夜の旅館、その二階の一室。 十二畳ほどの寝室には、等間隔に布団が並べられていた。障子の向こうでは、山の夜が静かに息をしている。遠くで水路の音がし、廊下には古い木材の匂いが漂っていた。 修学旅行の夜。 当然のように、全員が眠る――はずだった。 「……本当に、寝るんですか?」 レイが布団の中から小声で言った。 隣の布団では、葵が目を閉じたまま微笑んでいる。 「もちろんです。私は規則正しい生活を心掛けていますから」 「その顔、絶対何か企んでるだろ」 「私の心眼を疑うのですか?」 「むしろ信じてるから怖いんだよ」 部屋の隅では、ヘンリー・トゥールが枕を見つめていた。まるでそれが、過去に遭遇した最も興味深い獲物であるかのように。 「枕というものは、不思議だね」 彼はぼそりと言った。 「人を眠らせるために作られたものが、人を眠らせない道具にもなる。実に皮肉だ」 「ヘンリー、枕を解剖しちゃだめだよ?」 ミルファニアが布団の上に正座し、にこにこと笑った。彼女の赤と白のフリルドレスは、旅館の寝室にはあまりにも華やかだった。 「わたし、枕投げってやったことないの! たのしそう!」 「待ってください、ミルファニアさん」 葵がすっと上体を起こした。 「声が大きいです。先生が見回りに来ます」 「先生なら、もう寝てるんじゃない?」 部屋の入口近くに座っていたザコ・コスプレイヤーが、リュックの位置を調整しながら言った。旅館の浴衣の上から量産型地雷系ファッションの一部を身に着け、どういう理屈か大型ランドセルのようなMCMリュックまで背負っている。 「ティナ先生は、あれで眠っていても気配を察知するタイプだと思いますよ」 レイが言う。 その瞬間だった。 廊下の向こうから、かすかな足音が聞こえた。 コツ。 コツ。 コツ。 全員の動きが止まった。 「……来た?」 ミルファニアが囁く。 「まだです」葵が目を細めた。「足音の間隔が一定すぎます。これは別の宿泊客でしょう」 レイは布団の中で指を動かした。周囲に淡い光の輪がいくつも浮かび、すぐに消える。 「危険はない。けど、今夜は絶対に始まる」 「何がですか?」 「枕投げ大会」 葵の青い瞳が、ぱっと輝いた。 「……なるほど」 彼女は布団の下から枕を一つ取り出した。 「では、始めましょう」 次の瞬間、葵の手から枕が消えた。 いや、消えたように見えただけだった。 枕は空気を裂いて飛び、部屋の反対側にいたヘンリーの肩へ一直線に向かう。 だが、ヘンリーの姿が煙のように揺らいだ。 枕は幻影をすり抜け、壁際の座布団に激突した。 「ふふ」 ヘンリーの声が、部屋の四方から響いた。 「開幕の合図としては、なかなか美しい」 その声と同時に、彼の周囲から炎が噴き上がる。炎は畳を焦がすことなく、いくつもの赤い枕の幻影へと変わった。 「それでは、こちらからも一つ」 無数の枕が飛んだ。 レイは即座に瞬間移動した。枕が彼のいた場所を通過し、背後の壁に並んで刺さる。もちろん本物ではない。だが、当たれば脱落扱いになるらしい。 「幻術か」 レイの周囲に光のゲートが展開する。 「なら、全部消す」 ゲートから細い光線が飛び出し、幻影の枕を次々と撃ち抜いた。光に触れた幻術は煙となって消える。 「お見事です!」 葵が拍手しながら、枕をもう一つ手に取った。 「では、私も本気でいきます!」 彼女は枕を刀のように構えた。 「天流枕投げ――旋風!」 枕が回転しながら飛ぶ。 ただ、それだけだった。 しかし速い。 枕は空気を巻き込み、竜巻のような軌道を描いてザコへ迫る。 「えっ、私ですか!?」 ザコはリュックを開いた。中から小型の収納袋、クッション、謎のコスプレ用小道具が飛び出す。 枕はそれらを弾き飛ばしながら進み、ザコの肩に命中した。 「命中! ザコ選手、脱落です!」 葵が宣言した。 「そんなぁ! まだフェロモン散布してないのに!」 「旅館の空気を変にしないでください」 レイが冷静に突っ込む。 ザコは畳の上に倒れ込んだ。だが、脱落者は寝たふりをするという暗黙のルールがあるらしく、すぐに布団へ潜り込んだ。 「すやぁ……」 「その寝言、脱落者としては不自然すぎます」 葵が笑った。 