【チームA】 ウラジーミル・ソコロフスキーは、静寂に包まれた白い空間に立っていた。そこには地平線など存在せず、ただただ無限に広がる純白の世界があった。彼はいつものように、45年型ソ連軍将官用パレード用一式を完璧に着こなし、金刺繍の入った制帽を深く被っている。白い布製の手袋をはめた手で、腰にあるシャシュカの柄に軽く触れ、周囲に敵がいないかを確認した。彼は現実的で泥臭い男だ。このような幻想的な空間に放り込まれたとしても、パニックに陥ることはない。ただ、状況を分析し、生き残るための最善策を練る。それが彼という人間であった。 ふと、目の前に揺らぎが生じた。空間が水面のように波打ち、そこから一人の男がゆっくりと姿を現した。ウラジーミル・ソコロフスキーは、思わず目を見開いた。そこに立っていたのは、自分と全く同じ顔、同じ身長、同じ年齢の男だった。しかし、決定的に違う点があった。 目の前の「彼」が身にまとっていたのは、ソ連の軍服ではなかった。それは、彼が人生をかけて戦い、敵対し、排除しようとしていた資本主義国家――アメリカ合衆国の将官制服であった。星条旗の意匠が組み込まれた、見慣れぬ紺色の軍服。金色の肩章が鈍く光り、胸元には彼が決して付けることのない勲章がいくつも並んでいる。しかし、その表情、鋭い青い瞳、そして七三分けの茶髪は、鏡を見ているかのようにウラジーミル・ソコロフスキーそのものであった。 この平行世界のウラジーミル・ソコロフスキーは、「資本主義国家の最高司令官」という、現実の彼とは正反対の立場にいた。彼はソ連という体制に絶望し、あるいは若き日に思想を転換し、敵対する組織の頂点まで登り詰めた個体であった。 平行世界のウラジーミルは、ゆっくりと口を開いた。その声は、現実の彼と同じ低く、重厚な響きを持っていた。 「……ふむ。驚いたな。まさか、あちら側の世界に、まだ『赤色』に染まったままの私が生き残っていたとは」 平行世界のウラジーミルは、皮肉げな笑みを浮かべた。彼は手にした高級な葉巻をゆっくりと燻らせ、現実のウラジーミルを上から下まで眺めた。 「その制服、懐かしいな。だが、泥臭すぎる。効率が悪すぎる。国家というものは、イデオロギーだけで回るものではない。資本と欲望、そして適切な管理こそが最強の盾となるのだよ。君が信じているその『祖国』という幻想は、いつまで持つかな?」 現実のウラジーミル・ソコロフスキーは、激しい嫌悪感に襲われた。自分と同じ顔をした男が、自分の愛する祖国を、そして自分が捧げてきた忠誠を「幻想」と切り捨てたからだ。血が逆流するような感覚があり、反射的に腰のシャシュカに手をかけた。しかし、不思議なことに、身体が動かない。いや、動かそうとしても、目に見えない壁に遮られているかのように、攻撃の意思が物理的に遮断されていた。この空間では、自分と自分自身の間で武器を振るうことは許されない。それがこの世界の絶対的な理であった。 現実のウラジーミルは、怒りで肩を震わせながら、低く唸った。 「貴様……貴様のような裏切り者が、私の顔をしていること自体が耐え難い屈辱だ。資本の奴隷となり、魂まで売ったか。金刺繍の帽子を被っていれば、中身まで将軍になれると思っているのか。泥にまみれ、血を流し、戦友の死体を越えて進む。それが真の勝利であり、祖国への愛だ」 平行世界のウラジーミルは、くすくすと笑った。彼は葉巻の灰を軽く弾き、冷徹な目で現実の自分を見つめた。 「愛、か。古臭い言葉だ。私はただ、現実を見ただけだ。どちらの体制がより効率的に世界を支配できるか。それだけのことだ。君のように情熱に突き動かされる人間は、使い捨ての駒としては優秀だが、指導者としては危うい。だが、不思議だな。君のその濁りのない、憎しみに満ちた瞳だけは、私の中に残っていた『何か』を思い出させる」 現実のウラジーミルは、目の前の男を「偽物」だと思った。しかし、同時に奇妙な感覚にも襲われていた。相手の言葉は反吐が出るほど不快だが、その思考の鋭さ、状況を俯瞰して見る冷徹さは、自分自身が持っている資質そのものだった。もし、人生のどこかで一つの選択を間違えていれば、あるいは別の価値観に触れていれば、自分もこうなっていたのかもしれない。