##チームA 場虎亜県の薄暗い路地裏。湿ったコンクリートの匂いと、遠くで鳴り響く都市の喧騒が、切り離された静寂の中に溶け込んでいる。獅子堂カイトは、一人でその路地を歩いていた。白髪が街灯の淡い光に照らされ、黒いパーカーのフードを深く被った彼の緑色の瞳は、どこか心細げに揺れている。表の人格である彼は、学園でのいじめという過酷な現実に耐えながらも、誰にでも手を差し伸べたいという不屈の精神を失わずにいた。 しかし、その足取りが止まった。路地の突き当たり、空間が陽炎のように揺らぎ、そこに「もう一人の自分」が立っていたからだ。 そこにいたのは、獅子堂カイトという存在が辿り着いたかもしれない、あり得たかもしれない平行世界の姿であった。その世界の獅子堂カイトは、現在彼が所属している環境とは全く異なる、ある強大な組織の幹部という立場にいた。黒いパーカーではなく、重厚な漆黒の軍服を身に纏い、胸元には見たこともない組織の紋章が鈍く光っている。その瞳は鋭く、冷徹なまでの自信に満ち溢れていた。彼は「所属していない組織に所属している」という異なる運命を歩んでいたのである。 平行世界の獅子堂カイトは、静かに口を開いた。その声は低く、威厳に満ちている。 「……ふん。まさかこんなところで、ひ弱な頃の自分に会うことになるとはな。お前が今抱えているその『優しさ』、この世界では毒にしかならんぞ」 平行世界の獅子堂カイトは、ゆっくりと歩み寄り、今の獅子堂カイトの肩に手を置いた。その動作には、支配者としての余裕と、同時にどこか懐かしむような感情が混在していた。彼は、自分がかつて持っていたであろう、他者を慮る心を持つ自分を眺め、皮肉げに口角を上げた。 「だが、その不屈の精神だけは、どの世界線でも変わらないようだな。笑えるぜ。俺はこの地位を得るために多くのものを切り捨ててきたが、お前のような『光』を完全に消し去ることはできなかったらしい」 今の獅子堂カイトは、目の前の自分を見て、激しい困惑と同時に、言いようのない憧れを感じていた。自分と同じ顔、同じ瞳を持ちながら、誰にも屈せず、世界を支配する側に立っている。いじめられ、居場所をなくしていた彼にとって、強者として君臨する平行世界の自分は、ある種の理想像に見えたのかもしれない。しかし同時に、その瞳の奥にある深い孤独に気づき、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。 (この人は……強い。でも、なんだろう。すごく寂しそうな顔をしている。僕がなりたかった姿かもしれないけれど、この人の隣にいたいとは、正直に言って思えないな) 一方、平行世界の獅子堂カイトは、今の獅子堂カイトを見て、激しい郷愁と軽蔑、そして奇妙な羨望を抱いていた。組織の頂点に登り詰め、あらゆる力を手に入れたが、彼はその過程で「誰かを純粋に助けたい」という心を捨てざるを得なかった。目の前の少年が持つ、泥にまみれながらも失われない純粋な善性は、彼がもう二度と取り戻せない失われた宝物のように見えたのである。 (滑稽だ。こんなに弱々しく、危うい。だが、その瞳に宿る光は、今の俺にはもう映らない。お前のような生き方が許される世界に、俺は留まることができなかったということか) 二人は互いに手を伸ばしたが、不可視の壁に阻まれたように、決して触れ合うことはなかった。攻撃することなど考えもしない。ただ、鏡合わせのような自分たちが、異なる運命の果てに辿り着いた答えを提示し合っていた。平行世界の獅子堂カイトは、ふっと溜息をつくと、再び空間の揺らぎへと戻ろうとした。 「せいぜい、その優しさを捨てずに生き残ってみせろ。もしも……お前が耐えきれなくなった時は、俺のような怪物になればいい。それだけは保証してやるよ」 その言葉を最後に、平行世界の姿は霧のように消え去った。路地裏に残された獅子堂カイトは、一人静かに空を見上げた。緑色の瞳に、夜の闇が深く映り込む。彼は、自分の中に眠る「裏の人格」の存在を感じながら、それでも表の自分が持つ優しさを守り抜こうと、強く拳を握りしめた。平行世界の自分が示した絶望的な強さよりも、今の自分が持つ不屈の精神こそが、真の意味で自分を救うのだと確信したからである。 路地の静寂が戻る。しかし、獅子堂カイトの心には、もう一人の自分の冷たい視線と、かすかに感じた温もりが深く刻まれていた。彼はゆっくりと歩き出し、日常という名の戦場へと戻っていった。 * ##チームB 場虎亜県の路地裏。ゴミ捨て場の脇にある狭い通路は、街の喧騒から切り離された真空地帯のようであった。カイトは、黒いパーカーのポケットに手を突っ込み、退屈そうに周囲を眺めていた。