【チームA】 場虎亜県の路地裏。湿ったコンクリートの匂いと、錆びついた鉄扉が並ぶ閉塞感のある空間に、ルシェは立っていた。軍服に黒コートを纏い、瑠璃色の瞳で周囲を警戒する。彼女の傍らには、いつものように騒がしい相棒であるはずのティルがいない。一時的な別れか、あるいは何らかの目的による離脱か。ルシェは溜息をつき、愛銃であるヘッドスレフィタの感触を確認した。静寂が支配する路地裏に、不自然な「揺らぎ」が生じる。空間がガラスのようにひび割れ、そこから一人の女性が歩き出してきた。 そこに現れたのは、ルシェだった。しかし、その姿は今のルシェとは決定的に異なっていた。黒いコートは脱ぎ捨てられ、身に纏っているのは治安維持機構"DELTA"の正装――脱走者として捨てたはずの、白と金を基調とした高位階級の将校制服である。その肩には、組織内で絶大な権力を握っていることを示す数々の勲章が輝いていた。彼女の瞳は瑠璃色でありながら、今のルシェが持つ「諦念」や「冷静さ」ではなく、冷酷なまでの「規律」と「支配欲」に満ち溢れていた。平行世界のルシェは、組織を脱走せず、むしろ内部で登り詰め、今や"DELTA"の最高幹部の一人として君臨していたのである。 平行世界のルシェは、目の前に立つ「脱走者」の自分を、ゴミを見るかのような冷ややかな視線で眺めた。彼女の立ち振る舞いは完璧に統制されており、指先一つ動かす動作にさえ、軍隊的な厳格さが宿っている。彼女はゆっくりと口を開いた。 「……気分が悪いな。私の可能性の一つが、あのような薄汚れたコートを纏い、組織の犬からも逃げ出した敗北者の姿をしていたとは。反吐が出る」 平行世界のルシェは、腰に下げた儀礼用のサーベルの柄に手をかけ、傲慢な笑みを浮かべた。 「お前は自由を得たと思っているのだろうが、それは単に『居場所を失った』だけのことだ。規律なき強さは、ただの暴走に過ぎない。今の私から見れば、お前はただの迷い犬だ。可哀想に。私の世界では、私は全てを管理し、全てを支配している。お前が捨てたはずの鎖こそが、私には最高の王冠なのだよ」 今のルシェは、その姿を見て激しい違和感と嫌悪感を抱いた。自分が最も忌み嫌い、脱走してまで捨て去った「組織の歯車」としての完成形がそこにいたからだ。完璧に整った制服、曇りのない勲章、そして何より、他人を支配することに快楽を覚えているような、あの凍り付いた瞳。ルシェは心の中で(怖っ……。私があんな風になる可能性があったなんて、冗談じゃない)と戦慄した。同時に、自由であることの心地よさと、組織に属して得られる権力という劇薬の差を痛感した。 一方で、平行世界のルシェは、目の前の自分を見て深い軽蔑を抱いていた。彼女にとって、規律を破ることは最大の罪であり、弱さの象徴である。脱走し、正体不明の蒐集家と共に歩むルシェの姿は、彼女にとって「壊れた機械」と同義だった。しかし、同時に彼女は気づいた。今のルシェの瞳にある、自分には決して手に入らない「個としての強さ」と「精神的な余裕」に。それは支配される側ではなく、かといって支配する側でもない、完全に独立した個の輝きであった。彼女はそれを認めたくないという強烈な拒絶感と共に、未知の感情に苛まれていた。 平行世界のルシェは、ふっと鼻で笑い、再び空間の裂け目へと歩き出した。 「まあいい。お前のような欠陥品を相手にする時間は私にはない。せいぜい、その安い自由を謳歌して、泥の中で死ぬがいい。さようなら、哀れな『私』」 彼女が消え去った後、路地裏には再び静寂が訪れた。ルシェは深く、深く溜息をつき、ヘッドスレフィタを肩に担ぎ直した。自分が選んだ道が正しかったことを、今この瞬間、確信せずにはいられなかった。 【チームB】 場虎亜県の路地裏。ゴミ溜めと配管が複雑に絡み合うその場所に、ティルはいた。