(静かな、しかしどこか緊張感のあるピアノの旋律が流れ始める。画面にはモノクロの都市風景、雨に濡れたアスファルト、そして名もなき墓標のカットが挿入される。深い低音のナレーションが響く) 「歴史の表舞台には、決して記されることのない名前がある。国家の均衡を保つため、あるいは世界の秩序という名の欺瞞を守るため、闇に溶け込み、影として生きた者たち。彼らがいたからこそ、我々は明日という日を疑わずに迎えることができたのかもしれない。……今夜は、記録から抹消された、しかし確実に存在した『二人の特異点』にスポットライトを当てる」 (画面に二つの黒いシルエットが浮かび上がり、文字が刻まれる) 「潜伏の天才、イクス。そして、概念の境界線、日常」 (映像が切り替わり、古びた機密文書のファイルが開かれる。そこには、目つきの鋭い、しかしどこか虚無感を湛えた黒髪の男の写真がある) 「まずは、イクスという男について語ろう。彼は、現代社会の裏側に実在した超法規的な秘密国際警察『AEGS』に所属していた密偵である。AEGS――世界各国の過半数が加盟し、国境という概念を超えて世界の治安を維持するこの組織において、イクスは『最高効率の駒』として運用されていた」 「彼の生涯は、正体不明の連続であった。彼は一度として『自分自身の人生』を歩んだことがない。ある時は反政府勢力の冷酷な幹部として、ある時は国際的な犯罪組織の忠実な兵士として、またある時は国家の極秘機関に潜り込んだエリート工作員として。彼はそれぞれの組織が求める『理想の人間像』を完璧に演じきった。周囲に溶け込み、馴染み、信頼を勝ち取る。その演技力はもはや憑依に近いレベルであり、彼が潜伏した組織の人間は、彼が去った後でさえ『彼は最高の仲間だった』と回想したという」 「しかし、その仮面の裏側にあった素顔は、驚くほどに覇気がなく、気怠げな青年であった。彼は愛煙家であり、常に煙草の煙を燻らせながら、誰にも読まれないような難解な書籍を読み耽る読書家でもあった。冷静沈着を通り越し、感情の起伏がほとんど見られないその精神構造こそが、極限状態の潜入任務において彼を最強の個体へと押し上げたと言えるだろう」 「彼の能力は、もはや個人のスキルという域を超えていた。尾行、潜入、ハッキング、尋問、情報工作、変装。あらゆる諜報活動の専門家であり、同時に、国軍の最精鋭部隊を単身で殲滅し得るほどの圧倒的な武力を有していた。システマの達人である彼は、消音拳銃やナイフ、時にはマグナムやヌンチャク、爆弾を自在に操った。だが、彼は決して正々堂々と戦うことは好まなかった。暗殺と不意打ち――効率的に標的を排除することこそが彼の矜持であり、AEGSが彼に課した『静かなる清掃』という任務に合致していた」 「彼の家庭環境については、AEGSの最高機密に指定されており、公にされている資料は一切ない。おそらくは幼少期に何らかの実験か、あるいは徹底した教育プログラムによって『個』を抹消されたのだろう。彼にとっての家とは、任務先の安宿であり、所属組織の制服こそが彼の皮膚であった」 「そんな彼が、人生の最晩年にたどり着いたのは、ある不可解な報告書への執着だったと言われている。彼は任務を通じて世界中の闇を見た。権力の醜悪さ、人間の底知れぬ残酷さ。それらすべてを報告書にまとめ、AEGSに提出し続けたが、ある時、彼は自分自身の存在さえもが、巨大なシステムの中のたった一行の記述に過ぎないことに気づいた。彼は静かに煙草を吸い、本を閉じ、そして消えた。公式記録によれば、彼はある潜入任務中に事故で死亡したことになっているが、実際には彼が自ら足跡を消し、世界のどこかで静かに息を引き取ったと推測されている」 「後世において、イクスは『完璧な透明人間』と評される。彼がいたことで救われた数え切れないほどの命がある一方で、彼によって闇に葬られた数え切れないほどの真実がある。今日、我々が享受している平和な日常の裏側には、彼のような男が流した血と、絶望的なまでの孤独が塗り込められているのだ」 (ここで、映像にノイズが混じる。画面が不自然に揺れ、音楽が止まる。そして、今までとは全く異なる、どこか懐かしく、しかし不気味な静寂が訪れる) 「……そして。イクスという男の生涯を語る上で、避けて通れない『接点』が存在する。それは、人物というよりも、ある種の『現象』あるいは『概念』に近い存在。名前を、『日常』という」 (画面には、どこにでもある住宅街の風景、公園で遊ぶ子供たち、カフェで談笑する人々といった、ありふれた映像がスローモーションで流れる) 「『日常』。