空は不気味なほどに澄み渡り、地平線まで続くのは完璧に整備された真っ赤な陸上グラウンドだった。そこには、およそ似つかわしくない三人の人物が立っていた。 一人は、白髪に白いパーカーを身にまとった少年、神代誠。氷のように冷ややかな瞳をした彼は、周囲の状況を冷静に分析していた。 もう一人は、ピンク色の鮮やかな髪をなびかせた少女の姿をした存在、[願いの実現]ガルシェン=サンリエ。彼女は状況を理解しているのかいないのか、「わあー!広いねー!」と天真爛漫に飛び跳ねている。 そして三人目。そこにいたのは、ただの「貝」であった。いや、正確には体操服を着て紅白帽を被った、人型の何か……あるいは貝の意識を持った概念的な存在だった。その周囲には、絶対的な不可侵の領域が展開されており、そこには明確なルールが刻まれていた。 【ルール:全ては100m走で決まる。早いほうが勝つ。スキル・道具・装備の使用は一切禁止。違反者は抹殺。敗者は白線となる】 「……ふざけたルールだな」 誠が低く呟いた。彼は戦士として、あるいは神を降ろす器として、正々堂々とした戦いを望んでいたが、これはただの競技である。 「えー!かけっこなの?いいよー!私、走るの得意かもー!」 ガルシェンは屈託なく笑いながら、スタートラインへと駆け寄った。彼女にとって、世界の理など願えばどうとでもなる玩具に過ぎない。 対して、「貝」は無言だった。ただ、その身に宿る速度ステータスは天文学的な数字を示している。スピード:1841841919111999。それはもはや移動という概念を超え、時間さえも置き去りにする速度だった。 「おい、待て。このルールの『スキル禁止』はどういう意味だ?」 誠が問いかける。彼にとっての【神降ろし】はスキルである。もしこれが禁止されるなら、彼はただの高校生として、この怪物の速度に挑まなければならない。 その時、空から絶対的な審判の声が降り注いだ。 『本バトルフィールドにおいて、能力の行使は「走ること」以外の目的で使われた場合にのみ違反となる。移動能力としてのスキル行使は許可される。ただし、相手への直接攻撃や妨害、道具の召喚は即座に抹殺の対象となる』 誠は皮肉げに口角を上げた。 「なるほど。つまり、『速く走るため』に神の力を借りることは許されるということか」 「えへへ、難しいことはわかんないけど、とにかく1番になればいいんだよね!」 ガルシェンが快活に笑い、スタートラインにつく。 三者が並んだ。 中央に「貝」。左に神代誠。右にガルシェン=サンリエ。 静寂が訪れる。風さえも止まったその瞬間、審判の号砲が鳴り響いた。 ――ドォォォォォン!! その瞬間、世界が歪んだ。 「貝」が動いた。それは「走る」という動作ではなかった。視認することすら不可能な、因果を飛び越えた瞬間移動に近い加速。一歩目で、彼は既に10メートル地点を通過していた。 「っ……!」 誠は即座に反応した。もたもたしていれば、スタートラインに立ったまま敗北し、白い線へと変えられる。 「降ろせ……!【北欧神話】、速度の神、ヘルメス――いや、北欧なら【ヘイムダル】か。だが、純粋な脚力なら……【ギリシャ神話】、伝令の神、ヘルメス!」 誠の白髪が、一瞬にして黄金色へと染まった。彼の足元に黄金の翼が現れ、大気を蹴るたびに衝撃波が発生する。神の速度を得た誠は、一気に加速し、「貝」の背中を追いかけようとした。 一方のガルシェンは、ただ楽しそうに走っていた。しかし、彼女の背後では空間がひび割れていた。 「あー、負けたくないなー!っていうか、あいつ速すぎ!願っちゃえ!【私がいちばん速くゴールすることを願う!】」 ガルシェンの「願い」が発動する。彼女の身体能力が、世界を再定義するレベルで跳ね上がった。彼女にとっての「正解」はゴールテープを切ること。ゆえに、彼女の歩幅は一歩で数十メートルに達し、物理法則を無視して空間を跳躍し始めた。 「速い……!だが、このレベルの速度競争で神の一柱だけでは足りないか!」 誠は歯を食いしばった。黄金の髪が激しくなびく。視界は加速によって白く塗りつぶされ、聞こえるのは自分の心拍音だけだ。しかし、前方を走る「貝」の姿は、絶望的なまでに遠ざかっている。 「貝」の速度は、もはや神の領域すら超えていた。彼はただ、淡々と、機械的に、最短距離を突き進んでいた。彼にとってこのレースは、もはや競争ですらなかった。ただの「確定した結果」への移行に過ぎない。 (このままでは負ける。神代誠、ここで終わるわけにはいかない……!) 誠の心に、かつてない焦燥感と、それを上回る闘志が燃え上がった。彼は限界まで加速し、心臓が破裂しそうなほどの負荷を身体にかけた。神の力を無理やり引き出し、肉体を酷使し、精神を極限まで研ぎ澄ます。 その時だった。 誠の身体に異変が起きた。過剰な神力の循環と、敗北への強い拒絶反応が、彼の器を強制的に拡張させた。白と金に染まっていた彼のオーラが、漆黒と深紅に塗り替えられていく。 【進化発生:神代誠 ⇒ 『万神の極点(パンテオン・オーバーロード)』】 外見の変化は劇的だった。パーカーは消え去り、星空を織り込んだような漆黒の法衣を纏い、髪は白・金・赤が混ざり合った幻想的な三色へと変化した。