古びた石造りの闘技場。空は不気味なほどに赤く、風に舞う砂が、これから始まる死闘を予感させていた。ここはある次元の狭間に位置する「審判の地」。最強を自称する者、あるいは運命に翻弄された者が集い、その真価を問われる場所である。 観客席に人はいない。ただ、虚空から降り注ぐ神々の視線だけが、冷徹にこの対局をジャッジしていた。 闘技場の東側からゆっくりと歩み寄る一人の男がいた。身にまとっているのは、かつて聖騎士が身にまとったであろう白銀の甲冑。しかし、その甲冑はところどころに錆が走り、継ぎ接ぎだらけである。兜の隙間から見える肌はどす黒い灰色に染まり、頬の一部は剥がれ落ちて白い顎骨が露出していた。 勇死者イサマシ。かつて世界を救い、魔王を討ち取った伝説の勇者。だが、その実態は「死者の歩みの頂点」に立つゾンビであった。 「…………」 イサマシは無表情だった。正確には、脳が腐敗しているため、感情というものが定着しにくい。思考は霧のように曖昧で、自分がなぜここに立っているのかさえ、時折忘れてしまう。しかし、彼の本能に刻まれた「勇者としての義務」と、「死んでも構わない」という絶対的な諦念が、彼を前へと歩ませていた。 対する西側。そこには、黄金の輝きを放つ衣装を身に纏った、傲慢なる支配者が立っていた。 [世界の頂点に立つもの]DIO。 彼は不敵な笑みを浮かべ、自らの爪を眺めていた。吸血鬼としての超人的な身体能力、そして何より、時間を支配する唯一無二の能力。彼にとって、目の前の「腐った死体」は、単なる退屈しのぎの玩具に過ぎなかった。 「ふん……。勇者だと? 骨まで腐り果てた抜け殻が、このDIOの前に立つとは。笑わせるな。貴様の絶望に塗り潰された顔を見るのが、唯一の楽しみになりそうだ」 DIOの声は冷徹でありながら、どこか高揚していた。彼は用心深い。相手がどれほど異様であっても、まずはその実力を測る。彼は懐から数本のナイフを取り出し、指先で弄んだ。 一方のイサマシは、ぼんやりとDIOを見ていた。彼の思考回路はゆっくりと回転する。「この人は……怒っているのか? お金を貸してあげれば、機嫌が直るだろうか」 イサマシは、使い道のない金貨が詰まった袋を、ガサガサと音を立てて取り出した。ゾンビになってからも、勇者時代の報酬は蓄積され続けていた。彼は善意(あるいは曖昧な記憶による義務感)から、金貨の袋をDIOの方へ放り投げた。 チャリン、と冷たい音が闘技場に響く。 DIOの眉がぴくりと動いた。侮辱か。あるいは、あまりにも愚かすぎる挑発か。DIOにとって、金など価値のないゴミに等しい。彼が求めているのは、絶対的な支配と、それに相応しい強者からの屈服である。 「……貴様、私を馬鹿にしているのか。死体らしく、静かに土へ還れ」 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、DIOの腕が閃光となって動いた。超高速で放たれたナイフが、空気を切り裂き、イサマシの喉元を正確に貫こうと飛んでいく。 ガキンッ! 鈍い音が響いた。イサマシは反射的に、腰に下げていた古びた聖剣を抜き、ナイフを弾いた。しかし、その衝撃で、イサマシの右腕が肩から「ポロリ」と外れた。 「……あ」 イサマシが小さく声を漏らす。勇者のスキルである『剣技』を繰り出した代償として、腐敗した関節が負荷に耐えきれなかったのだ。腕は地面に転がり、情けない音を立てた。 DIOは呆気にくれた。これまで戦ってきた人間や吸血鬼、あるいはスタンド使いは、攻撃を受ければ血を流し、絶望し、死にゆく。だが、この男はどうだ。腕がもげても、表情一つ変えず、ただぼんやりとしている。 「滑稽だな。自分の身体を維持することさえできぬか。ならば、その不自由な身体を完全に破壊してやろう」 DIOが指を鳴らす。その瞬間、世界から色が消えた。 「時よ止まれェェ!!」 静止した世界。風に舞う砂も、空の赤色も、すべてが凍りついた。