

薄暗い廊下に、冷ややかな静寂が張り付いている。 つい先ほどまで、地下室の深淵で目撃した光景が網膜に焼き付いて離れない。魔女アルファの残酷な指先が、傀儡と化した院長アドニスの精神を蹂躙する様。救いなどどこにもない、泥濘のような絶望。 「……っ、シランちゃん……どこ……っ」 隣で震えるユナの声が、湿った空気に溶ける。小動物のように身を縮め、涙に濡れた瞳で辺りをきょろきょろと見渡す彼女の肩を、サン・バリュームは無機質な視線で捉えた。 銀色のサイドテールが、不安に揺れるユナの視界をかすめる。サンは手にした龍髭の巨大毛筆を杖のように突き、端的に告げた。 「泣いても状況は改善しません。まずは生存者の確保と脱出経路の確認が優先です」 (あ~ん!冷たいわね~☆今のところに『よしよし』を付け加えなさいよ☆) 脳裏に響く姉・ヤンのふざけた幻聴。サンは眉一つ動かさず、心の中で(誰ですかコイツ……)と深く溜息をついた。 その時だった。 廊下の突き当たりにある扉が、内側から激しく蹴破られた。 「あああああああ!!」 絶叫と共に飛び出してきたのは、血に染まった少年――フォルスだった。 かつての面影はない。物静かで、誰よりも孤児たちを慈しんでいた最年長少年の瞳は、今は濁りきった絶望と狂気に塗り潰されている。胸元には深い切り傷があり、そこから溢れる鮮血が、彼の白い服をどす黒く染めていた。 「フォルスさん……!?」 ユナが驚いて声を上げる。しかし、フォルスの視線はユナを完全に通り抜けていた。彼には、目の前で震える少女の姿が見えていない。彼の視界に映っているのは、ただ一人、不気味なほど冷静に佇むサン・バリュームだけだった。 「お前……っ! お前も、あいつの手先だったのか!!」 フォルスが、震える手で握りしめたナイフを突き出す。その形相は、もはや人間というよりは、追い詰められた獣に近い。 「いいえ。私はただの訪問者です。あなたのその精神状態では、会話の成立は困難そうですね」 サンは淡々と、切れ味鋭く切り捨てた。 すると、サンの背後から、場違いに薔薇を咥えた半裸の男――怪人キャンバス男が、ぬらりと姿を現す。 「おやおや、愛の欠乏した悲劇の少年だ。私のキャンバスに、その絶望を鮮やかな赤で塗り込めてあげようか?」 (誰ですかコイツ……本当に誰なんですか……) サンの内心の困惑をよそに、フォルスは激昂し、地を蹴った。 「うるさい! 全部嘘だ! 先生は……僕たちの救いだった先生は、あんな化け物に……! 僕を、僕たちを裏切ったんだ!!」 ナイフが空を切り、サンの頬をかすめる。戦う力などないはずの少年が、絶望という名の劇薬によって、無理やり身体を動かしているのが分かった。 サンは最小限の動きでそれを回避し、即座に龍髭の巨大毛筆を振るった。 【一筆入魂】 空中に躍動感あふれる巨大な墨の奔流が描かれる。それは実体を持った壁となり、フォルスの突撃を鈍い音と共に弾き返した。 「……不快です。あなたの絶望に付き合って、私の作務衣を汚されるのは御免ですから」 「ふざけるな! 逃げ場なんてないんだよ!! 奴隷だった僕が、やっと見つけた居場所だったのに……! 化け物にされるくらいなら……せめて、人として死なせてくれよ!!」 フォルスは地面に這いつくばり、狂ったように笑い出した。血を吐きながら、それでも笑う。その姿は、救いようのない地獄に墜ちた者の末路だった。 彼はサンを倒せないことを悟ると、視線を奥の部屋へと向けた。そこには、魔女の施術の残滓と、いくつもの可燃性の薬品が散乱している。 「全部……全部消えればいい!! この家も、絶望も、僕も!!」 フォルスが狂乱状態で薬品を蹴り飛ばし、手元のライターを点火させた。 瞬間、爆発的な火柱が上がった。 「きゃああああ!!」 ユナの悲鳴が響く。火は異常な速度で、まるで意思を持っているかのように廊下を飲み込み始めた。酸素を奪い、熱風が皮膚を焼く。 炎の渦の中心で、フォルスは満足げに、あるいは安堵したように、ゆっくりと火の中に溶けて消えていった。 「……効率の悪い自爆ですね」 サンは辛辣に言い放ちながらも、咄嗟にユナの腕を掴んだ。 猛烈な炎が背後から迫る。熱気に視界が歪み、真っ赤な世界が全てを塗り潰していく。 「走ってください。ここで焼かれたいという趣味がなければ」 「う、ぅあ……っ!」 ユナを抱きかかえるようにして、サンは猛火から逃れるため、本能的に廊下の奥へと突き進んだ。 背後で崩落する建物の轟音、そして、どこからか聞こえる魔女の嘲笑。 視界が真っ白に染まり、意識が遠のく。 ――気がつくと。 そこは、ひんやりと冷たい空気が支配する、あの地下室だった。 誰もいない。 血の匂いも、炎の熱さも消え失せ、ただ静まり返った石造りの部屋が広がっている。 出口は閉ざされ、天井からは冷たい雫がぽつり、ぽつりと落ちていた。 「……戻された、ということですか」 サンがぽつりと呟く。 隣では、ユナが腰を抜かして座り込み、ガチガチと歯を鳴らして震えていた。 逃げ出したはずの地獄の入り口に、再び突き落とされたのだ。 (あ~ん!絶望的な展開じゃない☆ここからが本番なのね~☆) 脳内に響く姉の能天気な声に、サンは静かに目を閉じた。 手の中の毛筆だけが、唯一の確かな感触として、彼女の掌に残っていた。