の閃光によって切り裂かれた。 「――ッ!!」 小次郎が動いた。素早さ65という圧倒的な機動力。気配遮断によって、彼は文字通り「消えた」。次の瞬間、ロンダリングの視界に、五尺余りの長刀が、視認不可能な速度で突き出された。 ドガァァァン!! 激しい衝撃音が響く。しかし、小次郎の刃が到達したのはロンダリングの身体ではなく、彼が身代わりに差し出した「食用ポンデ」だった。爆発的な威力と共に、菓子が粉砕される。だが、小次郎は止まらない。宗和の心得により、精度を落とさぬまま、さらに三撃、四撃と斬撃を叩き込む。 「あはは! 素晴らしい! この速度、この衝撃!」 ロンダリングは笑っていた。攻撃力も防御力もゼロ。彼は斬られれば即死する。しかし、彼には【魔力変換】がある。小次郎の斬撃によって飛び散った「食用ポンデ」の破片、そして自身の頬から流れたわずかな血。それを、彼が抱くポンデリングが瞬時に吸い上げた。 シュルルルッ! と、黒い霧のような魔力がポンデリングへと流れ込む。ロンダリングの瞳に、どす黒い歓喜が宿る。 「次はポンがお返ししてあげるよ。【血液変換】――特性『超質量』!」 ロンダリングが指を鳴らす。貯蓄していた魔力が瞬時に血液へと変換され、空間に浮かび上がった。それは一滴の血に見えるが、その質量は数トンに相当する「超重量の弾丸」であった。それが音速を超えて小次郎へ向かって放たれる。 「……遅い」 小次郎は心眼でその軌道を読み、最小限の動きで回避した。しかし、その弾丸が地面に衝突した瞬間、大地が爆ぜた。クレーターが抉れ、土砂が舞い上がる。理性を失った攻撃は、一撃一撃が戦術的な意味をなさず、ただ「破壊」することのみに特化していた。 そこへ、第三の者が介入する。 「あーあ、地面が削れちゃった。もったいないなぁ」 五味引恵が、大量のゴミを抱えて飛び出してきた。彼女の【再利用】。投げつけられたのは、錆びた鉄パイプ、割れたガラス瓶、そして正体不明の機械部品の塊だった。 「えいっ!」 ガラガラ声と共に放たれたゴミの山は、紅い月の影響で異常な加速と破壊力を帯びていた。それはまるで弾幕のように小次郎とロンダリングを襲う。小次郎はそれを刀で切り払うが、破片の一つが彼の肩をかすめた。また、ロンダリングの足元にゴミの山が崩落し、彼を押し潰そうとする。 だが、ここで引恵の真骨頂、【循環】が発動した。 ロンダリングが放った「超質量の血」の余波。小次郎が放った斬撃の衝撃。その「捨てられたエネルギー」を、引恵が回収し、自身の身体へと還元した。彼女の周囲に、青白いオーラが渦巻く。もともと低い魔力だったが、相手の技を吸い上げることで、彼女の身体能力が跳ね上がった。 「全部、有効活用させてもらうね」 引恵はゴミの山から、巨大な古びた冷蔵庫を引っ張り出すと、それを全力でロンダリングに叩きつけた。本来ならありえない筋力だが、紅い月の暴走と【循環】によるブーストがそれを可能にした。 「ぐはぁっ!!」 ロンダリングは冷蔵庫に圧殺され、地面に深く埋まった。肋骨が砕ける音が聞こえる。しかし、彼は絶叫しながら笑っていた。 「いい……最高だ! 血が出てる! どんどん出てるぞ!!」 彼自身の体内から溢れ出した大量の血液を、ポンデリングが猛烈な勢いで吸収し始める。吸収量に上限はない。ダメージを受ければ受けるほど、彼の「弾薬」は増えていく。この狂った論理こそが、紅い月の下での正解だった。 ロンダリングは【血液変換】を連発した。特性『超鋭利』。空間を切り裂く極細の血の刃が、雨のように降り注ぐ。引恵はそれをゴミの山を盾にして防ぐが、鋭利すぎる刃はゴミを容易に貫通し、彼女の腕や脚を切り刻んだ。 