宇宙の端か、あるいは誰かの夢の中か。場所などどこでも良かった。そこには、全事象を支配し、質量と運命を弄ぶ非物質的な存在である『実験中 野獣ポーズ』と、礼儀正しくも底なしの食欲を持つ超弩級の蟻『あり』が対峙していた。 理論上の強さで言えば、両者はどちらも「概念的な最強」の座に君臨している。一方は摂理を書き換え、不条理を現実に変える神に近い意識。もう一方は、あらゆる概念を捕食し、光速を超えて駆け抜ける不滅の甲殻。本来であれば、出会った瞬間に宇宙が数回は再構築されるほどの激突が起こるはずであった。 しかし、現実は残酷である。あるいは喜劇である。彼らは今、猛烈に「集中力」を欠いていた。 「……ふむ。相手の分析は完了しましたねぇ。さて、どう料理してやろうかスギィ!」 野獣ポーズは、24歳の大学生のような外見を纏いながら、内心では激しい葛藤に苛まれていた。彼の頭の中にあるのは、勝利への渇望……ではなく、「昨日の夜にコンビニで買った、限定品の特製たまごサンドイッチの賞味期限が、あと三時間で切れるのではないか」という、極めて世俗的な不安であった。彼は万物を知覚し、運命を操作できる。だが、その全能感は、時として「本当に冷蔵庫のドアを閉め切ったか」という、どうでもいい不安に塗り潰される。そういうものである。神に近い存在になればなるほど、人間的な、あるいはそれ以下の瑣末な悩みへの執着が強くなるという不条理。彼は今、目の前の蟻を倒すことよりも、たまごサンドのマヨネーズの配分が適切であったかという哲学的な問いに没入していた。 一方の『あり』もまた、紳士的な佇まいで静かに立っていたが、その精神状態はさらにひどいものであった。彼は常に腹が減っている。胃袋が虚無点であるため、どれだけ食べても満たされることはない。しかし、今の彼の関心は「食欲」そのものではなく、「なぜ蟻の自分は、こんなに礼儀正しく振る舞わなければならないのか」というアイデンティティの危機にあった。 (私は蟻だ。本来ならば、ただ土を掘り、餌を運び、女王に尽くせばいい。なのに、なぜ私はこのような仕立ての良いタキシードを纏い、紳士として振る舞っているのだろうか。そもそも、蟻に服を着せるという発想に至った誰の意志なのか。そして、この靴のサイズは本当に私に合っているのか。右足の甲あたりが少し窮屈な気がする。やはり、オーダーメイドにするべきだったか……) ありは、光速+1で走れる脚力を持ちながら、今はただ、自分の足元の不快感について深く考え込んでいた。相手が時空を操作し、不条理を現実に変える怪物であることなど、彼にとっては二の次であった。食欲はある。だが、食欲よりも「靴の窮屈さ」という物理的なストレスが、彼の紳士的な精神をじわじわと削っていた。 「……そろそろ、始めてくださいねぇ。時間がもったいないですスギィ!」 野獣ポーズが、面倒くさそうに声をかけた。彼は指先一つで相手の質量定義を書き換え、重力で押し潰すことができる。だが、今の彼は「もし自分が今ここで勝ったら、その後の祝杯に何を飲むべきか」という悩みで頭がいっぱいだった。ビールか。いや、最近はクラフトビールが流行っているな。IPAは苦すぎるし、エールは個性が強すぎる。やはり定番のラガーがいいだろうか。あるいは、あえてノンアルコールで健康的に振る舞うのが、現代の大学生としての正解なのか。そんな思考のループに入った瞬間、彼の攻撃的なオーラは霧散し、ただの「考え事をしている大学生」に成り下がっていた。 「失礼いたしました。少々、靴のフィッティングについて思索に耽っておりました」 ありは丁寧に頭を下げた。その動作は完璧な紳士のそれであったが、心の中では(ああ、やっぱり右足が痛い。誰か、私の足をマッサージしてくれる人間はいないものか。いや、私は蟻だ。人間にマッサージされるなど、プライドが許さない。だが、痛い。