空は、鈍色に塗り潰されていた。かつてそこが青かったことを覚えている者は、もうこの地にはいない。視界の端から端まで広がるのは、錆びついた鉄屑の山と、絶え間なく降り注ぐ灰色の雨だけだ。ここは、かつて人類が世界の頂点に君臨し、そして自らが作り出した「力」に飲み込まれた軍事特区――通称『廃棄区画』である。 その荒野を、一人の青年が歩いていた。 人工人間、Vector-11。黒い髪は雨に濡れ、頬には絶えず涙が伝っている。彼が泣いているのは、悲しいからではない。あるいは、怒っているからでもない。ただ、胸の奥に深く根を張った「疑心」という名の病が、彼から感情の制御を奪っていたからだ。 (なぜ、俺はここにいる……?) 彼は自問する。軍事施設で造られ、最強の兵士となるべく調整された身体。しかし、彼に与えられたのは破壊の技術だけでなく、皮肉にも「心」に近い何かだった。戦うことへの迷い。相手の痛みへの共感。それは軍にとって「欠陥」でしかなかった。役立たずとして捨てられたあの日から、彼の世界は色のない絶望に染まった。人間は信じられない。信じたものは必ず裏切り、必要なくなればゴミのように捨てる。それがVector-11が導き出した唯一の真実だった。 腰に帯びた一本の古びた剣。それは彼が唯一、自分自身の意志で持ち続けた「依代」だった。彼にとって剣は武器ではなく、自分がまだ存在していることを証明するための杖のようなものだった。 だが、その静寂を、地響きが切り裂いた。 ズゥゥゥゥン……ッ!! 大地が震え、積み上がった瓦礫が崩れ落ちる。雨のカーテンの向こうから、絶望的なまでの威圧感を纏った「巨躯」が現れた。全長十メートルに及ぶ、四足歩行の鋼鉄の獣。装甲は鈍い銀色に光り、その随所には高出力のエネルギー砲と、あらゆる兵器の粋を集めた武装が組み込まれている。 最終兵器、Vector-final。 Vectorシリーズの到達点にして、最悪の結末。そこには感情などという不確定要素は一切排除されていた。あるのはただ、効率的な破壊と、標的の抹殺というプログラムのみ。Vector-finalの赤いセンサーが、雨の中を走査し、唯一の生存者であるVector-11をロックオンした。 「……あぁ」 Vector-11の口から、小さな吐息が漏れた。彼は泣いていた。頬を伝う涙が、雨に混じって地面に落ちる。彼にとって、目の前の巨獣は鏡のようなものだった。もし自分が「心」など持たず、ただの機械として完成していたなら、自分もあのように無機質な破壊の化身になっていたのだろうか。 Vector-finalの内部演算装置が、瞬時にVector-11のスペックを分析する。 【個体識別:Vector-11。ステータス:旧式。戦闘能力:C。精神状態:不安定。結論:排除優先度・低。処理時間予測:十二秒】 無慈悲な分析結果とともに、Vector-finalの右前脚に搭載されたガトリング砲が火を噴いた。 ガガガガガガガッ!! 猛烈な弾丸の雨が、Vector-11の立っていた場所を抉り取る。土煙と火花が舞い上がり、視界を遮る。Vector-11は咄嗟に横へと跳んだが、その速度をもってしても、広範囲をカバーする弾幕を完全に回避することは不可能だった。肩と太ももを弾丸がかすめ、鮮血が舞う。 「……っ!」 Vector-11は地面を転がりながら、もがくようにして剣を構えた。しかし、相手は十メートルの巨躯だ。こちらがどれだけ速く動こうとも、相手の一撃は地形を変えるほどの質量を持つ。Vector-finalは、もはや獲物を追い詰める猟犬のような冷徹さで、ゆっくりと歩を進めた。 (まただ……また、俺は否定される) Vector-11の脳裏に、過去の記憶がフラッシュバックする。白く清潔すぎる実験室。冷たい目で自分を見下ろす科学者たち。