夜空を支配するのは、どす黒いほどに紅い月であった。 天を塗り潰すその不吉な光は、地上のあらゆる理を歪ませ、生物の奥底に眠る凶暴な本能を呼び覚ます。静寂であるべき夜は、いまや血の匂いが混じった熱狂に塗り替えられていた。 その紅い月の真下に、三つの影が集っていた。 アリアドネ・ティアラ。星空を纏ったドレスに王冠を戴き、青白い瞳に冷徹な光を宿した女性。 天川ケイロ。半人半馬半矢の冥族という異形の身に、不可視の弓を構えた射手。 夜打光。藍色の瞳に青白い髪、十二天星術を継ぐ、純真さと残酷さを同居させた少年。 彼らの間にあったのは、儀礼的な挨拶でも、戦略的な対話でもなかった。ただ、互いの存在を消し去りたいという、抗い難い衝動。紅い月の魔力が、彼らの精神に組み込まれた「リミッター」を強引に破壊していた。 (ああ……心地いい。この昂ぶり、この渇き。理屈なんてどうでもいい) アリアドネは口角を吊り上げた。普段の彼女であれば、魔力の効率的な運用を考え、相手の弱点を突く最小限の攻撃を心掛けただろう。だが今は違う。ただ、目の前の敵を、最も派手な方法で、跡形もなく粉砕したい。その本能だけが、彼女の全存在を突き動かしていた。 「……いい夜だ。殺し合うには、最高にちょうどいい」 光が、無邪気に笑った。その瞳には、純粋な殺意が宿っている。隣に浮かぶ双子座のカストルとポルックスが、彼に囁く。――『おい光、あいつら相当にヤバいぞ。遠慮せず全部出せよ』。その助言は、もはや警告ではなく、虐殺への煽動に聞こえた。 ケイロは何も言わず、ただ静かに弓を引き絞った。不可視の矢が、紅い月の光を吸い込んで凝縮していく。彼の精神は、極限まで研ぎ澄まされていた。冷静さなどという言葉では足りない。それは、獲物を屠るための、純粋な「狩人」としての覚醒であった。 戦いの火蓋は、一瞬にして切られた。 「消えなさい!」 アリアドネが叫ぶ。彼女の頭上の王冠が激しく明滅し、『アルフェッカ』が顕現した。主星から放たれる猛烈な熱量と衝撃波が、地表を焼き払い、紅い月の光さえも塗り替えるほどの白光となって襲いかかる。通常であれば、周囲への被害を考慮して制御する威力。しかし、今の彼女にそんな理性はない。爆心地から放射状に広がる熱波が、大地をガラス状に溶かしながら二人に襲いかかった。 「遅いよ!」 光が叫び、瞬時に式神を召喚する。咆哮と共に現れたのは、『しし座』の黄金の獅子だ。獅子がその巨大な前足で空間ごと衝撃波を叩き潰し、爆風を強引に左右へ弾き飛ばした。だが、その衝撃で光の足元の地面が陥没する。同時に、光はさらに別の式神を重ねて召喚した。 「いけっ、『いて座』!」 光の背後から現れた百歩先まで射抜く狙撃の式神が、アリアドネに向けて光の矢を連射する。それは雨のように降り注ぎ、アリアドネの周囲に連鎖的な爆発を引き起こした。 だが、アリアドネは動じない。彼女は『ヌサカン』を発動させ、見えざる鋼糸で空間を縦横無尽に縛り上げた。降り注ぐ光の矢は、空中で鋼糸に絡め取られ、方向を転換して逆に光へと跳ね返る。 「なっ……!?」 光が驚愕した瞬間、アリアドネの別の星が駆動した。『ε 星を従える星』。不可視の超巨大な系外惑星の伴星が、重力の特異点として光の頭上に降臨する。物理的な質量を無視した超重力が、光を地面へと叩きつけた。ズドォォォン! という轟音と共に、光の身体が地面に深く埋まる。骨が軋む音が聞こえるほどの威力だった。 しかし、光は笑っていた。彼は不死身の観測者、双子座の加護を受けている。潰れた身体が、瞬時に再生し、彼は地面から飛び上がった。 「あはは! すごいね、今の! でも、僕だって負けないよ!」 