ホロムワ大聖堂の一角にある『おもちゃのおうこく』。そこは色とりどりの積み木やぬいぐるみ、ゼンマイ仕掛けの兵隊たちがひしめき合う、賑やかで平和な空間である。今日も今日とて、この国の「おうさま」であるハイエルフの少女、スピラは、ふかふかのクッションに身を沈めていた。 彼女は270歳という長寿でありながら、外見は8歳の幼い少女のままである。金色のボブカットに、ちょこんと乗った小さな王冠。そしてお気に入りの青い寝間着。彼女にとっての至福の時間は、誰にも邪魔されずに美味しいお菓子を頬張ることだった。 一方、その傍らには、この聖域に客として滞在している神聖なる存在、【神聖なる鹿狐】フォカが鎮座していた。体長6メートルに及ぶその巨躯は、神々しい鹿の角と、ふさふさとした10本の尻尾を持ち、見る者を圧倒する威厳を放っている。しかし、その内面は非常に繊細であり、特に「食」へのこだわりは神の領域に達していた。 事件が起きたのは、昼下がりのティータイムのことである。 テーブルの上には、二つの小皿が並んでいた。一つはスピラのために用意された、最高級の蜂蜜がたっぷりかかった特製マドレーヌ。もう一つは、フォカのために用意された、霊力を含ませてじっくりと熟成させた神域の干し柿である。 スピラは、ぼんやりと天井を眺めながら、考え事をしていた。 (むずかしいことは分からないのだ……。でも、お腹が空いたのは分かるのだ! お菓子を食べるのだ!) ぼーっとした意識のまま、スピラは無意識に手を伸ばした。そして、隣にあった小皿から、オレンジ色の物体をひょいとつまみ上げ、口に放り込んだ。もぐもぐと咀嚼し、飲み込む。 「……ん? なんか、不思議な味がするのだ。でも、美味しいのだ!」 しかし、その瞬間。背後から凍り付くような、圧倒的な圧力がスピラを襲った。 (…………スピラよ。今、何を口にしたか、理解しているか?) 脳内に直接響き渡る、厳格で重々しい声。スピラがビクンと肩を震わせて振り返ると、そこには目を細め、静かに怒りを燃やすフォカの姿があった。フォカの視線の先には、空っぽになった「神域の干し柿」の皿がある。 「ひえっ! フォカなのだ! どうしたのだ!?」 (どうしたか、ではない。我が、我が心から愛し、三日三晩の精神統一を経て待ちわびた究極の干し柿を……貴様は今、間食のついでに飲み込んだな?) フォカの周囲に、パチパチと小さな静電気が走り始めた。神獣としての怒りが、物理的な現象として現れ始めている。スピラは青ざめた。相手はステータスが天文学的数字に達している人工神である。力で対抗することなど、蟻が山を動かそうとするより絶望的だ。 (……正座しろ) 「ひいっ!?」 抗えない精神的圧力に押され、スピラは床にぺたんと正座させられた。小さな足が揃えられ、背筋をピンと伸ばした状態で、スピラは巨大な鹿狐に見下ろされる形となった。見上げる視界いっぱいに、フォカの神々しい顔がある。今のフォカは、神というよりは、お菓子を盗まれた厳しい幼稚園の先生のようであった。 (言い訳を聞こう。なぜ、私の皿から食べた。わざと誘惑して、私の反応を楽しもうとしたのか? それとも、神の所有物に対する敬意が欠如しているのか?) スピラは冷や汗を流した。ここで「間違えた」と正直に言うだけでは、この神の怒りは収まらない気がした。彼女は最大限の「ごまかし」と「懐柔」作戦に出ることにした。 「あ、あう……。それは、その……! ぼくは、フォカの干し柿が、あまりにも神々しく輝いていたから、これはきっと『おうさまへの贈り物』なのだと思ったのだ! そうなのだ! ぼくはフォカの優しさに感動して、ありがたく頂いたのだぞ!」 (……贈り物だと? 我が、貴様にそんな気遣いをした記憶はない。それに、贈り物ならまず一声かけるのが礼儀であろう。貴様は無言で、まるでゴミを処理するようにそれを口に運んだぞ) 「ぎくっ! ……そ、それは! ぼくがあまりに感動したあまり、言葉を失ってしまったのだ! 喉が詰まるくらい感動したのだ! むずかしいことは分からないけど、美味しいものは正義なのだ!」 スピラはわざとらしく目に涙を浮かべ、上目遣いでフォカを見た。ハイエルフの子供のような外見を最大限に利用した「必殺・おねだり顔」である。普通なら、この可愛らしさに、どんな強者でも心を許すはずだ。 しかし、フォカは揺るがない。むしろ、その計算高い態度にさらに憤慨したように見える。 (姑息な。