空を塗りつぶすのは、どろりと濁った血のような紅い月だった。 その不気味な光は、ただの天体現象ではない。大気中に濃密な魔力となって降り注ぎ、そこに集った者たちの精神を、理性という名の檻から解き放っていく。本能の増幅。感情の暴走。そして、本来なら制御されるべき力の限界突破。 「……最高だぜ。なんだか、血が沸騰して止まんねえ!!」 武流臼里依は、興奮に身を震わせていた。普段の彼女は暑苦しいほどの熱血漢だが、今の彼女は違う。紅い月の魔力に当てられ、その「情熱」は狂気的な「闘争心」へと変貌していた。手にしたヌンチャクが、彼女の激昂に呼応してかすかに赤く発光している。 対照的に、静寂を纏っていたのはジェフ・ザ・キラーだ。白いパーカーに身を包み、不気味に裂けた口元を吊り上げた怪人。彼は言葉を発しない。ただ、その真っ白な瞳が、獲物を定める捕食者のように鋭く光っていた。彼にとって、この夜は心地よい。痛みを忘れた肉体と、底なしの殺意。紅い月は彼の内にある「不滅の執念」を、物理的な破壊力へと昇華させていた。 そして、その二人を包囲するように展開していたのは、現代兵器の粋を集めた「軍隊」である。特殊部隊の精鋭、装甲車、そして上空を舞う攻撃ヘリ。彼らは規律正しく、冷徹に獲物を追い詰める。しかし、彼らもまた月の魔力から逃れることはできない。指揮官の思考は「殲滅」という一点にのみ塗り潰され、兵士たちの心からは慈悲や恐怖が消え、ただ効率的に殺し合う機械へと成り果てていた。 「考えるんじゃない、感じるんだ!!」 里依が絶叫し、地面を蹴った。その速度は常軌を逸していた。本来の素早さを遥かに超え、彼女の足跡が地面を砕く。彼女は空中で身をよじると、紅い月に照らされた戦場へと躍り出た。 「ホアチャァアアアーーーー!!!!」 【戦哮】。 普段なら相手を少し怯ませる程度の奇声が、今は衝撃波となって周囲を襲った。空気が爆ぜ、至近距離にいた兵士たちが鼓膜を破られ、衝撃で吹き飛ばされる。しかし、軍隊は即座に反応した。後方の狙撃手が冷徹に引き金を引き、対物ライフル弾が里依の脳門を目がけて飛来する。 ガギィィィン!! 里依は反射的にヌンチャクを振り回し、弾丸を弾き飛ばした。本来なら不可能な芸当だ。だが、今の彼女には「リミッター」がない。肉体が壊れる寸前まで出力を上げ、本能のみで弾道を読み切ったのだ。 「ヒャッハァ! これだよ、この緊張感! まさに映画のクライマックスじゃねえか!!」 彼女が【龍翔乱舞】を繰り出す。ヌンチャクが赤い閃光となり、円を描いて周囲の兵士たちを文字通り「挽肉」に変えていった。一撃一撃が戦車を貫くほどの威力となり、血飛沫が紅い月に溶け込むように舞い上がる。 だが、その喧騒の裏側で、死神は動いていた。 ジェフ・ザ・キラーは【夜惟の奇襲者】によって、紅い月が作る深い影と同化していた。軍隊の赤外線センサーさえも、彼の異常な殺気に塗り潰されて機能しない。彼は音もなく、里依の背後に、そして兵士たちの死角へと忍び寄る。 シュパッ!! 鋭利なナイフが、一人の兵士の頸動脈を正確に断ち切った。血が噴水のように上がるが、ジェフは表情一つ変えない。彼はそのまま影から影へと跳ね、混乱する軍隊の真っ只中へと潜り込んだ。 「Go to Sleep」 囁きと共に、ナイフが兵士の心臓を貫く。軍隊はパニックに陥った。目に見えない敵に仲間が次々と屠られていく。指揮官は怒号を上げ、全火力の集中攻撃を命じた。 「撃て! 全員撃て!! 逃がすな!!」 ガトリング砲の猛火が戦場を焼き尽くす。弾丸の雨が降り注ぎ、地面は抉れ、土煙が舞う。里依はその嵐の中に飛び込み、ヌンチャクを盾にして突き進んだ。 「どけえええ!! 俺の道を開けろ!!」 彼女の攻撃はもはや格闘技ではなく、災害だった。一振りのヌンチャクが装甲車の装甲板を紙のように引き裂き、内部の兵士たちを圧死させる。あまりの出力に、彼女自身の腕の筋肉が悲鳴を上げ、皮膚から血が滲むが、彼女はそれを快楽として受け入れていた。 しかし、その瞬間。彼女の視界から、ある「影」が消えた。 (……!?) 直感だった。里依が振り返った瞬間、ジェフのナイフが彼女の脇腹を深く切り裂いた。深々と、臓器にまで達する一撃。普通の人間ならショック死するほどのダメージだ。 「ガハッ……!!」 里依が膝をつく。だが、彼女の目は死んでいなかった。