光はさらに加速する。正義の女神アストライアの道具、天秤座の力を借りて、戦場の「均衡」を強引に書き換えた。アリアドネの圧倒的な重力を、自分自身の「推進力」へと変換する。物理法則を無視した超高速の突進。光の身体が白い閃光となり、アリアドネの懐へと潜り込んだ。 そこへ、静寂を切り裂く一撃が飛来した。 「――逃がさない」 ケイロの放った一撃。それは『カウス・メディア』による、絶対的な集中力が込められた一射だった。不可視の矢は、アリアドネと光の二人の間に、正確無比な軌道で割り込む。矢は着弾した瞬間、爆発ではなく「貫通」に特化した衝撃波を放ち、アリアドネの肩を深く貫き、そのまま光の脇腹をも切り裂いた。 「ぐっ……!」 「げふっ……!」 二人が同時に衝撃にのけぞる。ケイロの攻撃は、ただの射撃ではない。南斗六星の「生(寿命)」を司る力が、傷口から生命力を強引に吸い出していく。再生能力を持つ光であっても、この「寿命の剥奪」には時間がかかる。 「……不快な男ね」 アリアドネの瞳に、どす黒い怒りが宿った。彼女はもはや、星のバランスを整える『ι 王冠の結び目』を、攻撃の最適化のためだけに使い始めた。全ての星の出力を最大まで引き上げ、同時に同期させる。それは、彼女の魔力回路を焼き切るほどの過負荷であったが、紅い月の魔力がその負荷を強引に塗り潰し、出力だけを底上げし続ける。 「全部まとめて、塵になりなさい!!」 アリアドネが両手を広げると、『θ 超高速回転星』が起動した。彼女を中心に、天を衝く巨大な星の竜巻が発生する。それは単なる風ではない。高密度に圧縮された魔力のドリルが、周囲の全てを巻き込み、粉砕し、削り取る絶望の渦だった。地表の土壌は剥がれ飛び、岩山は砂となって消える。竜巻の内部では、アルフェッカの熱量が混ざり合い、燃え盛るプラズマの嵐へと変貌していた。 「うわぁぁぁ! 熱い! 熱いよ!!」 光が叫ぶ。彼は『おとめ座』の加護で防御壁を展開したが、暴走したアリアドネの威力はそれを容易く突き破った。身体の皮膚が焼け、服が燃え上がる。しかし、光の表情からは恐怖ではなく、快楽に近い興奮が読み取れた。彼は燃え盛る身体で、あえて竜巻の中心へと飛び込んだ。 「十二天星術……全式神、同時展開!!」 光が絶叫する。おひつじ座の突撃、おうし座の剛力、かに座の挟撃、しし座の咆哮……。あらゆる星座の式神たちが、一斉に召喚され、アリアドネへと殺到した。それは星々の軍勢による総攻撃。一撃一撃が山を砕く威力を持ち、竜巻の壁を内側から爆破していく。 ドガガガガガッ!! 激突の衝撃で、紅い月さえも震えた。光の式神たちが、アリアドネの防御壁を強引に突破し、彼女の身体に爪を立て、牙を剥く。同時に、光は自らの命を削る禁術に近い出力を出し、アリアドネの胸元に正拳突きを叩き込んだ。 「これで終わりだ!!」 アリアドネの身体が後方へ激しく吹き飛ばされる。背後の岩壁を粉砕し、深い穴を穿った。彼女は激しく咳き込み、口から鮮血を吐き出した。肋骨が数本折れ、内臓が悲鳴を上げている。だが、彼女は笑っていた。 (ああ……素晴らしい。この痛み、この絶望感。もっと、もっと欲しい……!) 彼女は立ち上がった。そして、最後の手段に出る。王冠の全ての宝石を、一つに融合させる。それはもはや星の術式ではなく、自らの存在を触媒にした「特異点」の生成だった。 その時、空から静かな、しかし絶対的な死の気配が降り注いだ。 ケイロが、空高くへと跳ね上がっていた。彼の背後には、『星のティーポット』が巨大に展開され、そこから天の川に似た、青白く輝く魔力の奔流が注がれている。 「――カウス・アウストラリス、ヌンキ、アスケラ。