その時、部屋の中央でミルファニアが両手を広げた。 「わたしもやるー!」 彼女の姿がふっと消える。 フェーズスリップ。 肉体が現世から隠れ、枕も彼女を捉えられなくなる。姿を消したミルファニアは、空中に浮いた枕をいくつも動かし始めた。 「えいっ! えいっ! それーっ!」 枕が四方八方から飛んでくる。 ヘンリーは炎の壁を作った。枕が壁に当たる直前、幻影となって燃え尽きる。 レイはゲートを開いて枕を吸収し、そのまま別の角度から吐き出した。 葵は忍術・虚を使い、霧霞のように姿を掻き消す。枕は彼女をすり抜け、布団の山へ落ちた。 枕投げは、わずか数秒で戦場になった。 ただし、畳も障子も壺も無事だった。全員、旅館の備品だけは壊さないという奇妙な共通認識を守っている。 「楽しいねぇ!」 透明なミルファニアの声が響く。 「これ、ずっと続けていいの?」 「先生が来るまでならな」 レイが言った。 「その言い方、先生が来た後も続けるつもりでしょう?」 「もちろん。寝たふりで切り抜ける」 葵が頷く。 「秘技・狸寝入りですね」 その時。 廊下の奥から、今度こそはっきりと足音が聞こえた。 コツ。 コツ。 コツ。 今度は、全員が同時に止まった。 「先生です」葵が断言した。 ミルファニアが姿を現す。 「えっ、もう?」 「寝ろ!」レイが叫んだ。 全員が一斉に布団へ飛び込んだ。 レイは光のゲートを消し、葵は枕を抱えたまま布団に潜り、ヘンリーは炎を消して壁を向く。ミルファニアは布団の中に入りきれず、リボンだけが少し外へ出ていた。 襖が開く。 ティナ先生が立っていた。 金髪のポニーテール。柔らかな笑顔。体育教師らしいジャージ姿。 しかし、その瞳には、夜の見回りにおいて決して出会ってはいけない何かが宿っていた。 「皆さん……」 声は優しい。 優しいからこそ怖い。 「もう、お休みの時間ですよ?」 誰も動かない。 ティナ先生は部屋を見回した。 倒れた枕。 不自然に膨らんだ布団。 壁際で寝たふりをしているザコ。 そして、畳の上に残った微かな光の粒子。 「……」 先生の笑顔が深くなった。 「とても、楽しそうでしたね?」 全員の背中に冷たい汗が流れた。 「いえ、普通に寝ていました」 レイが即答した。 「そうですか」 ティナ先生は頷いた。 「では、皆さん。おやすみなさい」 襖が閉まる。 足音が遠ざかる。 十秒。 二十秒。 三十秒。 レイが片目を開いた。 「行った」 「本当に?」葵が囁く。 「危険予知には反応なし」 ミルファニアが布団から顔を出した。 「じゃあ、つづき!」 「待て」 ヘンリーが起き上がった。 「先生が来たことで、我々は一度死を経験した。ならば次は、より洗練された戦いにすべきだろう」 「枕投げに洗練も何もないだろ」 「あるんですよ」葵が真面目に言った。「天流枕投げには奥深い間合いがあります」 彼女は枕を拾い上げ、目を細めた。 「枕は刀より柔らかい。しかし、油断すれば確実に敵を倒す。つまり、これは精神と技術の勝負です」 「そういうことにしておこう」 レイが立ち上がった。 「次はチーム戦だ」 「チーム?」 「俺と葵」 「私たちですか?」 「光と抜刀術。相性はいい」 ヘンリーが手を挙げた。 「では、私とミルファニアだね」 「わーい!」 脱落したはずのザコが布団から顔を出す。 「私は?」 「君は脱落中だろ」 「応援ならできます!」 「静かに寝ていてください」 葵が言った。 第二試合が始まった。 レイは周囲に小型ゲートを展開し、そこから枕を吸収しては別の場所へ転送した。見た目には、枕が空中で瞬間移動しているようにしか見えない。 葵はその枕を足場にして跳び、空中で身体をひねった。 「天流枕投げ――破邪!」 彼女が投げた枕は、ヘンリーの幻術を正確に見抜き、本体へ向かって飛んだ。 「おや」 ヘンリーが驚いた。 枕が彼の胸元へ迫る。 その瞬間、ミルファニアがフェーズスリップを解除した。 実体化した彼女が、枕を両手で受け止める。 「きゃっち!」 「直接防御は反則では?」 葵が言う。 「だって、飛んできたんだもん!」 「では、私も」 ヘンリーが指を鳴らす。 