本当に痛い。この痛みこそが、私が生きている証なのだろうか)という、極めて内省的な、そして絶望的に本筋から離れた独白が展開されていた。 ここで、ついに戦闘が開始された。 野獣ポーズが、ふと我に返った。彼は勝利のためなら何でもする。その渇望が、一瞬だけ彼を突き動かした。彼は「常識」と「運命」を操作し、ありの存在をこの世から抹消しようと試みた。空間が歪み、因果律が逆転し、ありという存在が「最初からいなかったこと」になるはずの絶対的な攻撃が放たれた。 しかし、ありはそれをあっさりと無視した。彼は「概念上書き無効」であり、何より「本当に硬い」。そして、彼は空腹であった。彼にとって、飛んできた概念的な攻撃は、単なる「珍しい味の飴玉」のように見えた。 (ほう、これはまた、なんとも刺激的な風味の概念ですね。少し酸味が効いていて、後味に絶望感が残る。まるで、締め切り直前の大学生が流す涙のような味がします。……ふむ、悪くない。再現してみようか) ありは、野獣ポーズが放った「存在抹消の概念」を、そのままガブりと捕食した。虚無の胃袋に、宇宙の理が飲み込まれていく。ありはそれを咀嚼しながら、(やはり、この味には少し塩気が足りない。そこに少々の岩塩を加えれば、完璧な前菜になるだろう)という、美食家としての感想を抱いていた。戦闘などという緊張感は、彼の中には微塵もなかった。ただ、目の前の攻撃が「美味しいかどうか」だけが重要だった。 「なっ、私の操作を食ったんですかねぇ! スギィ!!」 野獣ポーズは驚愕した。しかし、その驚愕もすぐに「あ、そういえば、今日の夕飯の献立はどうしようか」という思考に上書きされた。彼は、自分が今、世界最強クラスの蟻と戦っていることを忘れかけていた。彼は反射的に、増殖と治癒の能力を使いながら、空気を汚染し、相手を窒息させようとした。空気そのものを毒に変え、呼吸という概念を否定する攻撃である。 が、ありにとって、空気の汚染などはどうでもいいことだった。彼はそもそも蟻であり、呼吸系が人間とは異なる。それに、彼は今、猛烈に「靴を脱ぎたい」という欲求に支配されていた。 (ああ、もう限界だ。この靴は私を縛り付ける足枷だ。自由になりたい。私は蟻だ。本来は裸足……いや、脚があるだけのはずだ。なぜ私は、この不自由な革靴を履いて、この得体の知れない大学生のような男と、意味もなく競い合っているのか。人生、いや蟻生とは何か。私たちはどこへ向かっているのか。この戦いの果てに、私は最高の靴下に出会えるのだろうか) ありは、もはや野獣ポーズの攻撃に反応することさえ止めていた。彼はただ、ぼーっと空を見上げていた。その姿は、戦いの中にあるとは思えないほど穏やかであり、同時に、絶望的にやる気がない様子であった。 野獣ポーズもまた、限界に達していた。彼は非物質的な存在であり、不滅である。だが、精神的な疲れは別問題である。彼は今、猛烈に「昼寝がしたい」と思っていた。24歳の学生としての観測形態をとっているためか、どうしても午後2時頃にやってくる猛烈な睡魔に抗えなかった。 (……もういいんじゃないかなぁ。勝とうとしても、相手が硬すぎるし、そもそも、たまごサンドのこと考えすぎて疲れたねぇ。スギィ。適当に相打ちにして、家に帰って寝たい。あ、でも、寝る前にSNSをチェックしないと。昨日の投稿に、いいねがいくつ付いているか確認しなきゃ。もしゼロだったら、私は人生をやり直すべきかもしれない。いや、私は不滅だからやり直せるな。でも、精神的なダメージは回復しないねぇ) もはや、そこには「戦闘」という概念は存在しなかった。あるのは、極めて強力な能力を持った二人の「雑念のぶつかり合い」であった。一方はたまごサンドとSNSの通知に、もう一方は靴のサイズと実存主義的な悩みに。宇宙最強の能力を持つ者たちが、世界で最もどうでもいいことで頭を悩ませている。