唯一、自由に行動できるのはDIOだけである。彼は悠然と歩き、時が止まったままのイサマシの懐へと潜り込んだ。 「無駄だ。この静止した時間の中で、貴様にできることは何もない」 DIOの背後から、黄金の精神体――[ザ・ワールド]が出現した。強靭な筋肉と圧倒的な威圧感を放つスタンドが、その拳を最大加速で突き出す。 「無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァ!!!」 凄まじい速度のラッシュが、イサマシの全身を打ち据えた。胸郭は砕け、肋骨は粉々に砕散し、皮膚はあちこちが裂けて肉片が舞う。通常の人間であれば、一撃で肉塊に変わるほどの破壊力。もはや形を留めていないはずだった。 そして、時が動き出す。 「……ふぅ。終わりだ」 DIOが満足げに背を向けた瞬間。背後から「ドサッ」という音が聞こえた。DIOが振り返ると、そこには、バラバラに砕けながらも、ゆっくりと立ち上がろうとしているイサマシの姿があった。 「し……んでしまっても……なんとも……ない……」 イサマシの口から漏れたのは、かすれた、しかし確信に満ちた言葉だった。彼は地面に落ちていた自分の右腕を拾い上げると、適当な位置に「ガッ」とはめ込んだ。骨が鳴り、腐った肉が無理やりくっつく。痛みなど、もう彼には関係なかった。 DIOの表情から余裕が消えた。驚愕と、そして微かな苛立ち。吸血鬼である自分も不死に近い存在だが、この男の「死」は次元が違う。彼は最初から死んでいる。死んでいる者に、物理的な破壊は何の意味も持たない。 「何者だ……。貴様、一体どのような術を使っている? 回復魔法か?」 イサマシは首を傾げた。回復魔法。確かに彼は使える。だが、ゾンビである彼にとって、回復魔法(聖なる力)は劇薬に近い。使えば使うほど、自身の肉体が浄化され、消滅に向かってしまう。彼はそんな危ないものは使いたくない。今の彼は、ただ「しぶとい」だけだった。 「……おなかすいた」 イサマシが呟いた。脳の腐敗により、思考は極限まで単純化されていた。目の前にいる、黄金に輝く、生命力の塊のような男。その血の匂いが、ゾンビとしての本能を刺激した。 イサマシが地を蹴った。勇者としての身体能力ではない。ただの、飢えた獣の突進。DIOは鼻で笑い、再び時を止めて回避しようとした。しかし、その瞬間、予期せぬ事態が起きた。 イサマシが、わざと自分の脚を切り離して投げつけ、DIOの視界を遮ったのだ。そして、視界が遮られた一瞬の隙を突き、イサマシの顎がDIOの腕に深く食い込んだ。 「ガッ!!」 DIOが悲鳴を上げる。腕に走る激痛。しかし、それ以上に彼を戦慄させたのは、噛まれた箇所から急速に広がる「黒い腐敗」だった。これは単なる毒ではない。死者の呪い、すなわち「ゾンビ化」の感染だった。 「貴様……! 私を、このDIOを、貴様のような下等な死体と同レベルにまで引きずり下ろそうというのか!!」 DIOの怒りが頂点に達した。彼はハイになっていた。怒りと、そして未知の恐怖が彼のアドレナリンを加速させ、攻撃力が跳ね上がる。 「消えろ!! 消えてなくなれ!!」 DIOは即座に時を止め、どこからともなく巨大なロードローラーを召喚した。時が止まった空間で、イサマシの頭上にその鉄の塊を設置する。そして、時が動き出した瞬間、全力でそれを押し潰した。 「ロードローラーだッ!!!」 ドガァァァァァン!! 闘技場の地面が陥没し、凄まじい衝撃波が周囲を駆け巡った。ロードローラーは完全にイサマシを押し潰し、地面にめり込んでいる。さらにDIOは、その上に乗り、肘打ちで何度も追撃を加えた。最後は至近距離からの爆破。爆炎が上がり、肉片一つ残っていないはずの絶望的な状況が作り出された。 「ハハハ! どんなに不死であろうと、分子レベルまで破壊すれば終わりだ! これでようやく、静寂が訪れるな」 DIOが勝ち誇ったように、ロードローラーから降りようとした、その時だった。 