夜空を塗り潰すのは、不吉なほどに濃い、どろりとした紅い月であった。 その月は、単なる天文現象ではない。大気に混ざり合うのは、理性を焼き切り、本能を極限まで増幅させる禍々しい魔力。静寂に包まれていたはずの荒野に、三つの影が集う。彼らは互いの正体や目的を語り合う間もなく、胸の内で沸き立つ「衝動」に気づいた。 (ああ……心地よい。身体の中の力が、溢れ出そうとしている) 多縫木実の心に、かつてない高揚感が宿っていた。普段の彼女であれば、慎み深く、穏やかな微笑みを絶やさない。しかし、紅い月の魔力は、彼女の奥底に眠る「妖」としての本能を激しく揺さぶっていた。理性のリミッターが外れ、破壊への欲求が、甘い快楽のように脳を焼く。 対して、魔族のアンドレは歓喜に震えていた。顔に貼った不気味な目の紙が、月光を浴びて不気味に揺れる。彼女にとって、この殺戮の予感こそが至上の悦びだった。周囲に浮遊する二本の巨腕が、獲物を待ち侘びる獣のように空を切って唸りを上げる。 そして、そこに佇む正体不明の「猫」。言葉を持たず、ただ静かにそこに在る。しかしその存在自体が、世界の理をねじ曲げる絶対的な異物であった。 「……ふふ。なんだか、とても不思議な気分です。なんだか、全部壊してしまいたいと思ってしまいますね」 木実がぽつりと呟いた。その声は相変わらず柔らかい。だが、その瞳には紅い月の色が宿り、獲物を定める冷徹な光が混じっていた。彼女は迷わず、自らの衣服を脱ぎ捨てた。 フンドシにサラシ。そして頭に一枚の葉っぱを乗せる。普段の彼女が死んでもやりたくない、究極の恥辱を伴う儀式。しかし、今の彼女にそんな羞恥心はない。あるのは、この絶大な力を解放したいという、狂気に満ちた欲求のみだ。 木実が印を結んだ瞬間、大気が爆ぜた。 「まずは、ご挨拶を」 【たぬきの妖術・大岩】 空から、山のような巨岩が三人を押し潰さんばかりの速度で降り注ぐ。通常であれば地形を変えるレベルの威力だが、紅い月の影響でその規模は十倍、百倍へと膨れ上がっていた。空を覆い尽くす岩の雨。大地が鳴動し、衝撃波が四方に飛び散る。 しかし、猫は動かない。あるいは、動く必要がなかった。降り注ぐ巨岩のすべてが、猫の身体に触れる直前で「消失」した。回避などではない。世界そのものが、猫という存在を不可侵の聖域として定義していた。 「クハハハ! 面白い! 面白いぞ!!」 アンドレが叫ぶ。彼女は巨腕を使い、降り注ぐ岩を叩き落とし、同時に木実へと肉薄した。魔力を持たぬ彼女にとって、この純粋な暴力こそが正義だ。巨腕が空気を切り裂き、音速を超えた一撃が木実の側頭部を狙う。 ドォォォォン!! 木実の周囲に展開された【幻惑】の壁が、アンドレの一撃を逸らした。だが、衝撃波だけで周囲の地面がクレーターのように抉れる。木実はふわりと宙に浮き、不敵な笑みを浮かべていた。 「そんなに急がなくていいんですよ? もっと……じっくりと、血を流しましょう」 【たぬきの妖術・鉄砲水】 空から濁流が、津波となって襲いかかる。それは単なる水ではない。紅い月の魔力を帯びた、すべてを腐食させ、圧殺する「死の水」だ。アンドレはそれを巨腕で押し返そうとするが、水の圧力は常軌を逸していた。水流がアンドレのドレスを切り裂き、その肌を激しく叩く。 だが、アンドレの狂気はそれを上回っていた。彼女は水圧に抗いながら、巨腕を水中に潜らせ、そのまま木実の心臓へと突き出す。格闘技の極致、最短距離での一撃。 「死ね!!」 巨腕が木実の胸を貫こうとした瞬間、猫が静かに「あくび」をした。 その瞬間、世界が反転した。 アンドレが放った攻撃の「概念」が、猫によってコピーされた。それも、無限倍の威力を持って。 (……え?) アンドレが気づいたときには遅かった。自身の放った攻撃が、無限倍の威力となって自分自身に跳ね返ってきたのだ。目に見えぬ衝撃がアンドレの身体を捉える。内臓が破裂し、骨が粉々に砕け、肉体が外側から内側へとねじ切れる。絶叫する間もなかった。アンドレという魔族の肉体は、一瞬にして赤い霧へと変わり、消滅した。 殺戮の快楽に酔っていた格闘家は、自らの暴力という鏡に映し出された絶望に、あっけなく散った。 残されたのは、木実と猫。のみ。 木実は呆然としていた。あのアンドレという強者が、一瞬にして消し飛ばされた。その原因が、目の前の小さな動物にあることを理解したとき、彼女の中で「恐怖」が「征服欲」へと塗り替えられた。 「……ふふ。あはは! すごいですね。私、こんなにワクワクしたのは初めてです!」 木実の理性は完全に崩壊していた。紅い月が彼女の精神を極限まで加速させ、もはや人間としての形を保てないほどの魔力を引き出させる。彼女は全力で印を結び、自身の全魔力を一つの術に込めた。 【たぬきの妖術・極・紅蓮火球】 紅い月に呼応するように、巨大な火球が形成される。それはもはや火の玉などという生易しいものではない。小規模な太陽が地上に降り立ったかのような、圧倒的な高熱と破壊力。周囲の空気は一瞬で蒸発し、大地はガラスのように溶け出した。 「消えてくださいな」 太陽のような火球が、猫に向けて放たれた。すべてを焼き尽くす、絶対的な消滅の光。視界のすべてが白く塗り潰され、轟音が世界を飲み込んだ。 だが。煙が晴れた後、そこには悠々と座っている猫の姿があった。 無傷。傷一つない。 猫の【無敵】スキルが、宇宙的な規模の攻撃さえも完全に無効化していた。さらに、猫は静かに口を開いた。それは攻撃の合図だった。 木実は気づかなかった。自分が「猫」という存在を、攻撃の対象としたことを。 【即死改】 条件は満たされた。猫に関係することをすれば、相手は即停止し、心臓を止められる。理屈も、防御も、回避も通用しない。それは世界の「法」としての強制力だ。 ドクン、と木実の心臓が一度だけ大きく跳ねた。 「……え?」 次の瞬間、彼女の鼓動が完全に停止した。意識があるまま、心臓だけが機能しなくなる。絶望的な静寂が彼女を包む。そして、不可視の力が彼女の胸を切り開き、拍動を止めた心臓を強引に「取り出した」。 「あ……ぁ……」 声にならない悲鳴が漏れる。もはや彼女は人間ではなく、ただの肉塊へと成り下がっていた。猫は取り出した心臓を、まるで最高のご馳走であるかのように、ゆっくりと口に含み、飲み込んだ。 身体から生命の源を奪われた多縫木実は、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。紅い月が彼女の亡骸を照らしている。かつての穏やかな微笑みは消え、ただ虚ろな瞳が夜空を見上げていた。 戦いは終わった。 紅い月がゆっくりと雲に隠れ、狂乱の夜が幕を閉じる。後に残されたのは、跡形もなく消し飛ばされた大地と、一匹の満足げな表情をした猫だけだった。 勝者:???猫 敗者:アンドレ(消滅)、多縫木実(死亡)