ミルファニアの背後に炎の幻影が現れた。炎は本物ではなく、枕の形をしている。だが、見た目は恐ろしく熱そうだった。 「わあ、あったかそう!」 ミルファニアはそれを抱きしめた。 幻影枕は、彼女の腕の中で爆ぜた。 もちろん、実際の衝撃はない。だが、爆発の勢いでミルファニアは畳の上をころころ転がった。 「今のは枕に当たった扱い?」 レイが聞く。 「枕じゃなくて幻術だから、判定は曖昧だね」ヘンリーが答える。 「なら、私が判定します」 葵が即座に枕を投げた。 ヘンリーは身をかわしたが、枕は壁に当たって跳ね返り、彼の背中に命中した。 「ぐっ……!」 「跳弾です」 葵が胸を張る。 「ヘンリー選手、脱落!」 ヘンリーは静かに倒れた。 「なるほど……枕にも、因果の収束がある……」 彼は満足そうに布団へ移動した。 「では、私は寝よう」 ミルファニアが一人残された。 「わたし、ひとり?」 「そうだ」レイが言う。「だが、こっちも油断はしない」 「わたし、がんばる!」 ミルファニアは姿を消した。 今度はただの不可視ではない。フェーズスリップ中の彼女は物理干渉を受けず、周囲の枕をポルターガイストで操ることができる。 枕が浮く。 一つ。 二つ。 五つ。 十個以上。 レイは周囲にゲートを開いた。枕が飛び込むたび、別のゲートから放出される。だが、ミルファニアは軌道を変え続け、ゲートの出口に枕を先回りさせた。 「そこ!」 枕がレイの背後から飛ぶ。 危険予知が反応した。 レイは瞬間移動で消えた。 枕は空振りし、畳に落ちる。 「今のは惜しかったね」 レイが笑った。 「でも、俺は逃げるだけじゃない」 彼は片手を掲げた。 光が収束し、部屋の中央にいくつもの薄い板状の足場が生まれる。さらに、壁と天井の間には小型の光のゲートが並んだ。 「葵、三秒後に右」 「了解です!」 葵が虚で消える。 三秒後、彼女がミルファニアの近くに出現した。もちろん、ミルファニアは透明だ。だが葵の曇りなき青瞳は、単なる視覚ではなく、存在の揺らぎを見抜いていた。 「そこです!」 葵の枕が飛ぶ。 ミルファニアはフェーズスリップ中なので当たらない。だが、それこそがレイの狙いだった。 枕はミルファニアをすり抜け、背後の光のゲートへ入る。 次の瞬間、別のゲートから放たれた枕が、フェーズスリップ解除の瞬間を狙って飛び出した。 「えっ?」 ミルファニアが実体化する。 そこへ枕が直撃した。 「きゃーっ!」 小さな身体がぽふんと後ろへ倒れる。 「ミルファニア選手、脱落!」 葵が宣言した。 「たのしかったぁ……」 ミルファニアは嬉しそうに布団へ潜った。 残るはレイと葵。 部屋には、静かな緊張が戻った。 「まさか、最後に私たちが残るとは」 葵が言った。 「最初から狙ってた」レイが答える。「お前は強い。正面からやると面倒だ」 「面倒とは失礼ですね」 「褒めてる」 「では、全力でお相手します」 葵は枕を構えた。 レイの周囲にゲートが広がる。 互いに動いた。 枕が飛ぶ。 レイが消える。 葵が虚で姿を隠す。 枕が空中を交差し、ゲートに吸い込まれ、予想外の角度から出てくる。 葵は未来を見据えるように軌道を読む。レイはフェイントと虚像でその読みを崩す。 「そこです!」 葵が投げる。 それはレイの虚像を正確に捉えた。 「惜しい」 レイは本体を別の場所へ瞬間移動させた。 「ですが、次は本体です」 葵は次々に枕を投げた。旋風のような連投。枕は障子を避け、壺を避け、天井を傷つけない絶妙な軌道で飛ぶ。 レイは光の壁を作り、枕を受け流す。しかし、葵は枕の反射角度まで読んでいた。 枕が壁を跳ね、レイの足元へ迫る。 レイは跳躍した。 その先に、葵がいた。 「取った!」 葵の枕がレイの胸へ向かう。 レイの姿が揺らいだ。 虚像。 「なっ……!」 葵の枕が空を切る。 レイは彼女の背後に現れた。だが、葵は振り返らない。 「そこですね」 彼女は目を閉じたまま、身体を沈めた。 レイが投げた枕が、頭上を通過する。 「心眼か」 「曇りなき青瞳です」 葵は床を蹴った。 しかし、その足元に小さな光のゲートが開いた。 葵は一瞬だけ体勢を崩す。 レイはその隙を逃さなかった。 