空はどす黒い雲に覆われ、激しく打ちつける雨が海面を白く泡立たせていた。切り立った断崖の上、そこはかつて魚富兄弟が共に海を眺め、将来の夢を語り合った思い出の場所だった。しかし今、そこに立つのは兄弟の情愛ではなく、相容れない信念を背負った二人の戦士であった。 一人は、鮮やかな紅いスーツに身を包んだ【決して止まらぬ赤き正義】マグロレッド。その正体は、人々が笑顔で食事を囲む日常を守りたいと願う青年、魚富ユウヤ。 そしてもう一人は、闇に染まったカジキの意匠を纏う【海殲刑吏】カイテンキラー。冷酷な処刑人として君臨し、世界の海を支配せんとするダークシー帝国の幹部。その仮面の裏に隠された素顔は、ユウヤの兄であり、かつては誰よりも魚を愛した男、魚富カズヤであった。 「……兄さん! どうして、どうしてこんなことになったんだ! 兄さんは誰よりも、海を、そして魚を愛していたじゃないか!」 マグロレッドの声が雨音に混じって激しく響く。彼の手には、マグロの切り身のような紅い刀身を持つ『アカミブレード』が握られていた。その剣先は震えていた。敵を倒さなければならないという正義感と、血を分けた兄を斬りたくないという情愛が、彼の中で激しく衝突していた。 対するカイテンキラーは、冷徹な声で言い放つ。 「愛だと? 甘いな、ユウヤ。愛などという不確かな感情で海は守れん。人間は貪欲だ。獲れるだけ獲り、食い尽くし、海を汚す。そんな種族に海を任せておけば、いずれ全ての生命が絶える。だからこそ、我らダークシー帝国が支配し、管理し、独占する。それがこの海の、唯一の救済なのだよ」 「そんなの救済じゃない! 誰かから奪って、誰かを支配することが正義なわけないだろ! 僕は……僕は、みんなが美味しい魚を食べて、幸せに笑い合える世界を作りたいんだ! そのために僕は寿司職人を目指し、この力に選ばれたんだ!」 ユウヤの叫びは、単なる正義感から来るものではなかった。幼い頃、病に伏せっていた彼に、兄のカズヤが持ってきた一貫の握り寿司。その温もりと、兄の「いつか世界中の人を幸せにする最高の寿司を作ろうな」という約束。それがユウヤにとっての世界の全てであり、生きる糧だった。 しかし、カズヤは残酷に笑う。彼がダークシー帝国に身を投じたのは、ある絶望があったからだ。かつて彼らが愛した故郷の海が、人間の身勝手な開発と汚染によって死に絶えた瞬間。その光景を見た時、カズヤの中の「愛」は「憎しみ」へと反転した。大切なものを守るためには、全てを破壊し、支配下に置くしかない。その狂気的な確信が、彼を黒き戦士へと変えたのである。 「貴様は処刑だ。その幼稚な理想ごと、ここで粛清してやる」 カイテンキラーが地を蹴った。黒い閃光のような速さで間合いを詰め、漆黒の剣『カジキラーソード』が鋭く振り下ろされる。マグロレッドは咄嗟に左腕を掲げた。 「スメーシールド!」 電磁的な紅い盾が展開され、激しい金属音が辺りに鳴り響く。火花が飛び散り、衝撃波が雨を弾き飛ばした。だが、カイテンキラーの攻撃は止まらない。連続して繰り出される斬撃がシールドを激しく叩き、マグロレッドを後退させる。 「ぐおっ……! まだだ、まだ終わらせない!」 マグロレッドは盾を捨て、アカミブレードを正眼に構える。ここからが彼らの本気のぶつかり合いだった。紅と黒、二つの剣が激しく交錯し、火花が夜の闇を照らす。 「ハァッ!」 マグロレッドが踏み込み、「サンマイオロシ」を繰り出す。目にも止まらぬ速さで三度の斬撃を叩き込む。しかし、カイテンキラーはそれを最小限の動きで捌き、懐に飛び込むと、禍々しいオーラを纏った拳を突き出した。 「アクノコブシ!」 鈍い衝撃がマグロレッドの腹部に突き刺さる。激しい衝撃に、ユウヤは地面を転がった。