砂漠の拠点に設けられた、一時的な共同休息所。そこには、奇妙な運命のいたずらで出会った、現在の【ZERO LIMIT】のヒナと、過去から迷い込んだ「過去のヒナ」たちが滞在していた。 昼下がりの穏やかな時間。現在のヒナは、いつものように大きなあくびをしながら、心地よい日向ぼっこを楽しんでいた。彼女にとって、今の平和な生活は何物にも代えがたい。もともとサボり魔で昼寝好きの彼女は、チームの仲間たちが訓練に励んでいる間も、隙あらばどこかで丸くなっている。 「ふぁ〜あ……。お腹すいたなぁ……」 ぼんやりとした意識の中で、ヒナは近くのテーブルに置かれた包みを視界に入れた。そこには、美味しそうな焼き菓子が詰まった袋があった。自分のチームの誰かが用意してくれたものだろうか。あるいは、自分へのご褒美だろうか。 「あ、おやつだ。ラッキー」 深く考えず、ヒナは手を伸ばしてそのお菓子を口に放り込んだ。サクッとした食感と、濃厚なバターの香りが口いっぱいに広がる。至福のひとときだった。しかし、最後の一つを飲み込んだ瞬間、彼女はふと違和感に気づいた。 (……あれ? 私のチームのおやつ、今日はクッキーじゃなくて、フルーツタルトだったはずじゃ……?) その疑問が脳裏をよぎった瞬間、背後から凍りつくような冷徹な声が響いた。 「――おい。今、何を食った?」 ヒナはビクンと肩を揺らし、ゆっくりと振り返った。そこには、深いローブに身を包み、鋭い眼光を放つ「過去のヒナ」が立っていた。彼女の周囲には、物理的な温度が数度下がったかのような張り詰めた空気が漂っている。警戒心の塊であり、生きるために冷酷さを身につけた彼女にとって、自分の所有物を勝手に消費されることは、生存戦略上の重大なミスと同義だった。 「え……あ、えへへ」 現在のヒナは、後頭部をかきながら困ったように笑った。目の前にいるのは、かつての自分だ。今では「後輩ちゃん」と呼んで可愛がっている相手だが、今の彼女の怒りは本物だった。 「笑い事か。それは私の食料だ。砂漠で生き抜くために計算して管理していた貴重な保存食を、貴様は……」 過去のヒナの瞳に冷たい火が灯る。彼女はゆっくりと、しかし威圧的に歩み寄り、現在のヒナの目の前で足を止めた。そして、低く、逃げ場のない声で命じる。 「正座しろ」 「えぇーっ!? 正座!? 今どき正座なんて……」 「いいから座れ。それとも、力ずくで座らせたいか」 過去のヒナが腰の鞭に手をかけた。今のヒナは地上最強格の強さを持っているが、相手はかつての自分であり、何よりこの状況で戦う理由がない。それに、今の彼女は「のんびり屋」に徹していた。抵抗するよりも、流れに身を任せてなんとかなることを願うのが彼女のスタイルだ。 「はーい……」 現在のヒナは、しぶしぶ畳の上で膝を折り、背筋を伸ばして正座した。全長3メートルの長い鞭が、彼女の横で力なく転がっている。 過去のヒナは、腕を組み、冷徹な視線で正座する自分(未来)を見下ろした。その表情には、一切の妥協がなかった。 「説明しろ。なぜ私の物を食べた。単なる不注意か、それとも私を挑発するための策か。あるいは、飢えていて我慢できなかったのか」 「あ、いやねぇ……」 現在のヒナは視線を泳がせ、指先で地面をいじりながら、必死にごまかし始めた。 「だって、見た目が似てたし! それに、ここらへんってお菓子の配置が適当だったから、私のチームの誰かが置いてったのかなーって思ったんだよ。わざとじゃないもん。本当にわざとじゃないんだよぉ」 「言い訳をするな。配置が適当だったとしても、確認せずに口に入れるのは、戦場では死に直結するミスだ。貴様のような弛緩した精神状態で、どうして生き延びてこれた?」 「うっ……。まあ、運が良かったっていうか。あとは、いい仲間に出会ったからかな」 現在のヒナは、しおらしく上目遣いで過去の自分を見た。相手は冷酷に見えるが、根は自分なのだ。どうすればこの怒りが収まるか、なんとなく分かっている気がした。彼女はわざと声を少し弱め、反省している風を装った。 「ごめんね、後輩ちゃん。本当にお腹が空いてて……。あんなに美味しそうな匂いがしてたから、つい。次は絶対に間違えないし、今度私がもっと美味しいお菓子を分けてあげるから! ね?」 「……『後輩ちゃん』と呼ぶな。不愉快だ」 過去のヒナは鼻で笑った。しかし、相手のあまりに締まりのない様子に、少しだけ毒気が抜かれた。