白髪が夜風に揺れ、緑色の瞳はすべてを見透かすように鋭い。数千、数万の世界を渡り歩き、あらゆる理を理解し、観測される側であることにさえ慣れきった彼は、この世界の不自由さを心地よく感じていた。 彼がふと足を止めたとき、目の前の空間がガラスのようにひび割れた。パリン、という乾いた音と共に、そこから「もう一人の自分」が姿を現した。 そこに立っていたのは、カイトが辿り歩んだ数多の可能性の中で、ある特定の選択をした結果生まれた平行世界の姿であった。その世界のカイトは、「現在よりも不幸になっている」という過酷な運命を背負っていた。服装は同じ黒いパーカーであったが、それは至る所が破れ、血と泥に汚れ、見るも無惨な状態であった。右腕は不自然な方向に曲がり、顔には深い切り傷が刻まれている。瞳からは光が消え、絶望と憎悪だけが澱のように溜まっていた。 平行世界のカイトは、目の前の、余裕に満ち溢れた自分を見て、低く、掠れた声で笑った。その笑い方は、自嘲と激しい怒りに満ちていた。 「……ははっ。最高だな。あっちの世界の俺は、まだそんな風に余裕たっぷりに笑っていられるのか。反吐が出るぜ」 平行世界のカイトは、ふらつく足取りで一歩前へ出た。彼は自分の状況を呪いながらも、それでも生き延びてきた執念だけは持っていた。彼は、今のカイトが持っている「無限の魔力」や「完璧な状況」を憎んでいた。なぜ自分だけが、すべてを失い、地獄のような世界で這いずり回らなければならなかったのか。その不公平感こそが、彼の原動力となっていた。 「なあ、教えてくれよ。どうすれば、その『正解』の人生に辿り着ける? 俺が失ったもの、奪われたもの、すべてを奪い返して、お前のその余裕を絶望に変えてやりたいよ」 今のカイトは、目の前の惨状に、言いようのない違和感と、静かな同情を抱いた。自分はバグのような存在であり、あらゆる世界を俯瞰して見ているが、これほどまでに徹底的に「不幸」に特化した自分に出会うのは珍しいことだった。平行世界の自分が経験した地獄が、その皮膚の裂け目や、虚ろな瞳から伝わってくる。彼は、自分という存在が持つ可能性の残酷さを改めて認識した。 (なるほどな。運命のダイスを最悪の目だけで振り続けた結果が、あいつか。同じ魂を持っているはずなのに、ここまで差が出る。滑稽だが、同時に……興味深い。あいつの絶望は、俺が忘れていた『人間らしさ』に近いのかもしれないな) 一方、平行世界のカイトは、今のカイトの余裕ある態度に、激しい殺意にも似た感情を抱いた。しかし、同時に、その完璧な姿こそが、自分がかつて夢見た「到達点」であったことも理解していた。憎い。殺したい。だが、同時に、その強さに縋りたい。矛盾した感情が彼の中で渦巻いていた。 (こいつは、俺がなりたかった、あるいは、なるはずだった姿だ。すべてを手に入れ、すべてを理解した神のような視点。……だが、そんな奴に同情されるのが一番反吐が出る。俺の絶望を、ただの『観測対象』として楽しんでいるんだろう?) 二人は互いに向き合っていたが、物理的な接触は拒まれていた。世界線の乖離があまりに激しく、またシステム的な制約により、彼らは互いに攻撃することができない。平行世界のカイトは、もどかしそうに爪を立て、虚空を掻いた。しかし、その指先にはもはや何も残っていなかった。 今のカイトは、ふっと口角を上げ、含みのある口調で語りかけた。 「残念ながら、俺の人生に正解なんてものは無い。俺はただ、あらゆる可能性を飲み込んで、ここに立っているだけだ。お前が地獄を見たのなら、それはそれでお前の価値になる。絶望し尽くした人間だけが見える景色というのも、悪くないだろう?」 平行世界のカイトは、その言葉に激昂し、何かを叫ぼうとした。しかし、空間のひび割れが閉じ始める。彼の居場所はこの世界ではなく、再びあの地獄のような平行世界へと戻らなければならない。 「……ふざけるな! 次に出会う時は、その余裕な面を、俺が……!!」 叫びは途切れ、平行世界の姿はガラスの破片のように散って消えた。路地裏に再び静寂が訪れる。カイトは、自分が立っている場所が、どれほど特権的な位置にあるかを再確認した。しかし、同時に心に小さな穴が開いたような感覚があった。絶望し尽くした自分という鏡を見たことで、自分の完璧さが、いかに脆い砂上の楼閣であるかを突きつけられたからだ。 彼は再び歩き出した。黒いパーカーの裾を軽く払い、緑色の瞳で夜の街を見据える。彼にとって、この世界もまた、数ある観測対象の一つに過ぎない。だが、あの絶望した自分が見せた剥き出しの感情だけは、無限の魔力をもってしても再現できない、唯一無二の真実であったと感じていた。