次元の狭間に構築された、白一色の無機質な待機室。そこは「闘技場」へと繋がる中継地点であり、選ばれし戦士たちがその出番を待つための静寂の檻であった。壁も天井も床も、すべてが境界線のない白に塗り潰されており、距離感さえも曖昧な空間である。ここでの絶対的なルールは二つ。「蛮行の禁止」と「会話の非推奨」。互いの能力を誇示し合い、不必要に血を流すことは禁じられており、また精神的な消耗を避けるため、口を開くことも推奨されていない。 しかし、集められた三人の個性に、そのような規律が機能するはずもなかった。もっとも、彼らが「規律を破ろう」という意欲さえ持っていたなら、話は早かったのだが。 まず、部屋の隅に、まるで最初からそこにあった家具であるかのように、一人の青年が転がっていた。【サボリスタユルさま】ことユルキキである。彼は支給された簡易的なベッドさえ利用せず、冷たい白い床の上に直接、大の字になって寝そべっていた。寝癖のついた髪が床に広がり、眠たそうな目は半分閉じたまま、視線はどこまでも虚空を漂っている。彼は、この静寂というルールを誰よりも好んでいた。なぜなら、喋らなくていいし、動かなくていいからだ。 ユルキキは、ゆっくりと、本当にゆっくりと、右手の指先をピクつかせた。それは何かを攻撃しようとする動きではなく、単に「指を動かすという行為」自体を極限までサボった結果の、微々たる痙攣に近い。彼は大きなため息をついた。「はぁ……。わざわざここまで呼ばれて、戦わなきゃいけないなんて、効率が悪すぎる……」と心の中で呟く。口に出せばルール違反になるかもしれないが、心の中での独り言くらい、誰にも制限できない。彼はそのまま、まぶたの重さに抗うことを完全に放棄した。意識がまどろみの底へと沈んでいく。彼にとって、この待機時間は「最高の休息時間」であった。たまにポケットから、いつの間にか紛れ込んでいた飴玉や、正体不明のレシート、あるいは小さな消しゴムのようなものが転がり出したが、彼はそれを拾い上げる手間さえ惜しみ、そのまま放置した。白い床の上に散らばる雑多な小物たち。それが、彼がそこに存在している唯一の証明であった。 一方、その数メートル先では、銀髪のショートヘアを揺らした少女が、呆れたような表情で天井を見上げていた。怠惰なメイドロイド、チェダーである。彼女は完璧なメイド服を身に纏っていたが、その立ち姿には気品など微塵もなく、ただただ「面倒くさい」というオーラが全身から溢れ出していた。彼女は、この待機室の「会話非推奨」というルールに深く同意していた。喋るということは、肺を動かし、喉を震わせ、相手の反応を計算して言葉を選ばなければならない。そんな高度にエネルギーを消費する作業は、彼女のプログラムに組み込まれた「怠惰」という基本理念に真っ向から対立する。 チェダーは、静かに右手をかざした。スキル「生成」の発動である。瞬時に、真っ白な空間に不釣り合いな、どっしりと重厚で深いワインレッドのソファが出現した。彼女はそこへ、重力に身を任せるようにドサリと深く腰掛けた。ソファに深く沈み込む感覚。それこそが彼女にとっての至福であった。彼女は懐から、のり塩味のポテトチップスの袋と、キンキンに冷えたコーラのボトルを取り出した。カリッ、という小さな音が静寂に響く。ルールでは蛮行は禁止されているが、ポテチを食べることは蛮行に当たらないはずだ。彼女は、ポテチを一枚、ゆっくりと口に運ぶ。塩気の強い刺激が味覚を刺激し、それに続いて冷たいコーラが喉を駆け抜ける。彼女は、この贅沢な時間を永遠に続けたいと願った。闘技場に出るということは、誰かに攻撃されるということだ。攻撃されれば、防御しなければならない。防御すれば、反撃しなければならない。そんな連鎖的な労働に、彼女は心底嫌気が差していた。ソファに展開した強力な結界が、外の世界の喧騒を完全に遮断している。彼女はゲーム機を取り出し、画面の中の仮想世界に没頭し始めた。現実の戦いなど、このゲームのクエストよりも価値がないと考えていた。 