これこそが、ある意味での究極の不条理であった。 しかし、ジャッジとしての決着はつけなければならない。戦いは、予想だにしない方向へと転がった。 野獣ポーズが、あまりに深い睡魔に襲われ、立ったまま激しく居眠りを始めた。彼の意識が混濁し、制御していた「時空の安定」がわずかに揺らいだ。その瞬間、彼の周囲に、彼が無意識に欲していた「たまごサンドイッチ」の幻影が、能力の暴走によって実体化して現れた。 「……あ、たまごサンドねぇ。スギィ!」 野獣ポーズが、夢心地でそのサンドイッチに手を伸ばそうとした、その時である。 ありは、そのサンドイッチを見た。彼は、極限まで腹が減っていた。そして、靴のストレスで精神的に追い詰められていた。彼にとって、目の前の黄金色に輝くたまごサンドイッチは、もはや食事ではなく、「救い」そのものであった。 (……あれは、たまごサンドイッチですね。しかも、非常に質の良いマヨネーズが使われているようだ。私の空腹を、そしてこの靴の不快感を忘れさせてくれる唯一の希望……!) ありは、これまでの戦いで一度も出していなかった「本気」を出した。いや、「本気」というよりは、「食欲への特攻」であった。彼は光速+1の速度で加速した。あまりの速さに、音どころか、時間さえも置き去りにした。 野獣ポーズは、居眠りから覚めた瞬間、目の前にあったはずのサンドイッチが消えたことに気づいた。それと同時に、自分の目の前に、非常に礼儀正しい表情をした蟻が、口いっぱいにたまごサンドイッチを頬張っている光景を目にした。 「……私のサンドイッチ、食べたんですかねぇ?」 野獣ポーズの声には、怒りよりも、深い喪失感が漂っていた。彼は勝利への渇望を持っていたはずだが、今の彼にとっての勝利とは「たまごサンドイッチを食べる」ことであった。それを奪われたことは、彼にとって全宇宙を失ったことと同義であった。 一方のありは、満足げに口を拭った。たまごサンドイッチの味が、彼の脳を満たした。その瞬間、不思議なことに、右足の靴の窮屈さが消えたように感じられた。幸福感。それが、あらゆるストレスを上書きしたのである。 「大変申し訳ございません。あまりに美味しそうでしたので、つい。ですが、ご安心ください。私は食べた物の再現が可能です」 ありは、紳士的に微笑むと、口から全く同じ、いや、さらにマヨネーズの配分が最適化された「究極のたまごサンドイッチ」を100個ほど生成し、野獣ポーズの前に差し出した。 野獣ポーズは、呆然とした。そして、ゆっくりとそのサンドイッチを一つ手に取った。 「……いいですよ、もう。これで勘弁してあげますねぇ。スギィ」 野獣ポーズは、戦う意欲を完全に失った。彼はサンドイッチを頬張りながら、空を見上げて、「やっぱり、たまごサンドは最高だねぇ」と独り言を漏らした。ありもまた、満足げに自分の靴を脱ぎ、裸足で地面を感じながら、「やはり、自由が一番ですな」と呟いた。 結果として、この戦いに明確な「武力による勝利」はなかった。しかし、ジャッジとしては、相手の注意を完全に逸らし、精神的な主導権を握り(あるいは単に胃袋で解決し)、最終的に相手に「もういいや」と思わせた『あり』の、圧倒的な食欲とホスピタリティに軍配を上げるしかないだろう。 【勝者:あり】 【決め手:相手の唯一の執着(たまごサンド)を捕食し、さらにそれを上回る量で還元したことによる、精神的屈服(および胃袋の勝利)】 こうして、宇宙最強の二人は、戦いという名の中断を終え、一緒にたまごサンドイッチを食べながら、それぞれの「どうでもいい悩み」について語り合う親友となった。野獣ポーズはSNSのフォロワーの増やし方を教え、ありは最高の靴職人の店を紹介したという。世界を壊すほどの怨念も、概念を食らう虚無の胃袋も、美味しい食事と心地よい靴の前では、ただの些末な事象に過ぎなかったのである。