金髪を揺らし、黄土色のスカベンジャー服に身を包んだ彼女は、地面に転がっているガラクタを興味深そうに眺めていた。ルシェの姿は見えないが、きっと近くにいるはずだ。そんな安心感を抱きながら、ティルは鼻歌を歌っていた。すると突然、目の前の空気が歪み、黄金色の粒子が舞い上がった。そこから、もう一人の「ティル」が姿を現した。 現れたのは、今のティルとは全く異なる雰囲気を纏った少女だった。服装は同じスカベンジャーの服ではなく、豪華絢爛な白いドレスに身を包んでいた。首元には大粒の宝石が輝き、手には精巧な機械仕掛けの扇子が握られている。彼女の瞳は土色ではなく、透き通った純金のような色に変わっていた。平行世界のティルは、残酷な「蒐集家」ではなく、世界中の富と知識を掌中に収めた、ある帝国の「若き女帝」となっていた。彼女は何かを失ったのではなく、あまりにも多くのものを得すぎた世界線から来た存在だった。 平行世界のティルは、目の前にいる「泥臭い」自分を見て、目を丸くして驚いた。その後、彼女は口元を扇子で隠しながら、鈴を転がすような、しかしどこか突き放したような声音で笑った。 「あらあらぁ♡ こんなに汚い服を着て、ゴミを漁っているボクがいるなんて! ウフフ、想像もつかないわ♡ キミ、もしかして本当に『 scavengering(漁り)』なんていう野蛮なことをしているの? 信じられない♡」 平行世界のティルは、優雅な足取りで今のティルに近づいた。彼女の周囲には、エクリプス粒子ではなく、高度に洗練された黄金の自動人形(オートマトン)たちが控えている。彼女は今のティルの服装を指差し、心底可笑しそうに声を上げて笑った。 「でも、なんだか新鮮ね♡ ボクの世界では、欲しいものは全部誰かが運んできてくれるもの。自分で泥にまみれて探すなんて、最高の贅沢な遊びに見えるわ。ねえ、キミ。その汚い服、ボクのコレクションに加えてもいいかしら? 『没落した自分』というコンセプトの展示品にぴったりだわ♡」 今のティルは、その姿を見て不思議な感覚に陥った。自分と同じ顔、同じ声。けれど、中身は決定的に違う。今の自分は、獲物を追い詰め、物を収集し、破壊することに快感を覚える。しかし、目の前の自分は、既に全てを手に入れた後の「退屈」を抱えている。ティルは、その豪華なドレスや宝石に全く興味を示さなかった。むしろ、彼女が纏う「飽和した幸福感」が、今のティルにはひどく味気なく、退屈なものに感じられた。 (……キミ、全然面白くないね♡ 全て持ってるなんて、収集する楽しみがないじゃない。ボクならそんな世界、全部壊してまたゼロから集め直すけどな♡) 今のティルは、平行世界の自分を「贅沢な餓死者」のように感じた。肉体的な飢えはないが、刺激という名の飢えに苛まれている。一方で、平行世界のティルは、今のティルを見て、心の奥底で激しい羨望を抱いていた。彼女が手にしているのは、洗練された富ではない。自らの手で掴み取り、泥にまみれて勝ち得た「本物の充足感」だ。彼女の瞳に宿る、底なしの好奇心と無慈悲なまでの渇望。それは、帝国の頂点に立ち、全てを飽き果てた彼女が、最も失ったと思っていた「衝動」そのものであった。 平行世界のティルは、少しだけ寂しげな表情を見せ、そしてすぐにいつもの傲慢な笑みに戻った。 「まあいいわ。ボクの退屈を紛らわせてくれたことに感謝してあげる♡ またいつか、ボクがキミを『買い取る』日が来るかもしれないわね♡」 彼女は黄金の粒子と共に、静かに消えていった。後に残されたのは、土色の瞳をした小さな蒐集家だけだ。ティルは足元のガラクタを一つ拾い上げ、それを愛おしそうに眺めた。 「ふふっ♡ やっぱりボクは、今のままで正解だね♡」 彼女は軽やかな足取りで、再びルシェを探して路地裏を歩き出した。そこには、権力よりも刺激を、安定よりも混沌を愛する、彼女だけの幸福な日常が広がっていた。