静寂が支配する待合室。そこは、対戦者を分かつ厚い壁一枚を隔てた、精神的な真空地帯であった。 一方の部屋にいるのは、トリニティ総合学園正義実現委員会の誇る「歩く戦略兵器」、ツルギ。彼女は乱れた黒髪をさらにかきむしり、腰の黒い翼を不気味に震わせながら、愛銃『ブラッド&ガンパウダー』の銃身を愛おしそうに撫でていた。外から見れば、今すぐにでも壁を突き破って叫び声を上げ、全てを破壊し尽くそうとする狂戦士にしか見えない。しかし、その脳内では、お淑やかで慎重な、極めて理性的かつ過剰なまでの「思考の迷宮」が展開されていた。 (……さて。相手は『バンギラス』。分類はよろいポケモン。タイプはあく・いわ。高さ二メートル、体重二百キロオーバー。まずはこの物理的な質量差をどう埋めるか。私の機動力があれば回避は可能だが、相手の皮膚は鎧のように硬い。通常の弾丸では弾かれる可能性があるわね。いえ、弾かれるどころか、衝撃で私の腕に反動が戻ってくるリスクがある。そうなれば、一瞬の隙を突かれて近接攻撃を受ける。あのような巨体に踏み潰されれば、骨の一本や二本では済まないわ。ああ、どうしましょう。もし私が不格好に転んで、相手に情けない姿を見せてしまったら……いえ、今はそんなことを考えている場合じゃないわ! 戦いへの集中よ!) ツルギの思考は加速する。彼女は自分自身の「狂気モード」を完璧に制御しつつ、相手の能力を限界まで深読みし始めていた。 (特性『すなおこし』。戦場に出た瞬間に砂嵐が発生する。これは単なる環境変化ではない。視界の遮断、そして持続的なダメージ。私の血塗れの黒セーラーが砂で汚れるのは構わないけれど、問題は呼吸よ。砂が肺に入り込めば、あの奇怪な絶叫を上げるための肺活量に影響が出る。叫びによる恐怖付与の効率が五パーセント低下したとき、相手の精神的動揺を誘うタイミングがズレる。そうなれば、私の『奇奇怪怪』を叩き込むための最適な間合いを逃すことになるわ。さらに、あちらの技構成を分析しましょう。『ステルスロック』。透明な岩を浮かべる……。これは交代時にダメージを与える技だけではなく、戦場に「見えない障害物」を配置するということ。もし私が高速移動中にその岩に接触すれば、足首を捻る可能性がある。ああっ、想像しただけで恥ずかしい! 転んで情けない声を出すなんて、正義実現委員会の面汚しだわ! 絶対に避けなければならない。けれど、避けるために不自然な挙動を見せれば、相手にこちらの回避ルートを読み切られる……!) ツルギは、まだ一度も会っていない相手に対して、すでに数千通りの敗北パターンと、それを回避するための複雑怪奇な戦略を脳内で構築していた。彼女の素の性格である「慎重さ」と「恥じらい」が、戦闘への不安と混ざり合い、異常なまでの知略戦へと昇華している。彼女にとっての勝利とは、単に相手を倒すことではなく、「完璧に計算し尽くされた挙動によって、一切の醜態をさらさずに制圧すること」であった。 (さらに『はたきおとす』という厄介な技がある。道具を持っている場合に威力が上がる上に、それを失わせる。私の銃は武器であって道具ではないはずだけれど、もし相手がこれを広義の「アイテム」と定義して攻撃してきたら? 銃を奪われた瞬間、私の戦術は崩壊する。いえ、奪われる前に射抜く。けれど、相手の皮膚の硬度を考えると、一撃で仕留めるには急所を狙い撃つ必要がある。しかし、急所を狙う行為は射撃時間の延長を意味し、その隙に『じしん』が放たれる。大地を揺らす広範囲攻撃。空中へ逃げるか? だが、翼があるとはいえ、砂嵐の中での飛行は不安定。急激な気流の変化でバランスを崩し、もしかして空中でひっくり返って……! いやだ! そんな恥ずかしい姿、誰にも見せられない! 完璧に、完璧に、淑女として、そして破壊兵器として、最速で殲滅しなければならないわ!) 一方、壁の向こう側。そこには、緑色の巨体をした怪獣、バンギラスが鎮座していた。彼はただ静かに、低く唸り声を上げていた。周囲からは「ガオォォン」という単純な咆哮にしか聞こえないだろう。しかし、その強靭な精神構造を持つポケモンの中では、彼なりの「戦士としての深慮」が巡っていた。 (ガオォ……。相手は人間。だが、ただの人間ではない。漂ってくる殺気と、それとは相反する奇妙な静寂。そして、火薬の匂い。銃という道具を使う。人間が道具を使うということは、その道具に依存しているということだ。つまり、道具を失わせれば戦意は喪失する。だが、相手は「破壊」を至上命題とする気配がある。単純な力押しでは、逆にこちらの懐に飛び込まれるリスクがあるな。もし相手が超高速移動を仕掛けてきた場合、俺の巨体では旋回速度が追いつかない可能性がある。まずは『ステルスロック』で足場を制限し、相手の移動ルートを限定させるべきか。いや、それでは相手に「待ち伏せ」の準備をさせる時間を与えることになる。先手を打って『じしん』で足元を崩し、姿勢を乱したところに『ストーンエッジ』を叩き込むのが定石か……。) バンギラスの思考は、野生の勘と経験に裏打ちされた極めて実戦的な戦略に基づいていた。しかし、彼もまた、相手が放つ「正体不明の狂気」という変数に頭を悩ませていた。 (ガオォン……。先ほどの気配。一瞬だけ、ひどく内気で、それでいて激情を押し殺したような、矛盾した波動を感じた。これは罠か? 狂ったふりをして油断させ、決定的な瞬間に冷静な一撃を繰り出すタイプか。あるいは、精神的な不安定さを利用して、こちらの攻撃を誘う戦術か。もし相手が『奇奇怪怪』という広範囲攻撃を仕掛けてきた場合、俺の鎧で耐え切れるか。耐えられたとしても、衝撃で後退すれば、その隙に再び射撃される。弾丸の一撃一撃にどれほどの威力が込められているか。もし、打てば打つほど加速し、回復する能力を持っているとしたら、長期戦は分が悪い。短期決戦で、一気に『はたきおとす』で武器を無効化し、物理的に圧殺するのが最適解か。だが、相手の翼がある。空への逃げ道を完全に塞ぐには、砂嵐の密度を最大まで高める必要があるだろう。) バンギラスは、自らの能力を最大限に活用し、いかにして相手の「不確定要素」を排除するかに思考を巡らせていた。彼は相手を単なる獲物ではなく、対等な「強者」として認めていたため、不用意な攻撃よりも、完璧な勝利を収めるための盤面構築に執心していたのである。 壁を隔てた二者は、互いに相手の能力を過剰なまでに分析し、最悪のシナリオを想定し、それに対する対策を何重にも塗り重ねていた。ツルギは「恥をかかずに、かつ完璧に破壊する」ための理論武装を。バンギラスは「不確定な狂気を封じ込め、確実に圧殺する」ための戦術立案を。 (……よし。作戦は決まったわ。まずは砂嵐の発生と同時に、擬態的な奇声を上げて相手の注意を逸らし、その隙にステルスロックの配置を特定。その後、Z字型の高速機動で死角に入り、至近距離から最大火力を叩き込む。もしこれでダメなら、一度距離を取り、相手が『じしん』を放った瞬間の跳躍を利用して、上空から急降下射撃。絶対に、絶対に転ばない。絶対に、不格好な声を上げない。……いいえ、戦闘モードに入れば、叫ぶのは当然よね。でも、それは『計算された叫び』であるべきだわ!) (ガオォ……。決定だ。まずは砂嵐で視界を奪い、相手の焦りを誘う。焦った相手が強引に突っ込んできた瞬間こそが最大の好機。そこへ『ストーンエッジ』の鋭い岩柱を突き立て、機動力を奪う。もし相手が空へ逃げたとしても、岩の礫で追い詰める。道具を奪い、翼を折り、地面に這いつくばらせる。それが、強者として相手を敬う唯一の手段だ。) 思考の迷宮が完結し、二人の精神は極限まで研ぎ澄まされた。もはや、そこにあるのは単なる戦いではなく、互いの知略と想定のぶつかり合いという、見えないチェスのような精神戦であった。 やがて、待合室の扉が開く合図が鳴り響く。 ツルギは、ふっと表情を消した。そして、心の中で最後のお淑やかな祈りを捧げ、ゆっくりと、しかし力強く、狂気と計算が同居した笑みを口元に浮かべる。 (……さあ、壊しに行きましょうか) バンギラスは、低く、地響きのような唸りを上げ、重い足取りで前へと踏み出した。 (ガオォォォン!!) 互いの深読みが、最悪の結果を招くのか。あるいは最高の激突を生むのか。知略という名の鎧を纏った二つの「破壊兵器」が、今、戦場へと解き放たれる。