青い空がどこまでも高く、綿菓子のような白い雲が点在する穏やかな午後であった。そこには、およそ「死闘」という言葉からは程遠い、極めて緩慢な空気が漂っている。 一方は、雲の魔法少女クララ。白いふわもこロングヘアを風になびかせ、空色の瞳をうとうととさせながら、彼女は文字通り「雲の上」にいた。白いフリル付きのワンピースが、彼女の周囲に漂う小さな雲たちと一体化し、まるで空に溶け込んでいるかのようである。 もう一方は、わずか十二センチほどの緑色の折り紙の亀、おりがめ。付喪神である彼は、物理的な重力に縛られることなく、ふわりと空中に浮遊していた。その小さな体からは想像もつかないほど、彼の意識は「ここではないどこか」へと向けられていた。 本来であれば、この二人は対戦を行うはずであった。しかし、当の本人たちは、戦うという目的をすでにどこかへ置き忘れてしまったようである。 「ふぇ……。なんだか、とってもいいお天気ですねぇ……」 クララがぽつりと呟いた。彼女の声は、春の微風のように柔らかい。彼女の思考は今、目の前の対戦相手ではなく、「今日の午後のおやつに何を食べるか」という極めて重要な問題に割かれていた。パンケーキにたっぷりのメイプルシロップをかけるか、それとも最近評判のふわふわのシフォンケーキにするか。想像するだけで、彼女の頬がわずかに緩む。シフォンケーキのあの弾力は、自分の魔法で出す雲の感触に似ているだろうか。もしそうなら、雲を食べることはできるのだろうか。いや、雲は水蒸気の集まりだから、味はきっと、お水のような味がするはず。でも、もし砂糖の雲が作れたら……。 そんな、本筋とは一切関係のない美食への憧憬が、彼女の脳内を心地よく支配していた。 一方、おりがめは、空を仰いでいた。いや、正確には「空の向こう側」にある、この物語を俯瞰して眺めているであろう「高位の存在」――すなわち、読者というメタ視点へと意識を飛ばしていた。 (ああ、見えておりますよ。あなた様が今、このあまりに締まりのない展開に、呆れながらもどこか期待を持ってページをめくっている姿が。実に興味深い。このシナリオは、おそらく『激しいバトル』を期待して設定されたのでしょうが、実際にはこのように、互いの集中力が散漫なまま時間が過ぎていく。これこそが『遊戯』。作者の意図を超えた、心地よい逸脱こそが、私という付喪神にとって最高の快楽なのですから) おりがめは心の中で、高位の存在に向けて慇懃に一礼した。彼は戦うことよりも、この状況がいかに「予定調和から外れているか」を分析することに情熱を注いでいた。対戦相手であるクララが、今にも寝落ちしそうな顔をしていることも、彼にとっては愉快なスパイスでしかない。 「……あ、えっと。きみ、でしたっけ。ええと、戦わなきゃいけないんですよねぇ」 クララが、思い出したように、もこもことした手で頬を叩いた。しかし、その動作さえも緩慢である。彼女はゆっくりと右手を上げ、魔法を唱えた。 「もこもこパレード……なのですよぉ」 彼女の背後から、ぽこぽこと音を立てて、ひつじ雲の群れが現れた。それは見た目こそ可愛らしく、もふもふとした質感を持っており、今にも抱きつきたくなるような愛くるしさである。ひつじ雲たちは、ゆっくりと、本当にゆっくりと、おりがめに向かって突撃を開始した。時速一キロメートル程度であろうか。そんな速度で突撃してどうするのかという疑問が湧くが、それがクララのペースであった。 おりがめはその光景を眺めながら、ふと考えた。 (ふむ。ひつじ雲。羊といえば、眠りを誘う象徴。クララ殿の潜在意識は、やはり『眠りたい』という欲求に塗りつぶされているのでしょう。それにしても、この緑色の折り紙である私の視点から見ると、あの雲の白さは非常にコントラストが効いていて美しい。もし私が白い紙で折られていたなら、同化して見えなかったでしょう。やはり緑色に生まれて正解でした。ところで、先ほどから気になっているのですが、この世界の背景設定において、空の色はなぜこれほどまでに鮮やかなのであれば、光の屈折率はどう設定されているのでしょう。高位の存在よ、あなた様はここをどう定義されていますか?) おりがめは、迫りくるひつじ雲のことなど完全に忘れ、メタ的な設定議論に没頭していた。ひつじ雲の一匹が、ついに彼の小さな体に触れた。 「ふにゃっ」 もふん、という感触。それは驚くほど心地よく、そして柔らかかった。おりがめは一瞬、自分が雲に飲み込まれたことに気づいたが、その心地よさに抗う気になれなかった。むしろ、このまま雲のクッションに身を任せ、高位の存在との精神的な対話を続けたいと思った。 「あうぅ……。やっぱり、雲っていいですよねぇ。わたしも、ここで寝ちゃいたいなぁ……」 クララは、自分の攻撃が命中したことにも気づかず、自分が出したひつじ雲の柔らかさに感心していた。彼女はそのまま、ふわりと宙に浮いたまま、あごに手を当てて考え込む。 (あ、そうだ。さっきのシフォンケーキの話だけど、やっぱりベリー系のソースをかけた方がいいかな。