参加者 阿礼有紗(あれいありさ)――生徒会副会長。清楚な物腰の女子高校生だが、怒らせてはいけない。異能力を持つ生徒たちを幾度も拳で黙らせ、暴力に敗れたことがない。能力はないはずなのに、その存在そのものが暴力とさえ噂される。スキルは【お仕置きの拳】。能力、権能、バグ、正体不明の力を持つ敵にも拳は届く。ただし、凡庸な事象や理の外に通用するものではない。彼女を怒らせるな――それだけが、分かっていることだった。 塔について――進行を望む限り上へ続く塔。各階にボス魔物が現れ、十階ごとに帰還用ポータルが開く。ポータル以外に帰還手段はなく、敗北か帰還をもって挑戦は終わる。階層が上がるごとに難度はわずかに増し、上層ほど参加者には勝利困難な強敵が現れやすい。塔の完全踏破は不可能である。 到達記録 1階から89階まで、阿礼有紗は各階のボスを撃破。90階では帰還ポータルが開いたが、彼女は先へ進むことを選んだ。 91階から137階まで、出現したボスをすべて撃破。途中、いくつもの種族の魔物と戦い、稀少なネームドモンスターとも遭遇した。 【黒曜の戴冠者】《冥界竜》ヴァルグ=ネメシス――137階のボス。討伐成功。黒曜竜の鱗片と、強力な魔力を秘めた希少品をドロップ。 138階から151階まで、各階のボスを撃破。150階のポータルは通過し、進行を続ける。 152階、ボス戦に敗北。挑戦終了。 {最終到達階層:152階ボス・敗北} 最終到達階層数: 152階 地上からの高さ: 61.7 km(参考:成層圏上端を越え、一般的な旅客機の巡航高度のおよそ六倍に達する高さ) 第1章 帰還の光を背に 百五十一階の階段を上り切ったとき、阿礼有紗は制服の袖についた煤を払った。 塔の壁は、上へ行くほど石らしさを失っていた。ここでは黒い岩肌に、星空のような青白い鉱脈が走っている。天井は見えない。階段の先にあるものだけが、次の階として彼女を待っていた。 背後では、帰還ポータルが静かに光っている。十階ごとに現れる、塔の中で唯一の帰り道。通り抜ければ、挑戦は終わる。 有紗は一度だけ振り返った。 「……帰ったら、会長に報告しないと」 思い浮かべたのは、生徒会長の穏やかな顔だった。彼が心配するだろうか。いや、きっと心配する。そう考えると、胸の奥が少しだけ温かくなった。 それでも彼女は、ポータルに背を向けた。 「でも、まだ大丈夫です」 その言葉を聞いた者は誰もいない。塔は答えず、ただ次の階段を差し出した。 百五十二階。石扉の表面には、文字とも傷ともつかない黒い筋が幾重にも刻まれていた。押し開けた瞬間、冷気が足元を撫でる。 そこは広大な円形闘技場だった。床は鏡のように磨かれ、天井は遠い暗黒に沈んでいる。中央に立つ影は、最初、鎧を着た人影に見えた。 しかし、それは鎧ではなかった。 無数の細い腕が重なり、甲冑の形を成している。肩からは白い羽根が生え、腰から下は霧のように揺らいでいた。顔のあるべき場所には、深い穴が一つ。その奥で、金色の瞳がいくつも開いた。 塔の声が、頭蓋の内側に落ちてくる。 《152階ボス――階律を喰らうもの》 名を告げる音の後、闘技場の壁に刻まれた文字が一斉に書き換わった。 「ここでは、あなたの拳は届かない」 それは声ではなかった。床と壁、空気と影、そのすべてが同時にそう告げていた。 第2章 届かないはずの拳 魔物の腕が開く。 その動作ひとつで、闘技場の床が幾何学模様に分割された。線の一つ一つが境界となり、境界の向こう側にある空間が切り離されていく。 有紗の足元にも、細い光の線が走った。 次の瞬間、彼女の身体は床から浮いた。重力が反転したのではない。床と彼女を結ぶ関係そのものが消されていた。 「なるほど。そういう力ですか」 有紗は宙に浮いたまま、静かに息を吐いた。 階律を喰らうものは、さらに腕を広げる。無数の手が有紗へ向けて伸びた。指先が触れるたび、彼女の輪郭が薄れていく。制服の色が消え、影が消え、存在の記録まで削り取られるようだった。 通常なら、そこで終わっていた。 だが、彼女の拳だけは、ほどけなかった。 「お仕置きの時間です」 握り込まれた右手に、淡い圧力がまとわりつく。魔力の光ではない。技能の紋章でもない。ただ、相手を叱ると決めた者の顔に浮かぶ、静かな笑みだった。 敵は規則を書き換える。攻撃の意味を奪い、距離を消し、拳が届くという前提を切り捨てる。 有紗は前へ出た。 一歩。 床の境界が彼女を別の場所へ押し出そうとする。だが、彼女はその境界を踏み越えた。