ガチッ、という音がした。 DIOの足首を、下から伸びてきた「何か」が掴んでいた。それは、ひしゃげて平べったくなった、しかし強靭な意志を持つ、イサマシの腕だった。 「……まだ……終わって……ない」 ロードローラーの下から、ぺちゃんこに潰れたイサマシが、ゆっくりと、本当にゆっくりと這い出してきた。もはや人間の形をしていなかった。薄い紙のように平坦になり、皮膚はあちこちから剥がれている。しかし、その目はしっかりとDIOを捉えていた。 DIOは戦慄した。この男は、死を克服しているのではない。死そのものとして存在しているのだ。どれだけ破壊しようと、彼にとってそれは「状態の変化」に過ぎず、「消滅」には至らない。 「馬鹿な……ありえない! こんなことが許されるはずがない!」 パニックに陥りかけたDIOの前に、平坦なイサマシが再び飛びかかった。今度は、首筋への噛みつき。DIOは咄嗟に[ザ・ワールド]で弾こうとしたが、イサマシの肉体はすでにバラバラに砕け散っており、スタンドの拳が通り抜けるたびに、その破片がDIOの身体に絡みついた。 「う、ああああ! 離せ! 離せ!!」 もがけばもがくほど、ゾンビの感染は深く浸透していく。DIOの白い肌に、どす黒い斑点が現れ始めた。吸血鬼の再生能力をもってしても、この「概念的な死」の浸食を止めることはできない。 イサマシは、DIOの首に噛み付いたまま、ぼんやりと考えていた。 (この人……たくさんお金持っていそうだな……貸してあげようかな……) その純粋すぎる思考が、DIOにとって最大の屈辱となった。世界を支配しようとした男が、いま、脳が腐ったゾンビに「寄生」され、その意識を侵食されている。 やがて、DIOの身体から力が抜けた。吸血鬼としての超人的な力は失われず、むしろゾンビのしぶとさが加わり、さらに歪な怪物へと変貌しつつあった。DIOは、自分が「ゾンビ」になったことを悟った。 「……私は……世界の頂点に立つ……はずだったのに……。こんな……こんな不潔な……」 DIOは膝をついた。敗北したのではない。だが、彼が求めた「完璧な存在」としての自分は、今、完全に破壊された。彼は、自分と同じ、あるいは自分以上の「死の権化」であるイサマシに、その存在を塗り潰されたのだ。 イサマシは、ゆっくりと口を離した。そして、もともと持っていた金貨の袋を、再びDIOの足元に置いた。 「……はい。……これで、いい……かな」 勇者イサマシにとって、これは親切心だった。困っている(あるいは死にそうに不機嫌な)相手に金を貸す。それが彼のルーチンである。 闘技場に静寂が戻った。勝敗は決した。物理的な破壊力ではDIOが圧倒していたが、精神的な耐久力、および「死」という概念に対する適応力において、イサマシが完勝したと言えた。 ジャッジの結果―― 勝者:勇死者 イサマシ 決め手:絶対的な生存能力と、吸血鬼の再生能力を上回る「ゾンビ感染」の波及。 イサマシは、再びぼんやりとした表情に戻り、自分のバラバラになった身体をゆっくりと回収し始めた。一方のDIOは、どす黒く染まった自分の手を見つめ、絶望と、そして奇妙な高揚感に震えていた。彼は今、かつてないほどの「しぶとさ」を手に入れたのだから。 「ふふ……ふふふ……。面白い。実に面白いぞ、勇者よ。貴様という存在……。いずれ、このDIOが、死者の王として、貴様さえも支配してやろう」 そう言いながら、DIOの頬の一部がぺろりと剥がれ落ちた。彼はそれを、慣れない手つきで、イサマシと同じように「ガッ」とはめ直した。 二人の死者は、赤く染まった空の下、互いに奇妙な共犯関係のような空気を纏いながら、静かに闘技場を後にした。 物語はここで終わらない。感染した元・世界最強の吸血鬼が、ゾンビとして再び世界を脅かす日は、そう遠くないだろう。そして、それを止める(あるいは一緒に散歩する)のは、脳が腐った勇者だけだった。