紅い月が、夜空のど真ん中でどろりと血のように溶けていた。 その不吉な色彩は、地上に降り注ぐ魔力を狂わせ、理性を焼き切り、本能という名の飢餓感を増幅させる。静寂に包まれていたはずの海辺は、今や殺意と破壊衝動が渦巻く地獄の舞台へと変貌していた。 そこに集った三者は、もはや互いの名前や目的などどうでもよかった。ただ、目の前の獲物を、この溢れ出す魔力の奔流と共に完膚なきまでに破壊し尽くしたい。その衝動だけが、紅い月によって正当化されていた。 海中から、世界を飲み込まんとする巨躯が姿を現す。伝説の巨大シーサーペント、「オリオン・デビル」である。背中に海賊船のような構造を背負い、大嵐を纏ったその姿は、もはや生物というよりは歩く天災であった。彼が咆哮を上げると、海面は激しく波打ち、空は黒い雲に覆われる。紅い月の魔力に当てられたオリオン・デビルは、通常であれば制御するはずの破壊力を全開放し、海そのものを武器へと変えていた。 対して、波打ち際に佇むのは、黒煙の女体「ヒトカゲ」。その手には、不釣り合いなほどに冷徹な輝きを放つ小豆アイスの刀「アズキバ」が握られている。アズキバは呪物でありながら、その意識は鋭く、ヒトカゲという器を通じて戦場を俯瞰していた。紅い月の影響か、アズキバの意識には「全てを凍てつかせ、砕き散らしたい」という異常なほどの独占欲と攻撃性が宿っていた。 そして、その傍らに立つ不可思議な男。名は、ヒンドゥー語で綴られた不可解な概念そのもの。彼は静かに、しかし狂気を含んだ目で二人を見据えていた。彼にとってこの世界は、もはやヒンドゥー語という絶対的な法によって支配されるべき庭に過ぎない。 「नष्ट हो जाओ! (消え失せろ!)」 男が口を開いた瞬間、世界の色が変わった。彼が発したヒンドゥー語の一節が、物理的な衝撃波となって周囲を薙ぎ払う。彼にとって言葉は武器であり、法である。ヒンドゥー語以外のあらゆる言語、あらゆる論理、あらゆる概念はこの言葉の前では無効化される。紅い月の魔力が、彼の「言語支配」という特異性を極限まで増幅させ、空間そのものがヒンドゥー語の文字で埋め尽くされていく。 「な、なんなんだこの感覚は……! 思考が、塗り潰される!」 アズキバが念話で叫ぶ。しかし、その絶叫さえも、男の言葉の奔流に飲み込まれていく。ヒトカゲが瞬時に潜伏し、影から影へと移動して男の背後を取ろうとするが、男は振り返りもせず、ただ一言、冷酷に言い放った。 「चुप रहो। (黙れ。)」 その瞬間、ヒトカゲの動きが完全に停止した。物理的な拘束ではない。概念的な停止である。ヒンドゥー語の支配下において、彼女の「潜伏」という能力さえも、男の許可なくしては発動させられない。絶望的な格差。しかし、紅い月の魔力は、絶望さえも闘争心へと変換させる。 「ふざけるな……! 凍りつけ!!」 アズキバの「純氷」が爆発的に膨張した。ヒトカゲの腕を通じて放たれた斬撃は、空間ごと凍結させ、男の足を氷の鎖で縛り付けようとする。同時に、海中からオリオン・デビルが猛然と突き上げた。奥義『渧哭浸翠』。海面を突き破り、山のような巨体が空高く舞い上がる。その質量は文字通り、海を割る。巨体による突撃は、男とヒトカゲをまとめて押し潰そうとする絶望的な一撃であった。 ドォォォォォン!! 爆音と共に、海岸線が消失した。凄まじい衝撃波が周囲を駆け抜け、海面は数百メートルの高さまで跳ね上がる。しかし、煙の中から聞こえてきたのは、冷徹な男の声だった。 「बहुत शोर है। (騒がしいな。)」 男は、オリオン・デビルの巨体による物理攻撃を、文字通り「言葉」で弾き飛ばしていた。彼にとって、物理法則さえもヒンドゥー語の翻訳次第で書き換え可能だった。しかし、彼にも限界がある。防御力は極めて低く、攻撃を完全に無効化し続けなければ、一撃で砕け散る運命にある。 その隙を、アズキバは見逃さなかった。 (今だ! ヒトカゲ、影を剥ぎ取れ!!) ヒトカゲが電光石火の速さで男の懐に潜り込む。