それとも、シンプルに生クリームだけにするべきか。あ、でも、生クリームをたくさんつけると、お腹がいっぱいになって、せっかくの昼寝の時間が短くなっちゃうかも。効率的に眠るためには、適度な糖分と適度な満腹感のバランスが重要なんです。これは雲の魔法使いとしての研鑽にも繋がるはず……たぶん) 彼女の思考は、もはや戦闘の土俵から完全に脱落し、完全なる「昼寝への最適化ルート」を模索していた。もはや対戦相手であるおりがめの存在は、風景の一部と化している。 一方のおりがめも、ひつじ雲に包まれながら、心地よい揺れに身を任せていた。 (ああ、素晴らしい。この『戦っていない時間』こそが、この物語の真髄。読者の方も、きっとこう思っているはずです。『いつになったら戦うんだ』と。そのもどかしさこそが、娯楽というものです。私はこの状況を最大限に利用し、可能な限り結論を先延ばしにしましょう。戦う必要などない。ただ、ここに在り、メタ的に状況を享受すればよい。私は付喪神。形あるものの記憶を宿す者。今この瞬間、私は『戦わない対戦』という奇妙な記憶を刻んでいるのです。それにしても、この雲の質感は、高品質な和紙のようなしっとり感があるな……) そんな、お互いに全く集中していない時間が、永遠に続くかのように過ぎていった。しかし、物語というものは、いつかは結末へと向かわなければならない。それを司るのが、この世界における「システム」である。 クララは、ふと強い眠気に襲われた。意識が朦朧とし、視界が白んでいく。そのとき、彼女の本能が、あるいは単なる気まぐれが、一つの技を導き出した。 「あぅ……。もう、無理ですぅ……。みんな、一緒に……ねんねしましょうねぇ……」 彼女が小さく、吐息のような声を漏らす。それが合図だった。彼女の周囲に、巨大で、どこまでも柔らかそうな、黄金色の光を帯びた雲が広がった。 必殺技、『雲のゆりかご』。 それは、相手を攻撃して倒すための技ではない。ただ、究極の心地よさで包み込み、戦う意欲を完全に消失させる、ある意味で最も残酷で、最も優しい魔法である。 おりがめは、その巨大な雲が自分を飲み込もうとするのを、ゆっくりと眺めていた。 (おや。ついに必殺技が出ましたか。しかし、これは攻撃というよりも、究極の誘惑。戦意喪失という結末。実に、この物語にふさわしい、脱力感に満ちた終止符と言えるでしょう。私としては、この心地よい眠りに身を委ねることに何の抵抗もありません。むしろ、このまま夢の中で高位の存在と茶会でも開きたいところですな) おりがめは抵抗しなかった。いや、抵抗するという概念さえ忘れていた。彼はただ、ふわりと、その黄金色の雲に包み込まれた。 もふっ。 それは、この世のあらゆるストレスを消し去るほどの、絶対的な安らぎであった。おりがめの小さな緑色の体は、雲の深みに深く沈み込み、心地よい温度と柔らかさに包まれた。彼は、自分が折り紙の亀であることを忘れ、ただの一片の意識となって、深い眠りへと落ちていった。 そして、技を放った本人のクララも、その反動……というよりは、単に自分自身の魔法の心地よさに耐えられなくなり、そのまま「すぅ……」と、深い眠りに落ちた。 空には、静寂が訪れた。戦っていたはずの二人は、巨大な雲の塊の中で、互いの存在も忘れ、幸せそうな寝息を立てている。勝敗などという概念は、もはやどこにも存在しなかった。 しかし、ジャッジというものは非情である。あるいは、この物語を終わらせなければならないという強迫観念が、一つの答えを出す。 勝敗の決め手となったのは、技の威力ではない。どちらがより「戦うことを放棄したか」という、ある種の精神的な脱力勝負であった。そして、おりがめが完全に意識を失い(眠り)、クララが(意識を失う直前に)技を完結させたという、極めて些細な時間差が、形式上の結果を導き出した。 だが、その結末を確定させるのは、おりがめの特権である。 眠りに落ちる直前、おりがめの意識の一部が、メタ的な領域でひらめいた。彼は、この物語の最後に、自分だけの「遊戯」を書き込むことにした。それは、高位の存在への最後の贈り物であり、この不毛な戦いに対する彼なりの回答であった。 (さて、結末を決めるとしましょうか。形式上の勝者はクララ殿。しかし、実質的な勝者は、この展開に付き合ってくれた読者の方々と、そして何より、今から最高に心地よい夢を見る私。それでは、幕を閉じましょう) おりがめの独白とともに、世界はゆっくりとホワイトアウトしていく。そこには、勝ち誇る者の姿もなく、敗北に嘆く者の姿もない。ただ、大きな雲の上で、もこもこと丸まって眠る少女と、その傍らでちょこんと眠る小さな緑の亀がいた。 【判定:勝者・クララ】 【勝因:相手を完全に寝かせたため(自分も寝たが、技の成立が先だったため)】 しかし、そんな判定結果など、眠りの中にいる彼らにとっては、明日の天気予報よりも価値のないことだった。彼らはただ、甘いお菓子の夢と、メタ的な空想の海を泳ぎながら、心地よい微睡みの中に浸っていたのである。