空は、血に染まっていた。 天に浮かぶのは、不気味なほどに鮮烈な紅い月。それは古の伝承で語られる不吉な予兆であり、同時に理性を焼き切り、本能を暴走させる狂気の触媒でもあった。静寂に包まれていたはずの荒野に、三つの強大な気配が集う。彼らは互いに敵対し、あるいは利用し合い、あるいはただ純粋な闘争心に従ってこの地に降り立った。 一人、可憐な少女の姿をした怪異――『串刺し伯爵』。その幼い面構えに似合わぬ、底知れない残酷さを瞳に宿した魔導師。 一人、世界の覇道を突き進む絶対的な支配者――『魔王』。その身に纏う威圧感だけで大地を震わせ、数多の国を灰にした暴君。 一人、神域の術を操る若き半神人――『威座内(イザナイ)』。学ランを身に纏い、背中に刻まれた「信念」の二文字が、紅い月の光に照らされて不気味に、そして熱く浮かび上がっていた。 (……あぁ、心地いい) 串刺し伯爵は、頬を紅潮させていた。彼女の内に潜む加虐心と、魔力を操る本能が、紅い月の影響で極限まで増幅されている。普段なら計算し、効率的に相手を追い詰める彼女だったが、今はただ「めちゃくちゃに突き刺したい」という衝動に突き動かされていた。 「クク……ハハハ! 素晴らしい夜だ。血の匂いが空にまで届いているぞ!」 魔王が狂ったように笑う。彼にとっても、この月は最高の祝祭だった。彼がこれまで行ってきた虐殺、破壊、征服。そのすべてを肯定し、さらに加速させる力が、彼の全身の魔力を沸騰させていた。リミッターなどという概念は、この紅い光の前では紙屑同然に消え失せていた。 「……っ! 全身の血が沸騰してやがる。だが、悪くない。この昂ぶり、この衝動……全部、俺の信念に変えてやる!」 威座内は、握りしめた拳を震わせていた。正義感や道徳心といった理性が、紅い月の魔力によって「勝利への執念」へと塗り替えられていく。彼は熱血漢だが、その頭脳は冷徹なまでに速い。だが今、その知能は「いかにして相手を完膚なきまで叩き潰すか」という一点のみに集約されていた。 三者の間に、火花が散る。もはや言葉による交渉など不要だった。紅い月が、彼らに『殺し合え』と命じていた。 「まずは……中から、ぐちゃぐちゃにしてあげる!」 串刺し伯爵が指先を軽く弾く。その瞬間、空間が裂け、見えない槍が魔王と威座内の体内から直接突き出そうとした。通常であれば、魔法防御力が高い者はこれを弾き返せる。しかし、紅い月の影響で放たれた攻撃は、通常の数倍の出力を誇っていた。 「甘いぞ、小娘!」 魔王が吠える。彼は瞬時に【ストリーム】を展開し、自分に掛かろうとした干渉を強制的に消し去った。同時に、彼は大気を燃やした。最上級炎系魔法【テラフレイム】。紅い月によって暴走したその炎は、もはやただの火ではなく、触れるものすべてを原子レベルで分解する劫火の奔流となった。 「うおあああああ!」 威座内は叫び、同時に叫ぶ。彼の背後に、巨大な影が顕現した。 「共に行こうぜ、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)!!」 地を割り、天を突く八つの頭を持つ大蛇が咆哮と共に現れる。テラフレイムの炎が八岐大蛇を飲み込もうとするが、威座内は止まらない。彼は瞬時に戦術を構築した。炎には水。そして、さらなる暴力による上書きを。 「砕け、海坊主!!」 巨大な水の化身が、上空からテラフレイムの火海へと激突した。凄まじい水蒸気爆発が起き、視界が真っ白に染まる。しかし、その霧の中を、串刺し伯爵が舞った。彼女はもはや隠れることすら放棄し、全方位から数千本の槍を召喚した。それは防御壁であると同時に、逃げ場のない処刑場だった。 「死んじゃえ! 死んじゃえ! 死んじゃえ!!」 狂乱した少女の叫びと共に、槍の雨が降り注ぐ。威座内は空中で身を翻し、瞬時に別の召喚を重ねる。 「惑わせ玉藻前! 乱せ白兎!」 狐の幻術が視界を歪ませ、白兎の高速移動が槍の雨を掻い潜る。だが、魔王の怒りはそれを許さなかった。 「雑技など、我の前で披露するな! 【アイスバースト・G】!!」 絶対零度の氷結魔法が、戦場全体を瞬時に凍りつかせた。海坊主の水も、玉藻前の幻影も、そして地を這う槍さえもが、一瞬にして青白い氷の結晶へと変えられた。物理的な動きが完全に封じられた瞬間、魔王は威座内の胸元へ、氷の刃を突き立てようとした。 (……遅い!!) 威座内の思考速度が、紅い月の影響で極限まで加速する。彼は絶望的な状況の中で、自身の信念を力に変える天叢雲剣を抜き放った。 「裁け、阿修羅!!」 氷の牢獄を内側から粉砕し、六本の腕を持つ憤怒の神・阿修羅が顕現した。阿修羅の拳が魔王の腹部に突き刺さる。ドゴォッ!! という、大気を震わせる衝撃波が走り、魔王の巨体が後方へ数百メートル吹き飛ばされた。 