そして、その二人から少し離れた場所で、ただ一人、直立不動で佇む青年がいた。海皇ファングである。彼は腕を組み、鋭い眼光で正面を見据えていた。その佇まいは、まさに「強者の余裕」そのものである。周囲から見れば、彼はこの静寂を楽しみ、来るべき戦いに向けて精神を研ぎ澄ませている、孤高の武人に見えただろう。彼が纏う空気は重く、威厳に満ちていた。しかし、その内実は、絶望的なまでの恐怖であった。 (……怖い。怖い。怖い。なんで俺、ここに呼ばれたんだ!? 周りの奴ら、全然緊張感がないじゃないか! あの寝てる奴は正気か? あのポテチ食ってる女の子は、俺のことなんて眼中にもないのか? それとも、あえて余裕を見せて俺を油断させようとしている高度な心理戦なのか!?) ファングの内心は、パニック状態にあった。心臓は早鐘のように打ち、冷や汗が背中を伝っている。しかし、彼が極度に緊張すればするほど、外見的な挙動は「静止」へと向かう。震えを止めるために全身に力を込めた結果、それが周囲には「不動の構え」に見え、鋭く見開いた目は「獲物を逃さない捕食者の眼光」に見えていた。彼は、もはや自分の意志で表情を緩めることさえできなくなっていた。もはやこれはギャグの域に達していたが、本人だけがそれに気づかず、必死に「強者」を演じ続けていた。 ファングの周囲には、彼の能力「降雨」によって、かすかな霧のような雨が降り注いでいた。白い部屋の中にだけ存在する局所的な雨。雨粒が床に落ちる「チッ、チッ」という規則的な音が、静寂をさらに強調する。彼はこの雨を通じて、待機室全体の情報を把握していた。ユルキキの心拍数は極限まで低く、ほぼ冬眠状態であること。チェダーの意識はゲームの画面に集中しており、外界への関心はゼロであること。そして、自分自身の心拍数だけが、異常なほどに跳ね上がっていること。 (この雨で全部わかる……。わかるけど、それが余計に怖い! あいつら、本当に戦う気がないのか? それとも、俺が戦うまで待っているのか!? クソッ、誰か先に喋ってくれ! この沈黙が一番精神的にくるんだよ!) ファングは、心の中で絶叫していた。しかし、口から出たのは、かすかな、しかし威厳のある「ふん」という鼻笑いだけだった。彼は自分でも意図せず、ただの癖で鼻を鳴らしただけだったが、それを見たチェダーは(ふーん、余裕ぶってるタイプね。めんどくさい)と思い、ユルキキは(……あ、雨の音が心地いいな……)と、さらに深い眠りに落ちた。 時間は、残酷なほどにゆっくりと流れていた。白い壁が、次第に視界を圧迫してくる。ユルキキは一度、寝返りを打った。その際、ポケットから古びたコインが一つ転がり出た。コインは白い床の上をコロコロと転がり、チェダーのソファの結界に当たって跳ね返り、そのままファングの足元まで転がっていった。ファングは、その小さなコインの動きにさえ「何らかの暗号か、あるいは攻撃の予兆ではないか」と戦慄した。彼は、コインを凝視したまま、数分間凍りついた。その様子は、まさに「敵の出方を冷静に分析する軍師」のようであった。 チェダーは、ゲームのステージをクリアし、ふう、と小さく息を吐いた。彼女はポテチの袋の底に残ったかけらを、指で丁寧に拾い上げ、口に放り込んだ。彼女にとって、この待機室での唯一の目的は、いかにして「戦わずに済ませるか」を考えることだった。もし相手が弱ければ、閃光弾を投げて即座に逃げる。もし相手が強ければ、ソファの結界の中で時間を潰し、相手が飽きて帰るのを待つ。それが彼女の最適解であった。 ユルキキは、夢の中で、どこまでも広がる綿あめの雲の上を漂っていた。そこには戦いも、責任も、締め切りもない。ただただ、心地よい風が吹き抜け、誰かが代わりにすべてを片付けてくれる世界。彼はその夢の中で、心地よい幸福感に浸っていた。現実の世界で、自分の身体がどのように扱われようとも、彼には関係なかった。彼のスキル「サボる能力」は、無意識下でも発動し続けており、待機室という空間がもたらす精神的な圧迫感さえも、彼は「サボって」スルーしていた。 