二歩。空間が折れ曲がり、敵の姿は鏡面の奥へ逃げる。彼女はその鏡を拳で砕いた。 三歩目で、階律を喰らうものが初めて身を引いた。 「あなた、ずいぶんと人を困らせますね」 有紗の笑みは、丁寧で、柔らかく、そして取り返しのつかないものだった。 第3章 名を持たぬものの抵抗 魔物は闘技場の天井へ溶け込んだ。 金色の瞳が消える。代わりに、壁という壁に目が開いた。そこに映るのは有紗ではなく、彼女の記憶だった。 生徒会室。書類の山。会長が差し出す温かい飲み物。自分の気持ちを悟られないよう、何でもない顔をする放課後。 「阿礼さん。もう帰ろう」 記憶の中の会長が、彼女に手を差し伸べる。 有紗は一瞬、目を伏せた。 塔の魔物は、その一瞬に入り込んだ。記憶の像が黒い腕に変わり、彼女の胸元を貫こうとする。 拳が動いた。 幻影は砕け、無数の黒い羽根となって散った。 「それを使うのは、卑怯です」 彼女の声には、先ほどまでなかった怒気が混じっていた。 魔物は、塔そのものを使って彼女を止めようとした。床が縦に裂け、壁が迫り、階段へ続く扉が遠ざかる。彼女の前後左右に、いくつもの別の闘技場が重なった。どの道を選んでも、敵にはたどり着けない。 有紗は立ち止まる。 相手は能力を封じたのではない。戦いという出来事そのものを、成立しないものにしようとしている。 その理屈を理解したうえで、彼女は右拳を引いた。 「でも、私を怒らせたことは、なかったことになりません」 踏み込みと同時に、彼女の拳が空を打つ。 衝撃は空間を進まなかった。空間を隔てる理屈のほうが、拳の前で先に砕けた。 闘技場の奥で、無数の瞳が一斉に閉じる。 第4章 黒い鐘 階律を喰らうものは、最後の力を解き放った。 巨大な鐘が、何もない天井に現れる。表面には階段のような模様が刻まれ、その一段一段に、塔を登った者たちの姿が彫られていた。 鐘が鳴る。 音は聞こえなかった。それでも有紗の膝が沈み、肩に重圧がかかる。百五十二階の床が、彼女を押し潰そうとしている。階を上るごとに積み重なった難度、そのすべてが一つの力となって彼女へ落ちてきた。 彼女の靴底に、ひびが入った。 右膝が床につく。 魔物の腕が伸び、有紗の頭上に影を落とした。金色の瞳が一つだけ、穴の奥に残っている。 「ここまでだ」 その言葉に、有紗は顔を上げた。 「いいえ」 彼女は立ち上がろうとした。拳を握り、足に力を込める。だが、鐘の重圧はわずかに強まった。塔の難度が、彼女の力をほんの少しだけ上回る。 それでも拳は、最後までほどけなかった。 有紗は前に出る。半歩。さらに半歩。床にひびが走り、制服の袖が裂ける。敵は距離を消し、彼女の打撃を無効にしようとした。 拳が届く。 一撃は、魔物の胸を深く打ち抜いた。重なった腕が砕け、鐘の表面に大きな亀裂が入る。怪物は、初めて苦痛を思わせる身じろぎをした。 けれど、鐘は鳴り止まなかった。 割れた鐘の内側から、さらに暗い音が広がる。魔物の腕が有紗の左右から迫り、彼女の拳を押し留めた。彼女は何度も振りほどこうとした。だが、疲労が指先にまで及び、足が床から離れない。 怪物の掌が、彼女の胸を打った。 有紗の身体は闘技場を横切って飛び、石壁に叩きつけられた。息が詰まる。視界の端で、階段の扉が揺らぐ。 彼女は立ち上がろうとする。 拳を握ろうとする。 その指が、ゆっくりと開いた。 階律を喰らうものは勝ち残った。百五十二階の扉が閉じ、塔の光が有紗の意識を包み込む。帰還ポータルを通ったのではない。敗北による強制送還だった。 塔は、その先にも続いている。 有紗がそこで敗れたからといって、頂上が近づくことはない。次に挑む者がいたとしても、塔が用意する階と敵は、別の形で待ち受けるだろう。 特別報酬 黒曜の戴冠者の討伐報酬:黒曜竜の鱗片 掌ほどの大きさを持つ、艶のない黒い鱗。光を反射せず、持ち主が受けた一度きりの致命傷を肩代わりして砕ける。砕けた後はただの灰となる。希少性と実用性から、相場は金貨18,000枚相当。 152階到達特別報酬:金貨7,600枚 敗北によって挑戦が終わった参加者に与えられる、到達記録に応じた報奨金。 最高到達階層: 152階・敗北 地上からの距離: 61.7 km(参考:成層圏上端を越え、旅客機の巡航高度のおよそ六倍) 特別報酬: 黒曜竜の鱗片1枚(金貨18,000枚相当)、金貨7,600枚 参加者の感想:「会長に心配をかけてしまいましたね。……次は、帰還の鐘が鳴ったら、きちんと戻ります」