雨は降らず、しかし夜霧が街を飲み込んでいた。街灯のネオンが滲み、現実と幻想の境界が曖昧になる路地裏。そこに、不釣り合いなほど静謐な空気を纏った盲目の少女、千歳雹華が立っていた。 「ふふ……。心地よい静寂ですね。けれど、そこに『空虚』が混じっている」 彼女の周囲を、漆黒の葉――『冥葉』が生き物のように舞う。その時、彼女の背後の影から、ひょいと紺色のレインコートを纏った中性的な人影が浮かび上がった。 「やあ!こんばんは。案内役の僕たちがお手伝いしましょうか? それとも、お悩み相談? もしくは……お絵描き?」 かえるのしっぽ。その声は軽やかで、幼さと妖艶さが同居している。彼は実体があるようでなく、そこにいながらにして「いない」という矛盾を体現していた。 「お喋りな亡霊のよう。ですが、その形……剪定しがいがありそうです」 雹華が微笑んだ瞬間、背後の影から数枚の冥葉が弾丸のごとき速度で射出された。しかし、かえるのしっぽはそれを避けるのではなく、「溶けた」。 「あはは!当たってないよ、だって僕は『ここ』にいないし、『そこ』にもいるからね!」 【無と有の境目を操り溶かす】。彼は自身の存在確率を分散させ、物理的な衝突という概念を「冗談」に変えて受け流した。だが、雹華の瞳(視えないはずの眼)は、空気の僅かな振動と体温の揺らぎを完璧に視覚化していた。 「逃がしませんよ。等価交換――」 雹華が指を鳴らす。かえるのしっぽが「有」として実体化した瞬間に、彼がいた位置に配置されていた冥葉と、遠く離れた路地裏の葉が【等価交換】された。強制的な位置変換。回避不能の至近距離に、鋭利的硬度に調律された冥葉が突き刺さる。 「いってて! でもね、忘れ物を取りに来ただけなんだ」 かえるのしっぽは、斬り裂かれた肩から血ではなく「記憶の断片」のような光の粒子を溢れさせた。彼は自身の損傷を、周囲に漂う微かな感情や、過去にそこを通り過ぎた誰かの記憶を取り込むことで瞬時に【自己修復】し、さらにその攻撃の「軌跡」をキャンバスに描くように塗り替えた。 「お絵描きタイム! 君の攻撃、ちょっと色が地味だね」 彼が指をなぞると、空間にネオンサインのような極彩色の線が描かれた。それは単なる絵ではない。有るはずのない「壁」や「穴」を現実へと書き込む、認識の改変である。突然、雹華の足元に「底のない穴」という絵が描かれ、彼女は重心を崩した。 「……面白い。ですが、私の葉は影さえも支配します」 雹華は空中での体勢を立て直すと、周囲の全ての影を冥葉へと変貌させた。地面、壁、そしてかえるのしっぽ自身の足元から、無数の黒い刃が噴出する。同時に、彼女のスキル①が発動した。冥葉が彼のかえるのしっぽの影に触れた瞬間、視覚的な光だけでなく、「認識」そのものが遮断される。 命中率を極限まで低下させる絶望的な盲目状態。しかし、かえるのしっぽはそれを「快感」として受け入れた。 「わぁ!真っ暗だ! でもね、僕たちはもともと『無いもの』だから、見えなくてもいいんだよ」 彼は視覚を捨て、代わりに「音」と「気配」を極限まで拡大解釈した。雨音のような静寂の中にある、雹華の心拍数、血の流れ、そして冥葉が空気を切り裂く「音の隙間」を。彼は「音の無い絵空事」となり、物理的な速度を超え、概念的な「速さ」で彼女の懐に潜り込んだ。 「チェックメイト。内緒話、しよっか」 耳元で囁く声。しかし、そこには誰もいない。彼は自分という存在を「音」に変換し、彼女の意識の内部へ直接侵入しようとした。精神的な浸食。記憶と感情を飲み込む彼の本能が、雹華の歪んだ精神を食い破ろうとする。 だが、雹華はそれを予期していた。彼女は自身の精神的な苦悶さえも芸術として愛でる。浸食してくる「空虚」を、彼女はあえて受け入れ、それを「冥葉」のエネルギーへと変換した。 「私の絶望を、あなたに分け与えましょう」 【冥葉の変奏曲:絶頂】。彼女を囲む数万の葉が、一斉に超高周波の振動を始めた。それは空気そのものを鋭利な刃に変える広域攻撃。逃げ場はない。かえるのしっぽは自身の存在を溶かして逃れようとしたが、振動は「有」だけでなく「無」の領域にまで干渉し、彼の存在基盤である「境界線」を物理的に切り刻んでいく。 「あはは……あは……。すごいや、本当にバラバラになっちゃいそう」 かえるのしっぽは、消えゆく意識の中で最後の「冗談」を口にした。彼は自身の全てを一つの「メッセージ」に凝縮し、雹華の心臓に直接、認識上の「忘れ物」として植え付けた。 ドォォォン!! 爆発的な振動が止まったとき、そこには静かに佇む盲目の少女だけが残っていた。かえるのしっぽの姿はどこにもない。完全な消滅。あるいは、完全な融合か。 しかし、雹華はふと、自分の胸に手を当て、困惑したように微笑んだ。 「……おや。心地よい、いたずらっぽい温かさが残っていますね」 彼女の心の中に、消えない「残滓」として、紺色のレインコートを着た少年の笑い声が、永遠にループし始めていた。 勝敗はついた。実体としての勝者は千歳雹華。だが、その精神の深淵に「消えない意思の塊」を刻み込んだかえるのしっぽの勝ちでもあるのかもしれない。 夜霧が晴れ、街に本当の雨が降り始めた。