深い静寂に包まれた、霧の都『ルナリス』。そこは、法が機能しなくなった特区であり、絶望を売る商人と、復讐を請け負う執行人が集う掃き溜めのような街だった。石畳は常に湿り、ガス灯の鈍い光が、行き交う人々から表情を奪っていた。 この街の片隅に、看板のない事務所がある。そこは「復讐屋」として知られる兎獣人の女、ポコ先生の拠点だ。彼女は、依頼者の憎しみを具現化し、対象を肉体的・精神的に完膚なきまでに破壊することに特化した、死神と称される専門家であった。 ある夜、ポコの事務所の扉が、静かに、だが拒絶を許さない圧力を持って開かれた。そこに立っていたのは、モノクロの服装に身を包み、丸眼鏡の奥に冷徹な、しかしどこか深い悲しみを湛えた瞳を持つ男だった。黒銀の髪をなびかせ、胸元には古い十字の傷跡がある。その名はクロガネ。 彼は貴族としての気品を纏っていたが、その内側には、愛する息子を奪われたという、底なしの憎悪が渦巻いていた。彼は、自身の復讐の旅路において、ある「鍵」を握る人物がこの街にいると突き止めた。そして、その鍵を効率的に回収するための「手段」として、ポコの知識を求めてやってきたのだ。 「……ふうん。貴族様がこんな掃き溜めに何の用だい? お上品な指先で、泥遊びにでも付き合いたいのかい」 ポコは口に咥えた煙草を燻らせ、皮肉げに口角を上げた。男装したボーイッシュな外見に、白い兎の耳が不機嫌そうにぴくりと動く。彼女にとって、目の前の男が纏う「正義感」と「絶望」の混在は、最高に食い合わせの悪い、しかし興味深い獲物の匂いがした。 「案内してほしい。私の標的が潜む場所を。報酬は望むままに払おう」 クロガネの声は静かだった。だが、その静寂は嵐の前のそれであり、武人としての研ぎ澄まされた殺気が、室内の空気を凍らせていた。 ポコは煙草を灰皿に押し付けると、愉快そうに笑った。「報酬ね。いいよ、案内してやるさ。だが、あんたみたいな『自分を正義だと思い込んでる復讐者』ってのは、見ていて反吐が出る。根まで枯らしてやりたくなるんだよね」 こうして、奇妙な協力関係が始まった。目的は同一でありながら、その精神性は対極にある二人。クロガネにとっての復讐は「魂の救済」であり、ポコにとっての復讐は「尊厳の破壊」という芸術であった。 旅の途中、彼らは多くの会話を交わした。クロガネは、かつて息子と過ごした穏やかな日々について語った。彼が口ずさむ【思い出の童謡】は、残酷な世界において唯一の聖域であり、彼の精神を繋ぎ止める鎖だった。その歌声を聴いたとき、ポコは一瞬だけ、冷酷な瞳を細めた。彼女自身、ヤクザという血塗られた世界で生き、獣人という差別の中で戦ってきた。彼女が「根まで枯らす」ことに執着するのは、かつて自分が根こそぎ奪われた記憶があるからに他ならない。 「あんたの歌は、甘すぎるね。そんなもんじゃ、地獄の底まで届かないよ」 「甘いかもしれぬ。だが、この甘さこそが、私が人間であることの最後の証明なのだ」 互いの価値観は決して交わらない。だが、互いの「欠落」だけは共鳴していた。しかし、その共鳴は、やがて破滅的な衝突へと向かう。なぜなら、ポコという女は、誰かが心から何かを愛している姿を見ると、それを破壊せずにはいられないという、歪んだ本能を持っていたからだ。 事件は、標的を追い詰めた廃教会で起きた。 標的であった男は、ポコの用意した罠によって、既に精神的に崩壊していた。男は床に這いつくばり、自身の罪を認め、許しを乞うていた。クロガネがゆっくりとその男に近づき、二刀を抜こうとしたその時、ポコが不意に、残酷な笑みを浮かべて介入した。 「待ちなよ、クロガネさん。ここで殺しちゃったら、面白くないじゃない。ねえ、この男の指を一本ずつ、ゆっくりと『治療』しながら切り刻んでいく方が、あんたの息子さんへの供養になると思わない?」 ポコが取り出したのは、医療器具に見えるが、実際には神経を過敏にさせ、痛みを数倍に増幅させる拷問器具だった。彼女は「延命治療」の名の下に、相手に死ぬことさえ許さず、永遠に続く苦痛の中に閉じ込めることを提案した。それは、クロガネが抱く「武人としての矜持」と、息子への「純粋な愛」に対する、最悪の侮辱であった。 「……やめろ」 クロガネの声から、親切さと理性が消えた。彼の瞳から光が失われ、ただ一点、復讐という狂気だけが宿る。彼にとって、復讐の対象は「殺すべき敵」であって、「弄ぶ玩具」ではない。そして何より、ポコの行動は、彼が守ろうとしていた「息子との思い出」という聖域を、血と泥で汚そうとする行為に等しかった。 「あはは! その顔! それだよ、その狂った顔が見たかった! 正義の味方ぶった貴族様が、怒りで理性を失って、ただの獣に成り下がる瞬間。最高にゾクゾクするね!」 ポコの挑発が、クロガネの心のダムを決壊させた。彼は、標的ではなく、隣にいたはずの「協力者」であるポコへと、その刃を向けた。 【復讐の二刀】。