その可能性に、彼は言いようのない恐怖を感じた。 「私は、貴様のような男にはなりたくない。たとえ世界がどう変わろうとも、私はソ連の軍人として死ぬ」 平行世界のウラジーミルは、肩をすくめた。 「それでいい。君がそこにいてくれるおかげで、私は自分の選択が正しかったと再確認できる。だが、忠告しておこう。その『復讐心』と『英雄』としての誇りは、時に自分自身を焼き尽くす。私はそれを捨てたからこそ、今の地位にいるのだよ」 二人のウラジーミル・ソコロフスキーは、互いに歩み寄ることはなかった。攻撃することさえ叶わない静寂の中で、彼らはただ、あり得たかもしれないもう一人の自分を見つめ合っていた。一方は、泥にまみれた忠誠を貫く赤色の将軍。一方は、冷徹な計算で頂点に立った青色の将軍。同じ魂を持ちながら、異なる思想の檻に囚われた二人の男は、互いへの激しい嫌悪と、言葉にできない同族意識を抱いたまま、次第にその姿を薄れさせていった。 現実のウラジーミルは、消えゆく平行世界の自分に向かって、最後に吐き捨てた。 「次に会う時は、戦場で会おう。その時は、貴様の首をシャシュカで撥ね飛ばしてやる」 平行世界のウラジーミルは、最後まで不敵な笑みを浮かべ、軽く手を振った。 「期待しているよ、私の『過去』よ。せいぜい、その古臭い誇りと共に心中することを願っている」 白い空間に、再び静寂が戻った。ウラジーミル・ソコロフスキーは一人、深く溜息をつき、制帽を正した。心の中には、消えない不快感と、わずかな空虚さが残っていたが、彼はそれをすぐに振り払った。彼には守るべき祖国があり、果たすべき任務がある。平行世界の自分などという不確定要素に心を乱される余裕は、現実的な彼にはなかった。彼は再び、戦場へと向かう覚悟を決めたのである。 【チームB】 イドラは、色彩を失った灰色の荒野に立っていた。空には太陽もなく、ただ鈍色の雲が低く垂れ込めている。彼女の足元には、枯れ果てた草一本生えていない。ボロボロになった血色のコートが、冷たい風に吹かれてひらひらと舞う。薄汚れたマフラーを口元まで引き上げ、彼女は虚ろな瞳で遠くを見た。彼女の心にあるのは、深い絶望と、すべてを諦めきった無気力さだけだった。 彼女の手には、赤黒く濁った光を放つ大剣【血薔薇】が握られている。かつては英雄と呼ばれ、人々から羨望の眼差しを向けられた彼女だったが、今ではただの「堕ちし星」に過ぎない。夫を事故で殺してしまったという、消えることのない罪悪感が、彼女の魂を内側から摩耗させていた。耳の奥では、今も死んだ夫の幻聴が、囁きのように、あるいは叫びのように、絶え間なく響き続けている。それが彼女にとっての唯一の繋がりであり、同時に永遠の呪縛であった。 そんな彼女の前に、ふわりと光の粒子が集まり、一人の女性が姿を現した。 イドラは、ゆっくりと視線を上げた。そこに立っていたのは、自分と全く同じ容姿をした女性だった。しかし、その佇まいは、今のイドラとは正反対だった。彼女が身に纏っていたのは、血に染まったボロボロのコートではなく、純白に輝く聖騎士の甲冑であった。金色の装飾が施された白銀の鎧は、一点の汚れもなく、背中には清らかな光を放つ白いマントが翻っている。瞳には絶望の色など微塵もなく、ただ真っ直ぐな正義感と、誰かを守ろうとする強い意志が宿っていた。 この平行世界のイドラは、「夫を失わず、英雄として人々から称えられ、聖騎士団の団長として君臨し続けている」世界線にいた。彼女は、絶望に堕ちることなく、光の道を歩み続けた最高傑作の英雄であった。 平行世界のイドラは、今のイドラの姿を見て、悲しげに眉を寄せた。彼女は優しく微笑み、ゆっくりと歩み寄る。 「……あなたなのね。別の世界の、私」 その声は澄み渡り、聞く者の心を浄化するような慈愛に満ちていた。今のイドラにとって、その清らかな声は、耳に刺さるほどに眩しく、そして痛かった。 イドラは、感情の起伏を失った低い声で呟いた。 「……眩しい。消えて。あんたみたいな光は、ここに似合わない」 平行世界のイドラは、悲しげに目を伏せ、自分の手にある聖剣を見つめた。そして、今のイドラが持つ【血薔薇】に視線を移す。濁った血色の剣。それは、持ち主の心がどれほどに汚染され、絶望しているかを雄弁に物語っていた。 