序章:雨の日の邂逅と、不本意な名付け 意識が浮上したとき、最初に感じたのは、肺にまとわりつくような重苦しい湿気と、鼻腔を突く不快な泥の臭いだった。 (……どこだ、ここ。それに、この感覚はなんだ) 志摩坂筑波は、思考が鈍っていることに気づいた。視界が異様に低い。目の前にあるのは、泥に塗れたコンクリートの壁と、絶え間なく降り注ぐ冷たい雨。自分の体が、あまりにも小さく、そして軽い。 混乱して身を起こそうとしたが、脚の感覚がおかしい。いつも付きまとっている右脚の鈍い痛みはない。代わりに、四本の短い脚と、意志に反してぴくぴくと動く長い尻尾がある。 (……は?)」 驚愕して口を開いた。しかし、喉から漏れ出たのは、普段のぶっきらぼうな下町訛りの声ではなく、「にゃー」という情けない、高く、細い鳴き声だった。 クソが。 内心で激しく罵倒したが、口から出るのはやはり「にゃうん」という情けない音だけだ。学ランも、愛用の松葉杖も、誇り高き優等生の矜持を包んでいた衣服も、すべて消えていた。代わりに纏っているのは、ずぶ濡れで泥に汚れた、灰色の短い毛並み。 絶望的な状況だった。定義を不定義化し、不定義を定義化する万能に近い能力など、この小さな肉体には宿っていないようだった。ただの、寒さに震える一匹の迷い猫。それが今の志摩坂筑波という存在のすべてだった。 雨は激しさを増し、体温が急速に奪われていく。冷たい雫が皮膚を叩き、震えが止まらない。意識が朦朧とする中、彼は泥の中に丸まり、諦め半分に目を閉じた。 そのときだった。 「まあ……! こんなところに、小さな子が……」 頭上から降り注いだのは、雨音を突き抜けるほどに柔らかく、慈愛に満ちた声だった。 視線を上げると、そこには一人の女性が立っていた。黒い修道服を身に纏い、白いベールを被った、小柄でふっくらとした体型の女性。彼女の瞳には、深い同情と、どうしようもないほどの優しさが宿っていた。 彼女は迷うことなく膝をつき、泥に汚れた自分の衣服も気にせず、震える彼をそっと抱き上げた。 「大丈夫ですよ。もう怖くないですよ。神様があなたを私の元へ導いてくださったのですね」 温かい。 驚くほどに温かく、そして心地よい香りがした。森の奥深くで、陽だまりに当たっているような、穏やかな香り。 (離せ、この……! 俺はこんな子供扱いされるような……にゃあッ!) 抗議の声を上げたが、彼女はそれを「甘え」と受け取ったらしい。彼女はふふっと小さく微笑むと、彼を胸元に抱き寄せ、ゆっくりと歩き出した。 連れて行かれたのは、日本の田舎にある、ひっそりとした石造りの教会だった。 温かいお湯で体を洗われ、柔らかいタオルで水分を拭き取られる。志摩坂は、人生で初めて受けるこの過剰なまでの献身的な世話に、激しい気恥ずかしさと、それ以上の心地よさを感じていた。 「さて、あなたのお名前をどうしましょうか」 彼女は彼を膝の上に乗せ、慈しむように頭を撫でた。志摩坂は不機嫌そうに目を細め、「俺の名は志摩坂筑波だ」と心の中で叫んだが、彼女に届くはずもない。 彼女はしばらく考え込むと、ぱっと表情を明るくして言った。 「ふふ、なんだかとてもお行儀が良さそうな、でも少しだけ意地っ張りそうな顔をしていますね。……『ルカ』。あなたの名前はルカにしましょう」 (ルカだぁ!? ふざけるな! クソが! 誰がそんな、聖書から出たような甘っちょろい名前で……!) 激しく抗議し、彼女の指を噛もうとしたが、あまりに心地よい指先の感触と、彼女の純粋すぎる瞳に、つい力が抜けてしまった。 志摩坂筑波は、この日、聖職者シスター・サイギョウという女性に拾われ、「ルカ」という名の愛猫として、第二の人生(猫生)を歩み出すことになったのである。 第一章:静寂なる聖域の、不器用な日常 ルカ――もとい、志摩坂筑波にとって、この教会での生活は、人生で最も「退屈」で、同時に最も「不可解」な時間だった。 シスター・サイギョウの日常は、驚くほどに単純だった。早朝に起きて祈りを捧げ、教会の掃除をし、庭の草木を整える。