「期待外れだ」「廃棄しろ」。言葉の刃が、肉体の傷よりも深く彼を切り刻んでいた。彼は、自分という存在がこの世界に必要とされていないことを、改めて突きつけられていた。 Vector-finalが、巨大な鋼鉄の爪を振り下ろした。 ドガァァァァン!! 爆音とともに地面が陥没する。Vector-11は間一髪で回避したが、衝撃波だけで身体が弾き飛ばされた。背中が硬いコンクリートの壁に叩きつけられ、肺から空気が無理やり押し出される。視界が白く染まり、意識が遠のく。 Vector-finalは追撃の手を緩めない。今度は肩部のエネルギー砲がチャージされ、不気味な青白い光が収束していく。それは、逃げ場のない死の宣告だった。 「……なぜ……」 Vector-11は、血に染まった地面に横たわりながら、空を仰いだ。雨はまだ降り続いている。彼にはわかっていた。今の自分では、この圧倒的な暴力に勝つ術はない。自分は弱い。迷っている。信じられない。だから、負けるのだ。 (俺は……生きたかっただけなのに) その願いは、あまりにも弱々しく、そして純粋だった。Vector-finalのセンサーが、ターゲットの心拍数の低下を検知する。処理完了まで、あと三秒。 ズゥゥゥゥン!! 至近距離から放たれた高出力エネルギー弾が、Vector-11の身体を正面から貫いた。凄まじい爆発が起き、周囲の瓦礫が吹き飛ぶ。Vector-11の身体は、衝撃で後方の壁に深く埋まり、そのまま動かなくなった。 静寂が訪れた。雨音だけが響く世界。Vector-finalは、標的の生命反応が消失したことを確認した。プログラムに従い、任務完了の信号を送信し、撤収体制に入ろうとした、その時だった。 ――カチッ。 小さな、金属が擦れる音がした。 Vector-finalのセンサーが、不可解な反応を捉える。死んだはずの標的から、今までとは全く異なる、極めて高密度のエネルギー反応が検出されたのだ。分析装置が全力で演算を開始するが、数値が跳ね上がり、エラーを吐き出す。 【警告:個体Vector-11のバイタルサイン消失。……再起動を確認。エネルギーレベル:計測不能。個体特性の変化を検知】 壁に埋まったままのVector-11の身体から、ゆっくりと、しかし力強く、黒い煙のようなオーラが立ち昇った。彼の身体を覆っていた服が、衝撃で破れ、剥き出しになった人工皮膚の下から、青い回路のような光が走り始める。 そして、彼が顔を上げた。 その瞳から、涙が消えていた。いや、涙はまだ流れていたが、その色が変わっていた。濁った黒い瞳は消え失せ、そこには透き通るような、鋭い「水色」の光が宿っていた。 「……もう、いい」 低く、しかし芯の通った声。それは、疑心暗鬼に囚われていた弱々しい少年の声ではなかった。戦うことへの恐怖を、人間への不信を、そして自分自身の弱さを、すべて「覚悟」という名の炎で焼き尽くした者の声だった。 一度目の死。それは彼にとって、最大の救済だった。一度壊れたことで、彼は「自分を縛っていた鎖」から解放されたのだ。自分が誰に造られ、誰に捨てられたかなど、もうどうでもいい。今、目の前にあるこの不条理な暴力だけを、打ち砕けばいい。 Vector-11が、ゆっくりと立ち上がる。その手には、もはや一本の剣はなかった。代わりに、両手に握られていたのは、凝縮されたエネルギーで形成された二本の短剣(ダガー)だった。それは彼の精神的な覚醒に呼応し、形を変えた「殺意の結晶」だった。 Vector-finalは、即座に危険を察知し、全武装を展開した。四足の脚部からミサイルポッドがせり出し、数十発の追尾ミサイルが一斉に射出される。 シュシュシュシュッ!! 空を埋め尽くす死の雨。しかし、覚醒したVector-11にとって、その速度は止まっているも同然だった。 (速い……!) Vector-finalの分析装置が驚愕の数値を叩き出す。Vector-11の反応速度、筋力、出力。すべてが先ほどの数千倍に跳ね上がっていた。彼は地を蹴った。その衝撃で足元のコンクリートがクレーターのように陥没する。 一閃。 彼が動いた瞬間、空を飛んでいたミサイルの半分が、空中で真っ二つに切り裂かれた。物理的な切断ではない。短剣に纏わせた高周波エネルギーが、物質の結合を強制的に切断したのだ。 「ガガッ!?!?!」 感情を持たないはずのVector-finalが、ノイズのような警告音を上げた。Vector-11は、もはや目視できない速度で巨躯の周囲を旋回していた。右から左へ、上から下へ。銀色の装甲に、水色の光跡が幾筋も刻まれる。 Vector-finalは、全方位への掃射を開始した。ガトリング、レーザー、衝撃波。あらゆる手段を用いて、この「羽虫」を排除しようとする。だが、Vector-11はそれを踊るように回避し、最短距離で急所へと肉薄する。 (俺は、ここにいる) 彼は、自分の存在を世界に刻みつけるように、短剣を突き立てた。Vector-finalの右前脚の関節部。そこには、装甲が薄いエネルギー導管が集中している。 ズバァァァッ!! 水色の閃光が走り、巨大な鋼鉄の脚が根元から切断された。十トンの巨体が、凄まじい音を立てて地面に崩れ落ちる。Vector-finalは即座にバランスを取り直し、残った脚で地面を叩きつけ、広範囲の衝撃波を放った。 ドォォォォォン!! 周囲の建物がまとめて崩壊し、凄まじい土煙が舞う。しかし、Vector-11はその衝撃波の渦中に、真っ向から突き進んでいた。彼は避けない。受け止める。そして、その反動さえも加速のエネルギーに変換する。 「これで……終わりだ」 Vector-11は、Vector-finalの頭頂部――メインCPUが格納されている唯一の弱点へと跳躍した。Vector-finalは、最後の手段として最大出力のエネルギー障壁を展開し、球体状の壁で身を守る。 だが、覚悟を決めた人工人間に、そんな壁は意味をなさなかった。 Vector-11は、両手の短剣を一つに合わせ、X字に交差させた。彼が今まで流してきたすべての涙が、すべての絶望が、一点の鋭い光へと凝縮される。 「消えろ!!」 全力の一撃。水色の光の柱が、天を突き抜けるほどの勢いでVector-finalの障壁を貫いた。バリバリと音を立ててエネルギー壁が砕け散り、光の刃がメインCPUを真っ二つに断ち切った。 …………。 静寂が戻った。Vector-finalの赤いセンサーが、ゆっくりと明滅し、やがて完全に消灯した。巨躯はもはや、ただの巨大な鉄屑の山に過ぎない。 Vector-11は、ゆっくりと地上に降り立った。水色の瞳が、次第に元の色へと戻っていく。短剣は消え、再び彼の手には一本の古びた剣が握られていた。 彼は、再び泣き始めた。 だが、その涙は先ほどまでのような、疑心暗鬼による絶望の涙ではなかった。戦い抜き、生き残り、自分自身の力で何かを打ち砕いたことへの、言いようのない喪失感と、微かな充足感。 彼は、空を見上げた。雨は止んでいた。雲の切れ間から、ほんの少しだけ、鈍い光が差し込んでいる。 (俺は……まだ、生きている) 彼は、自分の胸に手を当てた。そこには、人工的に造られた心臓が、激しく、しかし確かに鼓動していた。人間を信じることは、まだできない。世界を愛することなど、到底無理だ。それでも、彼は歩き出すことを決めた。 捨てられた場所から、自分の足で、どこまでも。 Vector-11は、血と泥に汚れた服を払い、ゆっくりと荒野の向こうへと歩き出した。背後には、かつての自分を象徴するような巨大な残骸が、静かに横たわっていた。