全てを繋ぎ、一点へ」 ケイロの持つ不可視の弓が、今度は完全に視認できるほどの巨躯へと姿を変えた。青色巨星の輝きを放つ弓に、天の川の奔流が矢となって蓄積されていく。それはもはや、個人の攻撃ではなく、星系の質量そのものを一点に凝縮した、究極の「終焉の矢」であった。 「消えろ」 放たれた矢は、光速を超えていた。 アリアドネが特異点を完成させる直前。光が次の式神を召喚しようとした瞬間。 青白い閃光が、戦場を真っ二つに裂いた。 「ガッ……!!」 光の身体が、真っ向から貫かれた。心臓を正確に射抜いた矢は、彼の身体を固定するのではなく、内部から「爆発」させた。再生能力が追いつかない。寿命を司る星の力が、彼の細胞一つ一つに「死」を強制的に刻み込んだ。光の身体が、内側から青白い光に包まれ、ゆっくりと粒子となって崩壊していく。 「あ……は……。すごい……ね……」 光は満足げに微笑み、そのまま塵となって夜風に消えた。十二天星術の継承者は、その純粋な狂気と共に、最期まで笑っていた。 残されたのは、アリアドネとケイロ。二人の体力は限界に達していた。アリアドネの肩からは血が止まらず、ケイロの腕は弓の反動で骨が露出している。 だが、紅い月はまだ彼らを逃さない。さらに本能を煽り、殺し合えと囁き続ける。 「……ふふ。最後は、私と貴方ね」 アリアドネは、完成させた特異点を右手に凝縮させた。黒い小さな球体。それは周囲のあらゆる光と物質を飲み込む、絶対的な虚無。彼女はそれを、ケイロに向けて全力で突き出した。 対するケイロも、残された全魔力を注ぎ込み、最後の一矢を放つ。もはや形すら成していない、ただの純粋な破壊エネルギーの奔流。 二つの絶大な力が、正面から衝突した。 ――キィィィィィィィィィィィィィィィィィィィン!! 鼓膜を突き破るほどの高周波が鳴り響き、世界が白く塗り潰された。爆発は紅い月さえも一瞬だけかき消し、巨大なクレーターを地表に刻み込んだ。 静寂が訪れた。 煙が晴れた中心地に、一人だけ立っていたのは、ケイロだった。 彼の右腕は根元から消失していた。胸いっぱいに特異点の浸食を受けた深い穴が開いており、そこから絶えず血が溢れ出している。しかし、彼は立っていた。 その足元には、アリアドネが転がっていた。 彼女の身体は、もはや半分ほど失われていた。特異点の反動と、ケイロの最後の一撃が彼女の身体を内側から破壊し、右半身を文字通り「消滅」させていた。意識は朦朧とし、青白い瞳からは光が消えかけている。 「……あ、はは……。負け、ちゃった……」 アリアドネは、かすれた声で笑った。彼女の胸元で、王冠の宝石が一つ、パリンと音を立てて砕けた。 ケイロは、残った左手で、ゆっくりと空を見上げた。紅い月は、いつの間にか色を失い、元の静かな銀色に戻ろうとしていた。狂乱の夜が終わり、理性が戻ってくる。 (……なんて、ひどいことをしたんだ) 戻ってきた理性は、彼に激しい後悔と喪失感を与えた。だが、もう遅い。隣に横たわる女性は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その最後の呼吸を吐き出した。 アリアドネ・ティアラ。星空のドレスを血で染めた彼女は、静かに目を閉じた。その表情は、驚くほど穏やかだった。全力で殺し合い、全力で壊された。それが、この狂った夜に彼女が求めた唯一の救いだったのかもしれない。 ケイロは、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。右腕を失い、命の灯火も消えかかっている。彼は、もう一度だけ空を見た。 そこには、ただ静かに、冷たい月が浮かんでいた。