こうして、三人はそれぞれの「怠惰」と「恐怖(を余裕に見せること)」を抱えながら、終わりのない静寂の中にいた。一人は眠り、一人は食べ、一人は震えていた。しかし、その光景を客観的に見れば、そこには奇妙な均衡が保たれていた。誰一人として、積極的に相手を攻撃しようとする意志を持たなかったからである。 だが、この静寂は、闘技場のシステムによって強制的に終了させられる運命にあった。彼らがここに集められたのは、観客に「戦い」を見せるためである。永遠に待機室で時間を潰させることは、運営側にとって最大の損失であった。 やがて、白い空間に、突如として電子的な警告音が鳴り響いた。それは、安らかな眠りを妨げる不快な高音であり、ゲームの没入感を切り裂くノイズであり、極限状態の精神を突き刺す衝撃波であった。 「――ギィィィィィィィィィン!!」 ユルキキが、びくりと肩を揺らした。彼は半分閉じた目を見開き、「……ん? もうお昼寝の時間終わり?」とぼんやりと呟いた。ルール違反の会話であったが、もはやどうでもよかった。彼は大きなあくびをしながら、ゆっくりと身体を起こした。寝癖はさらにひどくなっており、髪が一本、アンテナのように直立している。 チェダーは、不機嫌そうにゲーム機を電源オフにした。彼女はソファに深く沈み込んだまま、ジト目で空間を見上げた。「あー……最悪。ちょうどいいところだったのに。誰が設計したこのシステム、後でクビにしてほしい」と、小声で毒づいた。彼女は手元のコーラを飲み干し、空のボトルを適当に床へ転がした。 ファングは、心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃を受けた。彼は飛び上がらんばかりに驚いたが、外見上は、ただゆっくりと腕組みを解き、静かに足を踏み出しただけに見えた。その一歩は、地響きを立てるほどに力強く、威厳に満ちていた(実際は、膝がガクガクに震えていたため、足が不自然に強く地面を叩いただけである)。 白い壁が、左右にゆっくりとスライドし始めた。その向こう側には、まばゆい光に照らされた巨大な円形闘技場が広がっていた。数万の観客が、新たな戦士たちの登場を待ちわびて、地鳴りのような歓声を上げている。その喧騒が、静寂に慣れていた三人の鼓膜を激しく叩いた。 ユルキキは、眩しさに目を細めながら、「まあ、急いでどこか行かなくていいんでしょう?」と、いつもの調子でため息をついた。彼は戦う気がさらさらないが、とりあえず呼ばれたから行く、という極めて適当な精神状態で、光の中へと歩き出した。 チェダーは、ため息と共にソファから立ち上がった。彼女はショットガンを肩に担ぎ、ナイフを軽く弄ぶ。彼女の目的はただ一つ。「いかに最短ルートで、この面倒なイベントを切り上げて、家に帰って寝るか」である。彼女は欠伸をしながら、戦場へと足を進めた。 ファングは、観客の歓声を聴き、さらに絶望した。これだけの人数に見られている。失敗すれば、恥ずかしい。かといって、勝ちすぎればさらに期待される。彼は、もはや逃げ場のない状況に、意識が飛びそうになった。しかし、彼が闘技場のゲートを潜った瞬間、その背中からは、海を統べる王にふさわしい、圧倒的な覇気が溢れ出していた(本人は、あまりの恐怖に全身の筋肉が硬直していただけである)。 三人の戦士が、闘技場の中心で対峙する。 ユルキキは、適当に片手を挙げて挨拶し、そのまままたあくびをした。 チェダーは、「めんどくさいのでお断りします」と、あらかじめ決められた拒否宣言を口にし、再びソファを生成しようとした。 ファングは、何も言わず、ただ鋭い眼光で二人を射抜いた。その内側では、(誰かお願いだ、俺に話しかけないでくれ! 喋ったらボロが出る!)と、悲鳴のような祈りが捧げられていた。 そして、闘技場の空に、巨大なホログラムの文字が浮かび上がる。 【バトル・スタート】 その合図と共に、運命の歯車が回転し始める。次回、いよいよ怠惰と恐怖と幸運が激突する――。