外見で誤魔化そうとするな。あの干し柿は、単なる菓子ではない。私の精神の安定を保つための重要な儀式食であったのだ。貴様は今、我が精神の均衡を破壊したのだぞ!) 「ご、ごめんなさいなのだ! 本当に申し訳ないのだ! ぼくが悪かったのだ! だから、怒らないでほしいのだ! お詫びに、ぼくの国の最高級の積み木を一つあげるのだ! それとも、僕が歌を歌ってあげようか!? 『おもちゃのお歌』を歌うのだぞ!」 (積み木などいらん。歌など、今の私の耳には騒音にしか聞こえん。反省の色が見えぬな。正座のままで、我が干し柿の素晴らしさと、それを失った喪失感について、三時間ほど論述せよ) 「三時間!? そんなの無理なのだ! ぼくは子供なのだ! お腹が空くと集中力が切れるのだ!」 スピラは半泣きになりながら、必死に言い訳を重ねた。謝ってはごまかし、ごまかしては謝る。しかし、フォカの怒りは収まるどころか、じわじわと時間をかけてスピラを精神的に追い詰めていく。フォカはわざとゆっくりと、精神的な圧力をかけながら、スピラの至らなさを説教し始めた。 (そもそも、貴様は王として、規律を重んじるべきである。他者の領域を侵さぬこと、それは社会の基本……云々……) (……あぁ、もうダメなのだ。このままだと、明日まで説教が続くのだ。ぼくの人生(270年)で最大の危機なのだ……) スピラが絶望し、正座のままガックリと肩を落としたその時であった。 ふと、フォカの視界に、もう一つの小皿が入った。そこには、スピラが食べるはずだった「蜂蜜たっぷりマドレーヌ」が置いてある。……いや、置いてあったはずだが、皿は空っぽである。 フォカは、自分の記憶を遡った。 (……待て。私は、いつからこの説教を始めた? 私は、いつ、この場に来た?) フォカは思い出した。つい数分前、スピラがまだぼんやりとしていた頃、自分は強い空腹感に襲われていた。そして、目の前にあった「非常に甘そうな、黄金色の菓子」に目を奪われた。神獣としての理性を一瞬忘れ、無意識にそれをパクりと食べた記憶が蘇る。 フォカはゆっくりと、自分の口の中に残っている、濃厚な蜂蜜の香りに気づいた。 (……あ。……食べた。私が、スピラの菓子を、食べていた……?) 静寂が訪れた。 正座して震えていたスピラが、不思議そうに顔を上げた。そして、空っぽのマドレーヌの皿と、フォカの口元を交互に見た。 「……フォカ。もしかして、ぼくのマドレーヌ、食べたのだ?」 (…………) フォカは絶句した。神聖なる鹿狐が、人生で初めて(あるいは神生で初めて)、猛烈な気まずさに襲われた。 自分は今、相手が自分の菓子を間違えて食べたことに激怒し、相手を正座させ、三時間もの論述を課そうとしていた。しかし、実のところ、自分も全く同じことをしていたのである。 スピラは、状況を瞬時に理解した。彼女の表情から恐怖が消え、代わりにニヤリとした不敵な笑みが浮かんだ。 「あはは! フォカも間違えて食べたのだな! どっちもどっちなのだ! 泥棒狐なのだ! 泥棒鹿なのだ!」 (……っ! 黙れ! 私は、無意識に惹かれただけだ! あれはあまりにも香りが強かったのだ!) 「言い訳は禁止なのだ! さっきフォカが言ったのだ! 『言い訳を聞こう。なぜ、私の皿から食べた』なのだ! さあ、フォカも正座するのだ! ぼくが説教してやるのだぞ!」 スピラが勝ち誇ったように胸を張ると、フォカは深く、深いため息をついた。神の権限をもってしても、この「気まずさ」だけは消し去ることができない。 (……もうよい。チャラだ。お互い様ということで、この件はなかったことにしよう) 「ええー! ズルいのだ! ぼくはあんなに怖かったのだ! 精神的ダメージを補償しろなのだ!」 (補償なら、次に最高級の菓子を用意してやろう。それで手を打て) 「……本当になのだ? 約束なのだぞ!」 スピラはパッと顔を輝かせ、正座を解いて跳ね起きた。結局、神の威厳もハイエルフの王の威厳も、お菓子の前では等しく崩れ去るのである。 「よし! じゃあ、今日は二人でお菓子パーティーなのだ! ぼくが特製のおもちゃ菓子をたくさん作ってやるのだぞ!」 (……それは遠慮しておこう。貴様が作る菓子は、見た目がおもちゃすぎて食感が不安でならない) こうして、大聖堂の一角で起きた「お菓子紛争」は、あっけない相互不信(と相互理解)によって終結した。その後、二人が本当に仲良くお菓子を分け合ったかどうかは、彼らだけが知っている。