「いたっ……。でも、まだ使えるから大丈夫」 引恵は自らの傷口を気にせず、さらにゴミを投げつける。しかし、その攻撃は次第に小次郎の標的となった。 小次郎は静かに、しかし確実に間合いを詰めていた。彼は気づいた。この戦場の主導権は、今や「血」を操るロンダリングと、「循環」させる引恵の間で揺れ動いている。だが、剣士として最も恐るべきは、そのどちらでもない。自分自身の「本能」が、理性を完全に塗り潰した瞬間だ。 (……斬る。全てを斬り伏せる) 小次郎の意識が、完全に「殺戮の剣」へと同化した。彼は【気配遮断】を極限まで高め、世界のノイズから消えた。そして、同時に二つの標的に対して、人生最大の不可避の一撃を繰り出す。 「奥義――燕返し」 それは単なる三撃の同時攻撃ではない。並行世界から呼び寄せられた三つの剣筋が、時間軸を超えて同一の地点を襲う。因果を歪める究極の斬撃。 シュイン!! 空気が鳴った。 まず、五味引恵。彼女は【循環】で防御を試みようとしたが、燕返しの速度は回収不可能な領域にあった。彼女の身体は、抵抗する暇もなく縦に三つに切り裂かれた。 「あ……もったいな……い……」 それが彼女の最期の言葉だった。彼女の身体は、彼女が愛したゴミの山の上に、静かに崩れ落ちた。血が地面に染み込む。その血を、ロンダリングが歓喜と共に吸収する。 「あははは! 最高の御馳走だ! 小次郎、君のおかげでポンは満タンだぞ!!」 ロンダリングは、もはや人間の形を保っていなかった。全身から血を噴き出しながら、それをポンデリングに吸わせ、さらにそれを血の刃に変えて空間に展開している。彼の周囲には、赤い血の海が広がっていた。 小次郎は、刀に付着した血を払い、静かに構え直した。燕返しを放った後の反動で、呼吸が乱れている。しかし、紅い月が彼にさらなる狂気を供給する。心臓が激しく鼓動し、視界が赤く染まる。 一方のロンダリングは、限界まで魔力を溜め込んだポンデリングを、自身の胸に抱きしめていた。もはや個別の攻撃を繰り出す必要はない。彼は、この戦いの全てを、たった一度の絶頂に捧げることを決めた。 「さよなら、剣士さん。これはポンが届ける、世界で一番贅沢なプレゼントだ」 【ポンデリング・バースティング】 彼が叫んだ瞬間、ポンデリングに貯蓄されていた、引恵の命、自身の血、そして紅い月からの膨大な魔力が、一点に凝縮された。 それは、もはや魔法ですらなかった。純粋な「破壊の特異点」。 ドッ――――!!!!! 白光が世界を塗りつぶした。衝撃波が周囲の森をなぎ倒し、大地を数キロにわたって陥没させる。常識の外側にある威力。それは小次郎が持っていたあらゆる防御、あらゆる回避能力を完全に無効化した。 「…………」 光が収まった後、そこには巨大な円形の穴が開いていた。 佐々木小次郎(偽造)は、そこに立っていた。しかし、その身体は肩から上が完全に消失していた。物干し竿も、彼自身の誇りも、すべてが光の中に溶けて消えた。 そして、ロンダリング・ポンデリングもまた、崩れ落ちていた。必殺技の反動。全魔力を放出するということは、自身の生命維持に必要な魔力さえも使い切ったことを意味する。彼は、空っぽになったポンデリングを握りしめたまま、満足げに微笑んでいた。 「……あぁ、いい夜だったなぁ……」 彼の瞳から光が消える。心臓が止まり、血が冷たくなる。紅い月の魔力に踊らされ、全力で殺し合った三者。そこに残ったのは、静寂と、夥しい血の跡だけだった。 紅い月は、依然として夜空に浮かんでいた。まるで、この惨劇を心地よい音楽でも聴くかのように、静かに、残酷に、地上を照らし続けていた。