そして時折、村の子供たちが遊びに来て、彼女を賑やかに、時に遠慮なく振り回す。 (……ったく、この女はお人好しすぎるだろ) 志摩坂は、教会の窓辺で日向ぼっこをしながら、そんな風に彼女を観察していた。 彼女は内気で、特に男性に対しては極端に臆病だ。村の男たちが声をかければ、肩をすくめて後退りし、視線を泳がせる。その様子は、どこか危うく、見ていてこちらが不安になるほどだった。しかし、子供たちに対してだけは、まるで聖母のような微笑みを絶やさない。 ある日の午後、地元の子供たちが、彼女を囲んで騒いでいた。 「シスター! またあっちの森に不思議なキノコが生えてたよ!」 「まあ、本当ですか? でも、勝手に触ってはいけませんよ。毒があるかもしれませんから」 子供たちは彼女の注意など半分も聞いていない。むしろ、彼女の困った顔を見るのが楽しくて仕方ない様子で、彼女の修道服の裾を引っ張ったり、彼女のふっくらした頬を突っついたりしていた。 (いい加減にしろよ、ガキ共。この女は聖職者なんだぞ。もっと敬意を払え) 志摩坂は、自分でも驚くほどに彼女を擁護したくなった。もしかすると、これは飼い猫としての本能なのかもしれない。あるいは、彼女のあまりに無防備な優しさが、彼の心の中にある「何か」を刺激したのかもしれない。 彼は「ニャー!」と鋭く鳴きながら、子供たちの足元に飛び込み、彼らのズボンに爪を立てた。 「わあッ! ルカが怒ったぞ!」 「もう、ルカ。ダメですよ」 サイギョウが困ったように笑いながら彼を抱き上げる。彼女の掌から伝わる体温は、いつも一定で、穏やかだった。 (ふん。俺がいないと、この女は食い物にされるな) 志摩坂は満足げに喉を鳴らした。ゴロゴロという振動が自分の胸を揺らす。それが快感であることに、彼はひどく屈辱を感じながらも、彼女の膝の上から降りるつもりはなかった。 彼女の日常には、派手な出来事は何もない。ただ、季節の移ろいと共に、ゆっくりとした時間が流れている。 彼女が好きなものは、森林浴と瞑想。そして、時折こっそりと食べる甘いスイーツ。 ある夜、彼女が小声で「内緒ですよ、ルカくん」と言いながら、贅沢なモンブランを一口分だけ彼に分け与えてくれたとき、志摩坂は決定的な敗北感を覚えた。 (……クソが。美味すぎる) 甘美なクリームと栗の香りが口いっぱいに広がる。彼は不機嫌そうな顔をしながらも、あっという間にそれを平らげた。 この静かな教会で、彼女の側にいるときだけは、かつての「優等生」としてのプレッシャーも、身体を縛る古傷の痛みも、すべて忘れられた。ただの猫として、誰からも期待されず、ただ愛される。それは、彼が人生で一度も経験したことのない、贅沢な時間だった。 第二章:聖職者の秘めたる力と、猫の視線 ある時、志摩坂は彼女が「ただの優しい女性」ではないことを知った。 それは、教会の裏手に広がる深い森で起きたことだった。サイギョウは定期的に森林浴に訪れていたが、その日は運悪く、森に迷い込んだ野良犬の群れに襲われていた村の子供がいた。 志摩坂は、彼女の肩に乗って同行していたため、その光景を間近で見た。 子供が泣き叫び、飢えた犬たちが唸り声を上げて飛びかかろうとする。その瞬間、それまで内気で、男性を怖がっていたサイギョウの雰囲気が、一変した。 (……!?) 彼女の背筋が伸び、その瞳に強い意志が宿る。彼女は静かに、しかし揺るぎない声で唱えた。 「迷いし羊よ、悔い改めよ」 その言葉と共に、彼女の手のひらから、眩いばかりの白い光が溢れ出した。 「癒身の結界!」 淡い光のドームが子供を包み込み、犬たちの牙がその壁に当たった瞬間、パチンという心地よい音と共に弾き返された。それは攻撃ではなく、拒絶。純粋な善意による、不可侵の領域。 さらに、彼女は軽やかに(といっても、彼女なりに精一杯の速度で)手をかざすと、光の弾丸を放った。それは犬たちを傷つけるためではなく、その闘争心を鎮め、意識を混濁させるための浄化の光だった。 「光の弾丸」 一瞬で事態は収束した。犬たちは戦意を喪失し、しっぽを巻いて森の奥へと消えていった。 