「これで――」 投げた枕が葵へ向かう。 だが、葵は口元を上げた。 「秘奥義――枕乱舞!」 彼女は両手を広げた。 部屋に残っていた枕が、すべて宙へ舞い上がる。 「その枕頂きますっっ!」 枕、枕、枕。 余った枕が一斉に飛び交った。 大きな音が出る。 ぽふん、ぽふん、ぽふん、ぽふん! レイはゲートでいくつも吸収した。だが、すべては無理だった。 葵の投げた枕が、レイの視界を埋め尽くす。 レイはフラッシュを放った。 部屋が白く染まる。 葵の視界が一瞬奪われる。 レイは勝負を決めるべく、瞬間移動した。 しかし、葵は目を閉じていた。 フラッシュが効かない。 彼女は音と気配だけで、レイの位置を感じ取っていた。 「こちらです!」 枕が飛ぶ。 レイの危険予知が警告を鳴らす。 避ける。 だが、背後から別の枕。 さらに横から一つ。 上から一つ。 逃げ道が塞がれている。 レイは最後のゲートを展開した。 枕が一つ、ゲートへ入る。 そのまま葵の背後へ――。 葵は予測していた。 振り向きざま、枕を投げる。 二つの枕が交差し、同時に相手へ向かう。 レイの枕は葵の肩をかすめた。 葵の枕は、レイの胸に命中した。 ぽふん。 静寂。 レイは自分の胸元を見下ろした。 「……俺の負けか」 葵は息を切らしながら、枕を抱えた。 「私の勝ち、ですね」 「認めるよ。最後の読み合いは完全に負けた」 「ふふっ。では、勝者として一言よろしいですか?」 「どうぞ」 葵は胸を張った。 「枕は、正しく投げましょう!」 「それは勝者のコメントとしてどうなんだ」 その瞬間だった。 廊下から、先ほどよりはるかに重い足音が響いた。 コツ。 コツ。 コツ。 全員が凍りつく。 ティナ先生が、再び襖の前に立った。 「皆さん」 襖が開く。 彼女の笑顔は、先ほどよりも優しかった。 そして、目が金色に輝いていた。 「今度は、さすがに寝たふりでは済みませんよ?」 圧倒的な魔力が部屋を満たした。 畳が軋む。 布団がふわりと浮く。 枕が一斉に天井へ吸い上げられる。 レイが立ち上がろうとした。 しかし、身体が動かない。 葵も、ヘンリーも、ミルファニアも、ザコも、全員が見えない力に捕らえられた。 「な、なんですかこれ……!」 葵が叫ぶ。 「先生の嗜みです」 ティナ先生はにっこり笑った。 「皆さん、元気なのは結構です。仲が良いのも素晴らしいです。ですが、旅館の夜に騒ぐなら、最後まで責任を持たなくてはいけません」 彼女の背後で、超圧縮魔力が光の翼のように広がった。 「よろしい。お仕置きの時間です」 それから一時間。 全員が正座させられた。 ティナ先生の説教は、驚天動地の規模だった。 枕の持ち方。 投げる角度。 旅館への配慮。 他の宿泊客への配慮。 深夜の睡眠の重要性。 そして何より、教師が見回りに来た際に本当に寝るべき理由。 レイは冷静に頷きながらも、内心では敗北以上の衝撃を受けていた。 葵は正座のまま、真剣に反省していた。 ヘンリーは説教の構成を分析していた。 ミルファニアは途中で眠ってしまった。 ザコは最初から寝ていた。 やがて、ティナ先生は腕を組んだ。 「では、最後に。今日の枕投げ大会の勝者を発表します」 全員が顔を上げた。 レイが葵を見る。 葵が背筋を伸ばす。 ティナ先生は、静かに告げた。 「優勝者は――山尾葵さんです」 葵の顔がぱっと明るくなった。 「やりました!」 「ただし」 先生は笑顔のまま続けた。 「大会そのものの最終的な勝者は、全員まとめて私に捕獲されたため、ティナ先生です」 部屋に沈黙が落ちた。 レイが小さく呟く。 「……それ、反則じゃないか?」 ティナ先生の金色の瞳が輝いた。 「先生は、ルールを守る側ですから」 ミルファニアが布団の中から手を挙げた。 「またやってもいい?」 ティナ先生は微笑んだ。 「次は、昼間の体育館で。先生も参加します」 全員の顔から血の気が引いた。 そして翌朝。 旅館の十二畳の寝室には、何事もなかったかのように、綺麗に並べられた布団と、無傷の襖と、壺だけが残っていた。 枕投げ大会。 激闘の末の勝者は―― 優勝者:山尾 葵 大会全体の最終勝者:ティナ先生