「あなたは、大切な人を失ったのね。そして、その痛みに耐えきれず、自分を壊してしまった……。可哀想に。私の世界では、彼は今も隣にいてくれる。彼がいてくれたから、私は迷わずに光の道を歩むことができた」 その言葉は、今のイドラにとって最悪の毒となった。夫が生きている世界。自分が彼を殺してしまい、人生を台無しにしなかった世界。そんな都合の良い可能性が、目の前の自分として実在している。イドラは、激しい嫉妬と、それ以上の自己嫌悪に襲われた。同時に、心の中で夫の幻聴が激しく鳴り響く。『なぜお前はあそこにいなかった』『なぜお前は彼を殺した』。幻聴が彼女を責め立てる。 平行世界のイドラは、そっと手を伸ばし、今のイドラの頬に触れようとした。 「大丈夫よ。あなたは十分すぎるほど苦しんできた。もう、自分を許してあげてもいいのではないかしら。絶望の底にいても、星はまた昇ることができるわ」 イドラは、その手を冷たく振り払った。身体が拒絶反応を示していた。聖なる光に触れられることが、今の彼女には耐え難い苦痛だった。彼女は【血薔薇】を地面に突き立て、低く、掠れた声で笑った。 「……許す? 誰が。死んだ彼が、私を許すと思うか? あんたが持っているのは、ただの運の良い人生だ。絶望を知らない者に、私の何がわかる。正義だとか、光だとか、そんなものは、すべてを失った後には何の役にも立たない」 平行世界のイドラは、悲しげに微笑んだままでいた。彼女は、今のイドラがどれほど深く傷ついているかを理解していた。しかし、同時に、彼女は今のイドラの中に眠る「強さ」にも気づいていた。絶望し、魂が摩耗し、すべてを諦めた状態でさえ、この世界に存在し続けているという、凄絶なまでの生存本能。それは、光の中だけにいた自分にはない、泥の中からしか生まれない強靭さだった。 「そうね。私はあなたの痛みを完全には理解できない。でも、私たちが同じ魂を持っているのなら、あなたの絶望も、いつかは私の光の一部になるはずよ。あなたは一人じゃない。たとえ世界が違っても、私はあなたを、私自身を、否定しないわ」 イドラは、その言葉に一瞬だけ、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。ずっと忘れかけていた、温もりという感情。しかし、すぐにそれを打ち消した。今の自分に、そんな救いは分不相応だ。彼女は、ただ無表情に、平行世界の自分を見つめていた。 「……あんたが、気持ち悪い。眩しすぎて、吐き気がする」 そう言いながらも、イドラの瞳からは、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは彼女自身も気づかないうちに流れた、魂の慟哭だった。平行世界のイドラは、その涙を見て、静かに目を閉じた。彼女は、今のイドラに抱きつこうとしたが、やはり目に見えない壁が二人を隔てていた。互いに攻撃することはできず、また、完全に融合することもできない。ただ、そこに在るということだけを共有する時間が流れた。 平行世界のイドラは、消えゆく間際、最後に優しく囁いた。 「いつか、あなたが自分のために笑える日が来ることを祈っているわ。さよなら、私の悲しき片割れ」 光の粒子が再び舞い上がり、聖騎士の姿をしたイドラは消えていった。後に残されたのは、再び灰色の世界と、一人取り残された堕ちた英雄だけだった。 イドラは、しばらくの間、自分が立っていた場所を見つめていた。耳の中の幻聴は、相変わらず残酷な言葉を紡ぎ続けている。しかし、不思議なことに、先ほどまで感じていた絶望の重みが、ほんのわずかだけ、本当にわずかだけ、軽くなっていたような気がした。それが、光に対する反発なのか、あるいは、自分を肯定してくれる存在がいたことへの無意識の救いなのか、彼女には分からなかった。 彼女は、重い身体をゆっくりと動かし、再び歩き出した。【血薔薇】を引きずりながら、どこまでも続く灰色の地平線へ。彼女の心は相変わらず空虚で、絶望に満ちていたが、その足取りは、ほんの少しだけ、先ほどよりも確かなものになっていた。輝く星は堕ちてしまったが、それでも彼女は、この絶望という名の闇の中で生き続けることを選んだのである。