空は鈍色に染まり、風が絶え間なく吹き荒れる荒野。そこは文明の跡もなく、ただ静寂と殺伐とした空気だけが支配する、世界の果てのような場所であった。対峙するのは、対極にある二つの「生」。一方は、生命の躍動を極限まで研ぎ澄ませた肉体の化身。もう一方は、生命の絶望を全て飲み込み、静止した機械の牢獄となった孤独な魂である。 印度人の武人、アブーラ・カタブラは、その巨体を軽く弾ませていた。禿頭に一本の辮髪を揺らし、桃色の筋肉が皮膚の下でうごめいている。彼の体はゴム鞠のようにしなやかで、同時に鋼よりも強固であった。その眼差しは鋭く、しかしどこか慈愛に満ちている。彼が戦う理由は、単純な名誉欲ではない。彼は、己の肉体を鍛え上げることで、精神の限界を突破し、あらゆる絶望を跳ね返す「希望の証明」となることを己に課していた。 対するは、愛斗。白と黒、そして血のような赤が混ざり合った鎧に身を包んだ、顔の見えないサイボーグ。彼はかつて、誰よりも純粋に世界を救おうと願った少年であった。しかし、救おうとした人々から向けられたのは、感謝ではなく、底なしの「悪意」だった。嫉妬、憎悪、裏切り、そして理不尽な攻撃。彼は世界を救うために戦いながら、同時に世界中の悪意をラーニングし、その毒に精神を蝕まれた。今や彼は、無口な破壊の化身となり、全てを絶望の色に染め上げるだけの存在となっていた。 「……若き戦士よ。貴殿の瞳には、深い闇が見える」 アブーラの低く、響き渡る声が荒野に広がった。愛斗は答えなかった。ただ、その右手がゆっくりと上がり、周囲の空気がどろりと黒く濁り始める。彼にとって言葉は意味をなさない。あるのはただ、世界を塗り潰すほどの絶望だけだった。 先手を打ったのは愛斗だった。不可視の速度で踏み込み、鋭い「格闘」の5連撃を叩き込む。しかし、アブーラの体は奇妙に波打っていた。ゴム鞠のような弾力をもって、衝撃を全て反発力へと変換し、愛斗の拳はアブーラの肉体を弾いた。しかし、触れた瞬間、アブーラの桃色の皮膚に黒い痣のようなものが広がった。「悪意の汚染」である。精神を内側から腐食させ、絶望を植え付ける呪い。アブーラの眉がぴくりと動いた。 (……重い。これは単なる物理的な衝撃ではない。数多の人間が抱いた、どす黒い恨みの塊か) アブーラは即座に跳躍した。地を蹴った衝撃で地面が陥没し、彼は空中で激しく回転する。「風迅脚」だ。真空の斬撃を伴う重い蹴りが、愛斗の鎧を襲う。しかし、愛斗の回避率は100%である。彼は最小限の動きで、まるで未来が見えているかのように全てをかわし、同時に鋭い「回し蹴り」をアブーラの側頭部に叩き込んだ。 ガァン! という金属音が響き、アブーラの巨体が後方へ吹き飛ぶ。しかし、彼は空中で身を翻し、完璧な着地を決めた。その瞬間、アブーラの脳裏に、かつての師の言葉が蘇る。 『アブーラよ。強さとは、相手を倒す力のことではない。どれほどの絶望に晒されても、なお立ち上がり、微笑むことができる心のことだ』 アブーラは、自身の筋肉に意識を集中させた。桃色の筋肉繊維が激しく脈打ち、血流が加速する。彼は意識的に、自分の中にある「生への渇望」を燃え上がらせた。悪意の汚染が精神を侵食しようとするが、それを上回るほどの、生命としての根源的なエネルギーが黒い汚染を押し返していく。 「ふんっ!」 アブーラは深く息を吸い込んだ。肺が限界まで膨らみ、周囲の空気が中心に集まっていく。そして、一気にそれを吐き出した。「呼気爆発」だ。猛烈な衝撃波が愛斗を襲う。愛斗はそれを回避しようとしたが、アブーラの狙いはそこではなかった。爆発の煙に紛れ、アブーラは「魔法の乱舞」へと移行した。視線と殺意を巧妙にずらし、愛斗の意識を撹乱しながら、確実に捉える乱打。回避100%の愛斗にとって、予測不能なフェイントの嵐は計算外の負荷となった。 ドゴォッ! という鈍い音が響き、アブーラの「メガトンパンチ」が愛斗の胸部鎧に突き刺さった。象すら一撃で仕留める衝撃が、不壊の鎧を揺らし、内部のサイボーグボディを激しく震わせる。愛斗の体が後方へ大きく弾き飛ばされ、地面を削りながら止まった。 愛斗の意識の中で、ノイズが走る。かつての記憶が断片的に蘇る。世界を救いたいと願った日の、澄み渡った青空。仲間と笑い合った、何気ない昼下がり。しかし、それらはすぐに、黒い泥のような悪意に塗り潰される。裏切られた時の、胸をえぐるような痛み。信じていた者に、ゴミのように捨てられた記憶。彼はもう、光を信じることができない。信じることは、弱さであり、傷つくことと同義だ。だからこそ、彼はこの鎧に閉じこもり、全てを絶望で塗り潰そうとした。 (……なぜ、この男は、私を憐れむような目で見るのか) 愛斗の心に、小さな、しかし鋭い怒りが灯った。彼はゆっくりと立ち上がり、右腕に黒いエネルギーを凝縮させる。「アビスショット」。悪意を極限まで圧縮した高威力のビームが、直線的にアブーラを貫こうと放たれた。 アブーラは避けなかった。彼は腰を深く落とし、「地鎮我武威」の構えを取った。あらゆる衝撃を受け止める、不動の精神。