冷酷な彼女にとって、目の前の女は理解不能な存在だった。自分と同じ顔、同じ武器を持ちながら、ここまで精神的に弛緩し、のんびりとしている人間がこの世に存在するのか。 だが、それでも許しは出ない。説教はむしろ、加速した。 「いいか、この世界は残酷だ。信じられるのは自分だけだ。誰かが置いていったお菓子などという甘い考えが、貴様を弱くする。甘えは捨てろ。規律を守れ。まずはその、ふにゃふにゃとした顔をどうにかしろ」 (あー……長い。長いよぉ……) 現在のヒナは、正座したまま心の中で悲鳴を上げていた。説教の内容は正論だった。かつての自分がそうして生き抜いてきたことは分かっている。けれど、今の自分はもう、その地獄のような孤独を乗り越え、居場所を見つけた後なのだ。 (もういいじゃん、お菓子一つくらい。あーあ、お昼寝の時間なのに。このままだと、アオイちゃんに『サボって何してたの!』って怒られるし、最悪のパターンだよ……) 過去のヒナの説教は止まらない。彼女は、未来の自分がここまで「緩んでしまった」ことに対する一種の苛立ちに近い感情を抱いていた。それは、かつての自分が必死に守ってきた「警戒心」という盾を、未来の自分が軽々と捨て去っていることへの戸惑いだったのかもしれない。 「……まだ返事がないぞ。反省しているのか?」 「反省してます! めちゃくちゃ反省してます! だからもう許してぇ……」 現在のヒナが、情けない声を出しながら、ついにガクンと膝をついた。正座の限界だった。 その時である。過去のヒナが、ふと自分のローブの懐に手を伸ばし、残りの食料を確認しようとした。 「……ん?」 過去のヒナの手が止まった。彼女は不思議そうに、懐から取り出したもう一つの包みを見つめた。 そこには、本来なら彼女が持っていたはずのない「フルーツタルト」の欠片が入っていた。しかも、それは誰かが一口、大きくかじった跡がある。 静寂が訪れた。 現在のヒナが、ゆっくりと顔を上げた。彼女は、過去のヒナの手元にあるフルーツタルトを凝視し、それから、自分の記憶を辿った。 「……あれ?」 現在のヒナは、ふと思い出した。さっき、自分が寝ぼけていた時に、誰かが自分のタルトを一口食べていた気がする。その時の影は、ローブを羽織った、自分によく似た小柄な人影だったはずだ。 現在のヒナは、ニヤリと笑った。状況が完全に理解できた。 「ねえ、後輩ちゃん」 「……なんだ」 「そのタルト……私のじゃない?」 過去のヒナの表情が、一瞬で凍りついた。彼女は慌ててタルトを隠そうとしたが、時すでに遅い。現在のヒナは、正座の姿勢を捨てて、ひょいと立ち上がった。 「あはは! やった! 泥棒、泥棒! 後輩ちゃんも私のタルト食べてたんだねー!」 「っ……! これは……これは、貴様が不用意に放置していたからだ! 敵の罠である可能性を考え、毒見をしただけだ!」 「いいえー、絶対においしそうだったから食べたんでしょ? わかるよ、あのタルト最高だもんね」 先ほどまでの立場が完全に逆転した。過去のヒナは、冷酷な仮面が崩れ、顔を赤くして激しく動揺していた。彼女にとって、「ルールを破ったこと」や「不注意であったこと」は、今の彼女が現在のヒナに説教していた内容そのものに抵触する。 「私は……私は、ただ……!」 「いいよいいよ! お互い様だね。お互いに相手のおやつを間違えて食べたってことで、これでチャラ!」 現在のヒナは、快活に笑いながら、過去のヒナの肩をポンと叩いた。過去のヒナは、その軽すぎる態度に呆然としていたが、同時に、言い訳できない状況に陥ったことで、不思議と肩の力が抜けていくのを感じた。 「……ふん。貸し借りなしということか」 「そうそう! チャラチャラ! さあ、説教はおしまい。もうお昼寝の時間だから、一緒に寝ようよ」 「誰が貴様と一緒に……」 そう言いながらも、過去のヒナはもう、鞭に手をかけることはなかった。彼女は小さくため息をつき、ローブの裾を整えると、現在のヒナの隣に、少しだけ距離を置いて腰を下ろした。 「……次は、絶対に間違えるな」 「はいはい」 砂漠の風が、二人のヒナを優しく包み込む。一人はかつての孤独な戦士、一人はそれを受け入れて辿り着いた平和な今の姿。形は違えど、同じ魂を持つ二人は、心地よい午後の陽光の中で、静かに目を閉じた。 おやつを巡る小さな騒動は、そうして穏やかな昼寝の時間へと溶けていったのであった。