魔剣クローウィングが黒銀の閃光となって、教会の静寂を切り裂いた。凄まじい速度の連続斬りが、ポコを襲う。ポコは驚異的な反射神経でそれを回避し、隠し持っていたナイフで応戦した。 「いいよ、いいよ! その執念、その怒り! 全部私にぶつけなよ!」 ポコは軽やかな身のこなしで、クロガネの攻撃を紙一重でかわしていく。彼女の戦い方は、正々堂々とは程遠い。煙幕を使い、死角から鋭いナイフを突き立て、相手の精神的な隙を突く。しかし、クロガネは止まらなかった。彼は【執念】のスキルにより、肉体的な苦痛を完全に遮断していた。肩を深く切り裂かれ、脇腹から血が噴き出しても、彼の足取りは一歩も乱れない。 「痛いか? 痛いよねえ! でも、死なせないよ。あんたのその絶望が、絶頂に達するまでな!」 ポコは笑いながら、クロガネの太ももに深い切り込みを入れた。だが、その瞬間、クロガネの口角がわずかに上がった。彼は【リターンペイン】を発動させた。自分自身が受けた激痛を、そのままポコへと転移させたのである。 「……!? っ!!」 不意に襲ってきた、自身の肉体を切り裂くような激痛。ポコは悲鳴を上げ、その場に膝をついた。傷口は開いていない。だが、神経が焼き切れるような「痛み」だけが、彼女の脳を支配した。ポコにとって、痛みは「与えるもの」であり、「耐えるもの」ではなかった。不意に訪れた主導権の喪失に、彼女の表情から余裕が消える。 しかし、ポコもまた、プロの復讐屋であった。彼女は激痛に喘ぎながらも、懐から特殊な薬物を取り出し、自身の静脈に注入した。それは、獣人としての本能を強制的に覚醒させ、痛覚を快楽へと変換する禁忌の薬だった。彼女の弱点である「年中発情期」という性質を、あえて戦闘に利用する狂気の戦術である。 「あはっ……あははは! すごい、すごいよクロガネさん! 痛みが、快感に変わる! あんたの憎しみ、私に全部くれよ!!」 赤らんだ頬、潤んだ瞳。ポコはもはや戦士ではなく、快楽に溺れる魔物と化していた。彼女の攻撃速度はさらに上がり、目に見えぬ速さでクロガネの全身に無数の切り傷を作っていく。クロガネは、その異様な姿に一瞬だけ戦慄したが、すぐに目を閉じた。 心の中で、あの童謡を歌う。 (♪ねんねんころりよ……お山の方から……) 【思い出の童謡】が、彼の精神を氷のように冷たく、そして鋼のように強く固定する。狂乱するポコの攻撃の隙を、彼は静寂の中で見極めた。快楽に溺れ、攻撃に重心をかけすぎたポコの懐へ、クロガネはあえて自らの身体を投げ出した。ポコのナイフが彼の胸の十字傷を深くえぐる。だが、彼は構わなかった。 クロガネはポコの腕を強く掴み、至近距離から魔剣を突き立てた。狙ったのは心臓ではない。彼女の「自由な動き」を司る腱と、そして彼女が最も誇りに思っていた「冷徹な思考」を司る前頭葉へと、精神的な圧力を伴う一撃を叩き込んだ。 「……お前は、根まで枯らすと言ったな」 クロガネの声は、再び静寂を取り戻していた。だが、その言葉には、ポコがかつて標的に向けた以上の「拒絶」が込められていた。 「だが、私の愛は、お前の浅ましい快楽などでは汚せぬ」 決定的な一撃。クロガネの二刀が、ポコの肩と脚の自由を奪い、彼女を冷たい石畳に縫い付けた。ポコは激痛と快楽の混濁の中で、呆然と天井を見上げた。初めて、自分が「コントロールできない」状況に置かれたことへの恐怖。そして、それ以上に、目の前の男が持つ、純粋で、巨大で、救いようのない「愛」という名の絶望に、心地よい敗北感を覚えた。 「……あーあ。完敗だね。あんた、本当に……最高に、最悪な男だよ」 ポコは力なく笑い、煙草の吸い殻を口から吐き出した。彼女の瞳には、憎しみではなく、ある種の敬意が宿っていた。 戦いは終わった。しかし、標的であった男は、混乱に乗じて逃走していた。復讐の完遂という目的は果たされなかった。だが、二人の間には、言葉にできない奇妙な絆が生まれていた。それは信頼などという生温いものではなく、「互いの地獄を理解した者」だけが共有できる、共犯者のような連帯感だった。 クロガネは、自らの傷を顧みず、ポコの拘束を解いた。そして、彼女に手を差し伸べる。 「……まだ、私の旅は終わらぬ。お前の知識が必要だ」 ポコは呆れたように溜息をつき、その手を取って立ち上がった。彼女の白い耳が、恥ずかしそうにぴくりと跳ねる。 「ったく、お人好しの復讐者なんて、世界で一番効率が悪いよ。いいよ、付き合ってあげる。その代わり、今度はあんたのその『甘い歌』、もっとじっくり聴かせてよね」 霧の都ルナリスに、再び夜が訪れる。一人は愛を失った武人、一人は心を捨てた死神。相反する二つの絶望を抱えた彼らは、互いを喰らい合いながら、地獄の果てまで続く復讐の道を歩み始めた。 彼らの物語は、まだ序章に過ぎない。次に彼らが辿り着く場所で、誰が根まで枯らされ、誰が救済されるのか。それは、血塗られた月だけが知っている。