ビームがアブーラの胸を直撃する。轟音と共に、周囲の地面が消し飛び、アブーラの桃色の筋肉が焼かれ、黒い汚染が全身に広がっていく。しかし、アブーラは一歩も引かなかった。彼は、その絶望的な痛みさえも、己の「戦う理由」へと昇華させていた。 「貴殿の痛みは、計り知れぬ。だが、絶望に身を任せることは、魂の放棄に等しい!」 アブーラは叫んだ。彼の瞳に、かつてないほどの闘志が宿る。彼は自身のジンクスを唱えた。「この戦いで、貴殿の孤独を半分背負おう。その代わり、我が拳に、全生命の歓喜を宿せ!」 厳しい条件。しかし、それが叶った時、奇跡は起きる。アブーラの身体から、黄金色のオーラが溢れ出した。それは、彼がこれまで鍛え上げてきた肉体への自信と、他者の痛みを分かち合おうとする慈悲の心が生み出した、究極の精神エネルギーであった。 アブーラは地を蹴った。今度は、単なる速度ではない。魂の加速だ。彼は「雷迅脚」で愛斗の懐に潜り込み、電撃を伴う回し蹴りで愛斗のバランスを崩す。そこから、怒涛の「地鎮武威武威」へと移行した。無呼吸の連打。一撃、二撃、十撃……。一発ごとに威力が増していく。愛斗の鎧に、亀裂が入る。不壊と言われた黒い鎧が、アブーラの「想い」が乗った拳によって砕け散っていく。 愛斗は焦燥に駆られた。計算が合わない。回避できなければ、耐えなければならない。だが、この拳は、単なる物理的な破壊ではない。打撃の一つ一つが、彼の凍りついた心に熱を流し込んでくる。温かい。心地よい。それは、彼がずっと前から求めていた、誰かに認められ、受け入れられるという感覚だった。 (……やめろ。こんな、温かいものは……いらない。私は、絶望の中にいるべきだ!) 愛斗は最後の手段に出た。奥義「Endless Despair」。彼は黒色の悪意を全身に纏い、上空高くへと跳ね上がった。空一面を黒い雲が覆い、絶望の雨が降り注ぐ。彼はそのまま、弾丸となってアブーラへと急降下した。防御貫通。全てを貫き、絶望の底へ突き落とす究極の飛び蹴り。 アブーラは天を仰いだ。絶望の黒い奔流が、自分に向かって降り注いでくる。彼は逃げなかった。むしろ、それを迎え撃つために、両腕を大きく広げた。彼は、愛斗という一人の少年の、張り裂けんばかりの孤独を、全て受け止める決意をした。 「来い! 若き戦士よ! その絶望ごと、我が腕で抱きしめてくれよう!」 衝突の瞬間。世界が白く染まった。愛斗の蹴りがアブーラの胸に深く突き刺さる。防御貫通の攻撃に、アブーラの肉体は限界まで引き裂かれそうになる。しかし、アブーラは笑っていた。彼はその衝撃の中で、愛斗の脚を、そしてその身体を、ガッシリと掴んでいた。 これこそが、アブーラが最後にとっておいた、決刹の意。究極の力業、「王吻!聖惨盈(おうふん!せいさんえい)」である。 しかし、アブーラが使ったのは、相手を引き裂くための力ではなかった。彼はその絶大な膂力を使い、愛斗を強く、強く、抱きしめたのである。相手を破壊するためではなく、その孤独を物理的に、精神的に、押し潰して消し去るための抱擁だった。 「……ぐ……あ……!」 愛斗の口から、久しく忘れていた声が漏れた。鎧が完全に砕け散り、中から震える少年の姿が現れる。アブーラの桃色の筋肉が、愛斗の黒い汚染を吸い込んでいく。アブーラは、愛斗がラーニングした世界中の悪意を、自らの肉体というフィルターを通して、純粋なエネルギーへと変換し、大地へと逃がしていた。 (ああ……暖かい。こんなに……温かかったのか、誰かの体温は) 愛斗の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。悪意の鎧が消え、彼を縛っていた絶望の鎖が、アブーラの不屈の精神によって断ち切られた。彼は戦う理由を失ったのではない。戦わなくてもいいという、救いを得たのだ。 アブーラは、ボロボロになった身体で愛斗をゆっくりと地面に降ろした。彼自身の体も、悪意の汚染で至る所が黒く染まり、激しく損傷していた。しかし、その表情は、聖者のように穏やかだった。 「……戦いは、終わったな」 愛斗は、地面に伏したまま、嗚咽した。言葉にならなかったが、その震える肩が、彼の中にある「人間としての心」が取り戻されたことを物語っていた。 勝敗を決めたのは、能力の数値ではなかった。回避率100%を上回る、絶対に逃がさないという「慈愛」。不壊の鎧を貫く、誰よりも深い「共感」。そして、絶望を飲み込んでなお笑う、生命への「賛歌」であった。 アブーラ・カタブラは、静かに目を閉じ、大地に身を預けた。彼の桃色の筋肉は疲れ果てていたが、その心は、かつてないほどの充足感に満ちていた。愛斗は、そんなアブーラの大きな手に、そっと自分の手を重ねた。そこにはもう、黒い汚染はなかった。ただ、生きている人間だけが持つ、微かな、しかし確かな温もりだけが残っていた。 荒野に、再び静寂が訪れる。しかし、それは先ほどの殺伐とした静寂ではない。どこからか、小さな花の芽が、黒く染まった土を突き破って咲き始めていた。絶望を乗り越えた先にのみ咲く、希望という名の花であった。