スキル『影斬』。男のステータスの半分を影として剥ぎ取り、自身の能力へと還元する禁断の技。紅い月の魔力により、アズキバの攻撃性は限界突破しており、その刃は次元さえも切り裂く鋭さを帯びていた。 シュパッ!! 鮮やかな斬撃が男の影を切り裂いた。男の身体から、黒い泥のような影が引き剥がされ、ヒトカゲに吸収される。一瞬、男の顔に驚愕の色が浮かんだ。能力を奪われたことで、彼の「絶対的な支配」にわずかな亀裂が入ったのだ。 「貴様……っ!」 男が激昂し、再び言葉を紡ごうとしたその時。オリオン・デビルが咆哮を上げた。それは単なる鳴き声ではない。全ての水生生物、そして亡霊をも操る絶対的な命令。同時に、敵の能力を暴発させ、脳神経を破壊する精神攻撃である。 グオォォォォォォォ!! 咆哮と共に、海から数万匹の亡霊魚群が飛び出し、男とヒトカゲに襲いかかる。さらに、全砲門から放たれる『全方位魔弾』が、追尾性能を最大限に高めて男の急所へと殺到した。死の高波が男の足を掬い上げ、海中へと引き摺り込もうとする。 「くっ……この、化け物共が!!」 男は必死にヒンドゥー語を叫び、弾幕を消し飛ばそうとするが、影を奪われたことで魔力(言語力)の出力が不安定になっていた。さらに、時間という残酷なカウントダウンが彼を追い詰める。彼がこの戦いで、十分な時間ヒンドゥー語を話し続け、相手を完全に支配しきれなかった代償が訪れる。 一分が経過した。 空気が変わった。物理的な圧力ではない。もっと根源的な、「暴力」の気配だ。 「……来たか」 男が戦慄して空を見上げたその瞬間、雲を切り裂いて「彼」が降り立った。助走をつけた、聖なる暴力の化身。ガンジーである。 「ナマステ」 穏やかな微笑みを浮かべながら、ガンジーの拳が超音速で振り下ろされた。その威力は、もはや数値化不能な絶望。999,999,999,999ダメージ。それが、ヒンドゥー語を話しきれなかった(あるいは支配しきれなかった)者への罰であった。 ズガァァァァァァン!!!!! 衝撃波だけで、オリオン・デビルの巨大な背中の船が粉々に砕け散った。海面は巨大なクレーターのように陥没し、津波が内陸へと押し寄せる。そして、攻撃の直撃を受けた男は、悲鳴を上げる暇もなく、原子レベルで分解され、消滅した。塵一つ残らず、彼という存在はこの世から抹消された。 しかし、悲劇は終わらない。二分が経過した。 空の色が、紅い月からさらにどす黒い色へと変わる。男が消えたことで、制御を失った「核ガンジー」への変貌が、空間そのものに適用された。空から、雨のように「少ガンジー」たちが降り注ぎ始める。 「な、なんだこれは!? 冗談だろ!!」 アズキバが絶叫する。ヒトカゲは混乱し、逃げ場を探して影を飛び回るが、空を埋め尽くす少ガンジーたちの拳は、逃げ場をすべて潰していた。 ドカッ! バキッ! ズガァン!! 少ガンジーたちの容赦ない連撃が、オリオン・デビルの巨体を叩き潰していく。再生能力を持つオリオン・デビルだったが、ダメージ量が再生速度を遥かに上回っていた。皮膚が裂け、骨が砕け、巨大な鰭が一本、また一本と千切れていく。 「ガアァァァァ!!」 オリオン・デビルは最期に、残った全魔力を込めて海を巻き上げる暴流渦を発生させたが、降り注ぐガンジーの雨の前では、それはただの水遊びに過ぎなかった。巨体は文字通り、肉塊へと変えられ、海は血の色に染まった。 そして、最後の一撃。核ガンジーが、空中で静かに拳を握りしめた。 「すべてを、無に」 閃光が走った。核爆発に匹敵する衝撃が、海辺のすべてを白く塗りつぶす。ヒトカゲの身体は一瞬で霧散し、アズキバの小豆アイスの刀身は、熱量に耐えきれず一瞬で蒸発した。 紅い月が、満足そうに冷たく微笑んでいた気がした。 静寂が戻った海岸には、もう誰もいなかった。ただ、蒸発した海水が白い塩の結晶となって、血に染まった大地に残っていただけだった。 勝者:ガンジー(概念的勝利) 生存者:なし