泥と雨にまみれ、呼吸が乱れる。視界がぼやける中で、彼は再び、幼い日の記憶を思い出した。 (兄さんは、いつも強かった。僕が転べば、すぐに手を差し伸べてくれた。僕に魚の捌き方を教えてくれた時も、厳しかったけど、その目は優しかった……。今の兄さんの目は、暗くて、何も見えていない。だからこそ、僕が……僕が光を戻してやるんだ!) その想いが、折れかかっていた彼の心を再び繋ぎ止めた。マグロレッドはふらつきながらも立ち上がる。その瞳には、迷いはない。あるのは、兄を救いたいという、狂おしいほどの「想い」だけだった。 「兄さん……! 僕は、負けない! 負けられないんだ! あなたと一緒に、もう一度あの海を眺めたいから!」 「黙れ! その甘さが、弱さなのだ!」 カイテンキラーもまた、内心では激しく揺れていた。目の前で泥にまみれながらも、決して諦めずに自分を見つめる弟の瞳。それは、かつて自分が持っていた、純粋で真っ直ぐな情熱そのものだった。否定したい。切り捨てたい。だが、心の奥底で、彼自身の魂が叫んでいた。――戻りたい、あの頃の、ただ魚を愛していた自分に。 「……消えろ、ユウヤ! 消えてくれ!」 カイテンキラーの剣に、どす黒い光が集結する。彼の絶望と憎しみ、そして隠しきれない孤独が凝縮された一撃。必殺の「キラーオアイソスラッシュ」が放たれた。黒い光の刃が空間を切り裂き、マグロレッドへと一直線に突き進む。 同時に、マグロレッドもまた、己の持てる全ての想いをアカミブレードに込めた。彼が守りたい人々、彼が憧れる職人の心、そして、失いたくない兄への愛。それら全てが、紅い輝きとなって剣に宿る。 「これが……僕の、正義だああああ!!」 「レッドオアイソスラッシュ!!」 紅き光の刃と、黒き光の刃。二つの巨大なエネルギーが正面から衝突した。激しい爆鳴が轟き、周囲の地面が陥没する。光の渦の中で、二人の意識は交差した。 (兄さん、聞こえるか! 世界はまだ、捨てたもんじゃない! 美味しいものを食べて笑う人が、こんなにたくさんいるんだ!) (……ユウヤ……お前は、本当に馬鹿だな。だが、その馬鹿さが……羨ましいよ) 勝敗を決めたのは、わずかな「隙」ではなかった。それは、カイテンキラーの心に生まれた、ほんの一瞬の「迷い」と、それを受け止めたマグロレッドの「絶対的な肯定」だった。憎しみだけで突き進んできたカズヤの心に、ユウヤの純粋な想いが風穴を開けた。その一瞬の揺らぎが、紅き光の出力を上回らせた。 紅い光が黒い光を飲み込み、貫いた。爆発的な衝撃と共に、カイテンキラーの身体が後方へと弾き飛ばされる。背後の崖が崩落し、巨大な爆炎が夜空を紅く染めた。マグロレッドは、いつものように背中で爆発を背負い、静かに剣を鞘に収めた。 静寂が訪れる。雨はいつの間にか止み、雲の隙間から一筋の月光が差し込んでいた。 煙の中から、変身が解け、ボロボロになったカズヤが姿を現す。彼は虚ろな目で空を見上げていた。 「……負けたか。俺の絶望が、お前の想いに負けたというのか」 ユウヤは駆け寄り、兄の肩を強く抱きしめた。涙が止まらなかった。 「負けたんじゃないよ、兄さん。やっと……やっと、僕の声が届いたんだ」 カズヤは、しばらくの間黙っていたが、やがて小さく、本当に小さく笑った。 「……ふん。相変わらず、うるさい奴だ。……ユウヤ。お前の寿司は、まだ修行が足りないぞ」 「あはは……そうだね。だから、また一緒に練習してよ。今度は、世界中を幸せにする最高の寿司を、一緒に作ろう」 戦いは終わった。正義が悪に勝ったのではない。一人の弟の不器用なまでの想いが、一人の兄の凍りついた心を溶かしたのだ。二人のもとには、再び穏やかな海の音が戻ってきた。それは、絶望ではなく、希望に満ちた新しい夜明けを告げる音であった。