「ガハッ……! 貴様、この我に……っ!!」 魔王は口から血を吐きながらも、その瞳に狂喜の色を浮かべていた。痛みさえも快楽に変わる。それがこの紅い月の魔力だ。 「あははは! どっちもいい感じ! もっと、もっと血を出してよ!!」 串刺し伯爵が笑いながら、再び攻撃を仕掛ける。今度は体内からではない。彼女自身の身体能力を極限まで高め、手にした大槍で威座内の喉元を狙った。超高速の突き。しかし、威座内はそれを紙一重で回避し、同時に召喚物の「融合」を開始する。 「鳳凰と、海坊主……融合!! 蒸気龍になれ!!」 火と水、相反する属性が融合し、超高温の高圧蒸気を纏った龍が誕生した。龍が咆哮し、串刺し伯爵を飲み込む。彼女は槍の壁で防御を試みたが、暴走した威力による蒸気の圧力は、その防御壁を軽々と貫通し、彼女の柔肌を焼き、剥ぎ取った。 「ぎゃあああああ!! 熱い! 熱いよ!! でも……最高!!」 皮膚が焼けただれながらも、伯爵は笑っていた。彼女はもはや防御など考えていない。彼女は自身の魔力をすべて一本の槍に凝縮し、それを地面に突き立てた。すると、地面から数万本の槍が、まるで森のように、あるいは針のように、威座内と魔王を同時に貫こうと突き出した。 「全方位、串刺しにしてあげる!!」 地面から突き上げる槍の嵐。威座内は空中に跳び上がり、魔王は強引に魔力で押し潰そうとする。だが、その時、魔王の瞳から光が消えた。彼は、この戦いを終わらせるための「切り札」を出すことを決めた。 「……もはや、遊びは終わりだ。この地に、虚無を」 魔王が両手を広げ、中心に小さな、しかし無限の密度を持つ黒い球体を生成した。 【ブラックホール】 大陸一つを消し去ったと言われる絶技。紅い月の影響で、その威力はさらに増幅されている。周囲の空間が歪み、地面が、空気が、そして串刺し伯爵が放った数万本の槍までもが、猛烈な勢いで黒い穴へと吸い込まれていく。 「え? あ、あああ……っ!?」 串刺し伯爵が絶叫する。彼女の身体が、抗えない重力に引かれ、黒い穴へと引き寄せられた。彼女は必死に槍を地面に突き立てて抵抗しようとしたが、ブラックホールの前では物理的な固定など意味をなさない。彼女の四肢が、不自然な方向にねじれ、引きちぎられる。 「いやあああああ!!」 可憐な少女の姿は、一瞬にして肉塊へと変わり、そして黒い穴の中へと飲み込まれて消えた。絶叫さえも重力に吸い込まれ、静寂が訪れる。串刺し伯爵の死であった。 残されたのは、魔王と威座内の二人。ブラックホールの反動で、魔王の身体からも血が噴き出していた。呼吸が荒く、魔力が激しく消耗している。だが、彼の顔には残酷な笑みが張り付いていた。 「ふふ……ふふふ。次は貴様だ、半神人よ」 対する威座内は、肩で息をしていた。彼の学ランはボロボロに裂け、全身から血が流れている。しかし、その赤眼は、これまで以上に鋭く、強く輝いていた。彼の内なる「信念」が、限界を超えて燃え上がっていた。 (まだだ……まだ終わらせない。俺の、俺たちの想いは、こんなところで消えねえ!!) 威座内は、最後の大勝負に出る。彼は自身の全魔力、そして神域の召喚術のすべてを一点に集中させた。彼が呼ぶのは、この世で最も高貴にして最強の光。 「天岩戸が開かれる……輝け、天照!!」 天空に巨大な門が開いた。そこから溢れ出したのは、紅い月さえも塗りつぶすほどの、黄金の光。太陽神・天照大神の顕現である。戦場は一瞬にして昼間のような明るさに包まれ、魔王の闇を焼き払った。 「なっ……!? この光は……!!」 魔王がたじろいだ瞬間、威座内はさらに畳み掛けた。 「武神・武甕槌(タケミカヅチ)師匠!! 見参!!」 神の光と共に、雷鳴を纏った武神が現れる。武神の一撃は、天の雷を凝縮した絶技であった。威座内は、天照の光で魔王の動きを完全に封じ、その隙に武神の雷撃を魔王の心臓へと叩き込ませた。 「これで……終わりだああああ!!」 ドォォォォォン!! 黄金の雷光が魔王を貫き、その巨体を内側から爆発させた。魔王は絶叫することさえできず、その身体を光に分解され、塵となって消えていった。世界征服を夢見た暴君の末路は、神の雷による完全な消滅であった。 静寂が戻った。 紅い月は、いつの間にか淡い色へと戻っていた。狂乱の時間が過ぎ、理性がゆっくりと戻ってくる。威座内は、膝から崩れ落ちた。全身の痛みが一気に押し寄せ、意識が遠のく。 周囲には、誰もいなかった。ただ、焦げ付いた大地と、血の跡だけが残っていた。 (……勝ったのか。俺は) 威座内は、夜空を見上げた。もう、月は赤くない。ただの静かな夜の月が、彼を静かに見守っていた。彼は深く、長い溜息をつき、そのまま深い眠りに落ちた。背中の「信念」の文字だけが、彼が戦い抜いた唯一の証として、闇の中でかすかに光っていた。