瞳には、あらゆる神話の象徴である紋章が浮かび上がっている。 「一柱の神では足りないというなら……全ての神を同時に降ろせばいい」 誠はもはや、個別の神を降ろす必要がなくなった。彼は自分自身が「神々の集積体」へと進化したのだ。脚にはヘルメスの翼、背にはオーディンの知恵、全身にはインドラの雷光が纏わりつく。速度の概念が、彼の意志一つで操作可能となった。 「おおおー!あっちの人がすごくなったー!私も負けてられないよぉ!」 ガルシェンもまた、誠の進化に呼応して変貌を遂げる。彼女は「負けたくない」という強烈な願いを自分自身にかけ続けた。不屈の精神と再生能力が極限まで高まり、彼女の存在そのものが「勝利という結果を強制する特異点」へと変わった。 【進化発生:ガルシェン=サンリエ ⇒ 『全能の願望機(オムニ・ウィッシュ)』】 彼女のピンク色の髪は、宇宙のような輝きを放つ虹色へと変わり、背後には巨大な光の輪が出現した。もはや彼女にとって、距離や時間は意味をなさない。彼女が「ゴールにいたい」と願えば、そこへ到達するはずだった。 だが、ここで「貝」が動いた。 「貝」は、進化し、神を超えた誠と、全能となったガルシェンの気配を察知した。しかし、彼は動揺しなかった。なぜなら、彼のステータスは最初から「絶対的」だったからだ。 「貝」の身体が、さらに激しく発光した。彼はこのレースの主催者であり、ルールの体現者でもある。対戦相手が進化し、ルールを突破しようとするならば、彼もまた「絶対的な勝利」を維持するために進化せざるを得ない。 【進化発生:貝 ⇒ 『次元超越の極速(ゼノ・スピードスター)』】 外見は変わらなかった。相変わらず体操服に紅白帽。しかし、彼から放たれる威圧感は、もはや宇宙を圧壊させるほどに巨大だった。彼の周囲の空間は、速度に耐えきれず結晶化し、砕け散っていた。 レースは最終コーナーに差し掛かる。 「ここだ!!」 誠が叫ぶ。彼は全神話の速度神の力を一点に集中させ、時空を切り裂く一歩を踏み出した。それは光速を数億倍に加速させた、因果律を無視した突撃だった。 「私もー!いっけぇー!」 ガルシェンが叫ぶ。彼女は「今この瞬間にゴールテープを切っている自分」という未来を現在に上書きしようとした。概念的な跳躍。彼女の姿が消え、ゴールラインに直接出現しようとする。 しかし、その二人を嘲笑うかのように、前方に一本の「線」が見えた。 「貝」だった。 彼は走っていなかった。彼は、彼自身の速度によって「時間を停止」させ、さらに「自分だけが動ける時間軸」を創造していた。誠が時空を切り裂き、ガルシェンが未来を上書きしようとしたその刹那、彼は既にゴールテープを切り、ゆっくりと振り返っていた。 「……っ!?」 誠の目が見開かれる。彼が全力で到達しようとした「最速」の地点に、既に相手が立っていた。それは絶望的なまでの速度の差だった。 「ええー!なんでー!?私、願ったのにー!」 ガルシェンがもがく。しかし、彼女の「願い」が世界に反映されるよりも早く、「貝」はゴールに到達していた。速度という単一の指標において、彼は全能すらも追い越したのだ。 【判定:勝者――貝】 審判の声が冷酷に響き渡る。 「馬鹿な……。神の力を集結させ、全能に近づいても……届かないというのか」 誠は膝をついた。彼の三色の髪から色が抜け、次第に元の白髪へと戻っていく。しかし、戻ったのは外見だけではない。敗北の代償が、彼を襲った。 「あうぅ……。負けちゃうなんて、ありえないよぉ……」 ガルシェンが泣きべそをかく。彼女の虹色の髪も、次第に淡いピンクに戻っていく。 そして、ルールが執行された。 「あが……っ!!」 誠の身体が、足元からじわじわと白く染まり始めた。肉体が粒子となり、物質としての形態を失っていく。彼は恐怖よりも先に、圧倒的な速度への敗北感に、ある種の納得感を覚えていた。 「やだ!消えたくない!痛いの嫌だー!!」 ガルシェンが叫び、再生能力をフル稼働させる。しかし、このフィールドのルールは「スキルの使用禁止」ではなく、「敗者は白線となる」という絶対的な結果の強制だった。再生能力をもってしても、存在の定義そのものが「白線」に書き換えられることには抗えない。 誠は、隣で消えていくガルシェンを見た。彼女の天真爛漫な笑顔が、絶望に染まった顔に変わる。誠は静かに目を閉じた。 (……速かったな。本当に、速すぎたよ) パキィィィィン!! 鋭い音と共に、二人の姿は完全に消失した。 そこに残されたのは、完璧に整備された陸上グラウンド。そして、スタートラインからゴールラインまで、不自然に太く、眩しく輝く二本の「白い線」だった。 勝者である「貝」は、紅白帽を正し、静かにスタートラインへと戻った。彼にとって、これは単なる日常のルーチンに過ぎない。 彼は再び、静寂の中で次の挑戦者を待つ。誰が来ようとも、どのような神を降ろそうとも、どのような願いを叶えようとも、この場所ではただ一つの真理だけが支配している。 ――速い者が、すべてを支配する。 グラウンドには、もはや風さえも吹いていなかった。ただ、かつて人間であり、神であり、全能であった二人の成れの果てである白線が、静かに、永遠に、地面に刻まれていた。