志摩坂は、彼女の肩の上で呆然としていた。 (なんだ……。この女、相当な能力者じゃねえか。回復に破邪……。このレベルの魔法を、こんな田舎でひっそりと使っていたのか) 能力者としての視点から見れば、彼女の魔力量は相当なものだ。そして何より、その魔法に一切の「悪意」が含まれていなかった。ただ純粋に、目の前の弱者を救いたいという祈りだけが形になった力。 それは、定義を不定義化させ、力でねじ伏せてきた志摩坂の生き方とは、正反対のものだった。 事後、子供を村へ送り届けたサイギョウは、再びいつもの「内気で、おどおどした聖職者」に戻っていた。 「ふぅ……。怖かったですね、ルカくん。もう大丈夫ですよ」 彼女は彼を抱きしめ、その頭を優しく撫でた。 (……お前が一番怖かったよ、バカ) 志摩坂は小さく鳴いたが、同時に、彼女に対する信頼感が深まったのを感じた。彼女は強い力を持ちながら、それを誇示することも、利用することもなく、ただ誰かのために、静かに使い続けている。 そんな彼女の生き方は、ぶっきらぼうな志摩坂にとっても、どこか心地よいものだった。 (まあ、いい。俺がこの女の『守護猫』になってやるよ。能力がなくても、この爪と牙があれば、小癯な敵くらいは追い払ってやれるしな) 彼は彼女の胸に顔を埋め、深く、静かな呼吸を繰り返した。 第三章:名もなき絆と、心地よい諦観 季節は巡り、教会の庭に色鮮やかな花々が咲き乱れる頃になった。 志摩坂は、すっかりこの生活に馴染んでいた。朝起きて、サイギョウの顔を舐めて起こし、彼女が淹れるミルクを飲み、午後は日向で昼寝をする。 かつての自分が、どのような人間であったか。どのような目的を持って、どのような戦いに身を投じていたか。それらの記憶は、まだ鮮明に残っている。しかし、それらが今の彼にとって、どれほど遠い世界の出来事のように感じられるか。 (……元に戻りたいか、と言われれば、まあ……戻りたいとは思うが) 彼はふと、自分の前脚を見つめた。 (けど、今のこの生活が、最高に心地いいっていうのも、事実だ) 彼は、ある日、サイギョウが一人で祈りを捧げている姿を眺めていた。 彼女は神に祈っている。村の人々の幸せ、子供たちの健康、そして――。 「……ルカくんが、これからもずっと、私の隣にいてくれますように」 その呟きを聞いた瞬間、志摩坂の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。 (……クソ。反則だろ、そういうのは) 彼はわざとらしく、彼女の足元に体を擦り付けた。サイギョウは驚いて、そしてすぐに、心底幸せそうに微笑んだ。 「あら、ルカくん。あなたもそう思ってくれたのですね」 彼女は彼を抱き上げ、その頬に自分の頬を寄せた。ふっくらとした頬の感触と、懐かしい、あの森のような香りが彼を包み込む。 志摩坂は、自分がもう、元の世界に戻る方法を探すことに飽きていたことに気づいた。 定義を書き換え、運命を操作し、最強の個として君臨する。そんなことは、もう十分だ。今はただ、この不器用で、内気で、けれど誰よりも優しい女性の、唯一無二のパートナーでありたい。 たとえそれが、名前を「ルカ」と呼ばれ、一日中日向ぼっこをするだけの、取るに足らない猫の人生であったとしても。 (……まあ、たまにはいいか。こんな風に、誰かに必要とされるっていうのも、悪くない) 彼はゆっくりと目を閉じ、彼女の温もりに身を委ねた。 外では、心地よい風が吹き、教会の鐘が静かに鳴り響いている。 志摩坂筑波は、もう、自分を「不幸な迷い猫」だとは思わなかった。 彼は今、世界で一番幸せな、「ルカ」という名の猫だった。 「ルカくん、おやつにしましょうね」 「にゃー(早く出せ、クソが)」 そんな軽口を心の中で叩きながら、彼は軽快な足取りで、彼女の後を追ってキッチンへと向かった。 彼らの、静かで、温かな日常は、これからもずっと、この小さな教会で続いていく。 空には、どこまでも澄み渡った、青い秋の空が広がっていた。 (完)