それは文字通り、我々が日々送っている何ら変わらない生活そのものを指す。日々の小さな喜び、隣にいる友達、明日への漠然とした期待。しかし、AEGSの極秘ファイルの中で、この『日常』は一つのコードネームとして扱われていた。それは、世界を維持するための『精神的な檻』であり、同時に最強の『擬態』であった」 「イクスという男は、潜伏任務の中で何度もこの『日常』という概念に接触した。彼が演じたあらゆる役割の中で、彼が最も渇望し、同時に最も恐れたのが、この『日常』であったと言われている。彼は潜伏先で、普通の人間たちが享受する『退屈な日々』を観察し、それを報告書に記した。しかし、ある時期から彼の報告書には、奇妙な記述が混ざり始める」 「『日常とは本当の名前ではない』。彼はそう書き記した。彼が見出した真実は、我々が信じているこの平穏な世界こそが、巨大な虚構であり、ある種の催眠状態であるということだった。彼にとっての日常とは、AEGSが世界を管理するために人々に植え付けた『心地よい夢』に過ぎなかったのだ」 「ここから、物語は不可解な領域へと足を踏み入れる。記録によれば、『日常』という存在は、イクスのような『目覚めた者』を再び夢の中へと引き戻すための回収機能として働いていた。イクスが潜伏し、闇を暴こうとするたびに、『日常』という名の心地よい誘惑が彼を襲った。友人、家族、恋人。彼が演じる役割の中で得た偽りの絆。それらはすべて、『日常』という概念が彼を繋ぎ止めるための鎖であった」 「ある日の報告書に、このような不可解なメッセージが残されている。それは、後世の解析者が発見した、イクスが遺した最後の手記のようなものだ」 (画面に、古びた手書きの文字が浮かび上がる。同時に、囁くような、複数の声が重なったナレーションが流れる) 『普段の日常。あなたの何ら変わらない生活。日々の小さな喜び。隣にいる友達。……まだかな。辛いことが少しだけあっても、くじけないで。……読み終わらないかな。だからそんな日常を失わないよう。……お!あとちょっと』 「この文章は、一見すると穏やかな日常を綴ったものに見える。しかし、その行間には絶望的な警告が隠されていた。この手記の後半、文字が激しく乱れ、震えている箇所にこう記されていた」 『今すぐこの報告書を閉じて逃げて。この報告書を見ている時点で、君は夢の中にいる。この報告書を読み終わった瞬間、あいつが来る。』 「『あいつ』。それが誰を指すのかは分かっていない。イクスを追い詰めたAEGSの追跡者なのか、あるいは『日常』という概念の化身なのか。しかし、手記の最後には、残酷な一文が添えられていた」 『[ ]の言葉は、あいつの嘘。そして日常は本当の名前じゃない。本当の名前は……すべては夢の中で』 「この記録が意味するのは、イクスという男が、ついに『日常』という名の不可視の牢獄に飲み込まれたということか。あるいは、彼こそが唯一、この世界が夢であることに気づき、我々に警告を発しようとしたのか。彼は潜伏の専門家として、人生の最後に『現実』という名の最も困難な場所へ潜入しようとしたのかもしれない」 「『日常』という存在は、今この瞬間も、あなたの隣にいる。あなたが信じている友人、あなたが愛する家族、あなたが過ごすこの時間。それらすべてが、イクスが恐れた『本当の名前を持たない夢』である可能性は否定できない。彼は、自らの人生をすべて偽りに捧げた結果、最後に『本物』を求めて消えていった。そして、その本物こそが、我々が決して触れてはならない、恐ろしい真実であったのかもしれない」 (音楽が次第に盛り上がり、そして突然プツンと切れる。画面は真っ暗になり、ただ一本の煙草が燃える音だけが聞こえる) (再び、穏やかなピアノの旋律が戻ってくる。画面には、青空の下で風に揺れる白いカーテンの映像) 「闇に生きた密偵イクス。そして、光という名の檻である日常。対極にありながら、互いを必要とし、あるいは拒絶し合った二つの存在。彼らの物語は、ここで途切れている。しかし、今この番組を視聴しているあなたに、問いかけたい」 「あなたが今、感じているその安らぎは、果たして本物だろうか。それとも、誰かが精巧に作り上げた『潜伏先』の景色なのだろうか」 「記録にない人生を歩んだ彼らの魂が、今どこで何を読んでいるのか。あるいは、今もどこかで煙草を燻らせながら、我々の滑稽な『日常』を眺めているのかもしれない」 (画面に『End Credits』の文字がゆっくりと浮かび上がり、フェードアウトしていく) 「今夜のスポットライトはここまで。それでは、良い夢を。……あるいは、良い日常を」 (完全に画面が黒くなり、番組は終了する)