それどころか、紅い月の光を受けて、その瞳に狂気的な歓喜が宿る。 「いい……いいぜ……!! これだ! この痛みこそが、生きてる証だ!!」 彼女は自身の傷口を気にせず、あろうことか、自分を斬ったジェフの腕を掴み取った。同時に、彼女の脳裏に新たな「閃き」が走る。スキル【騒がしい情熱】の暴走だ。 (回転……そうだ、遠心力だ! もっと、もっともっと速く回れば、すべてを粉砕できる!!) 「新しい技だ!! 受けてみろ、超・龍翔旋風斬!!」 里依は自らを独楽のように高速回転させ始めた。ヌンチャクを最大限に伸ばし、自身の身体を軸に超高速の回転攻撃を仕掛ける。それはもはや人間ではなく、血塗られた巨大な鋸(のこぎり)だった。 ドガガガガガ!! ジェフは回避しようとしたが、里依の回転範囲は想定を超えていた。彼の白いパーカーが切り裂かれ、肉が削ぎ落とされる。しかし、ジェフには【神経焼去】がある。痛みを感じない彼は、肉が剥がれ落ちてもなお、無表情にナイフを突き立て続けた。 「……ッ!!」 ジェフのナイフが里依の肩に深く突き刺さる。しかし、里依は止まらない。回転の遠心力でジェフを弾き飛ばし、そのまま周囲に展開していた軍隊の主力部隊へと突っ込んだ。爆風と血飛沫が混ざり合い、地獄絵図が完成する。 軍隊側も捨て置いてはいない。最終手段として、後方に待機していた多連装ロケット砲による「絨毯爆撃」が決定した。標的は、戦場の中央にいる二人。兵士たちは自分たちが巻き添えになることも厭わず、ただ「殲滅」という命令に従い、発射ボタンを押した。 ――シュルルルル!! 空を埋め尽くすロケット弾の群れ。紅い月の光を反射して、それはまるで赤い雨のように降り注いだ。 ドォォォォォォォン!!!!!!!! 大地が揺れ、視界が真っ白に染まった。爆風がすべてをなぎ倒し、炎がすべてを焼き尽くす。軍隊の残存兵力は、自らの放った火の海に飲み込まれ、絶叫と共に消滅していった。もはやそこには、秩序ある軍隊の姿はなかった。ただ、焦げ付いた鉄の塊と、炭化した死体が転がっているだけだ。 爆煙がゆっくりと晴れていく。 そこには、ボロボロになった二人の姿があった。 里依は右腕を脱臼し、衣服はほとんど焼失し、全身から血を流して立っていた。もはや意識は朦朧としており、立っているのが不思議な状態だ。しかし、その口角だけは吊り上がっていた。 対するジェフ・ザ・キラー。彼の状態はさらに凄惨だった。爆風で半身の皮膚が焼け落ち、白いパーカーは黒い灰へと変わっていた。しかし、彼の【不滅の執念】が彼を突き動かす。HPが減れば減るほど、速度は上がる。もはや生物としての限界を超えた速度で、彼は里依へと肉薄した。 「……Go to Sleep」 その声は、もはや人間のものではなかった。地獄の底から響くような、冷たい響き。ナイフが里依の喉元へ向かって、光速に近い速度で突き出される。 だが、里依の【騒がしい情熱】は、死の間際にあっても消えていなかった。彼女は絶望的な状況の中で、人生最大の「閃き」を得た。 (全部……全部ぶっ込もうぜ!!) 彼女は避けることを捨てた。あえてナイフを胸に受け入れ、その反動を利用して、残った左腕でヌンチャクをジェフの側頭部へ叩きつけた。それは、これまでの攻撃をすべて上回る、魂を込めた一撃だった。 ガッッッッッ!!!! 鈍い音が響き、ジェフの頭蓋が粉砕された。衝撃で彼の身体は地面に叩きつけられ、大きく跳ねる。同時に、ジェフのナイフが里依の心臓を深く貫いていた。 静寂が訪れた。 紅い月が、冷酷に二人を見下ろしている。 ジェフ・ザ・キラーは、ピクリとも動かなくなった。頭蓋を完全に破壊され、脳機能が停止した。不滅の執念さえも、物理的な破壊の前には無力だった。彼は満足げに笑ったまま、事切れた。 里依は、胸に突き刺さったナイフを掴み、ゆっくりと空を仰いだ。 「……へへ。最高の……映画……だったぜ……」 彼女の視界から色が消えていく。意識が遠のき、身体から力が抜けていく。だが、彼女の心は満たされていた。理性を捨て、本能のままに全力でぶつかり合った快感。それが、彼女にとっての最高の結末だった。 ドサリ、と彼女の身体が地面に横たわる。 紅い月は、ゆっくりと雲に隠れていった。暴走した魔力が消え、戦場にはただ、凄惨な静寂と、死体の山だけが残された。 勝者は、いなかった。 ただ、紅い月の夜に踊った三つの狂気だけが、血に染まった大地に深く刻まれていた。