午後の魔法の庭学園には、雨上がり特有の静けさが漂っていた。 石畳の隙間には透明な水滴が残り、校舎を囲む薬草園では、濡れた葉が淡い光を返している。八百年の歴史を持つ学園は、古びているというより、幾度も手を入れられた名家の屋敷に似ていた。古い塔の隣に新しい研究棟があり、回廊の壁には歴代の学長の肖像画と、学生たちが作った魔具の展示が並んでいる。 その中央棟の最上階に、学園長室はあった。 白髪の老人、ファラダインは窓辺に立ち、背筋をまっすぐ伸ばして庭を見下ろしていた。細められた目元には柔らかな笑みが浮かび、机の上には書類の束と、用途の分からない小さな魔具がいくつも置かれている。 彼が指先で銀色の円盤を軽く叩くと、円盤から小さな光の文字が浮かんだ。 「本日の予定は、講義が三つ、教員会議が一つ、卒業生との面談が二つ。それから、学園の予算について商会の方と話し合い……ふむ」 ファラダインは光の文字を眺め、穏やかに首を傾げた。 「どうして予定表というものは、書き込むほど自由時間が消えるのでしょうね」 「予定表が悪いのではありません。学園長が予定表を信じすぎているのです」 扉の外から、落ち着いた声が返ってきた。 「おや、これは手厳しい」 入室の許可を待って扉を開けたのは、腰まで届く金髪の男性だった。眼鏡の奥の瞳は涼やかで、耳元にはエルフ特有の長い耳がのぞいている。上質な衣服には黄金の装飾品が控えめにあしらわれていたが、どれも派手さより実用性を感じさせた。 ルベルトは手にした箱を一つ、机の端へ置いた。 「ご機嫌よう、ファラダイン学園長。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」 「こちらこそ、遠いところをよくお越しくださいました、ルベルトさん。もっとも、あなたの場合は遠いところがどこか、私には判然としませんが」 「本日は南方の別荘から参りました。その前日は東部の商会におり、明日は北の工房へ移動する予定です」 「なるほど。では、あなたにとって遠いとは、移動距離ではなく、滞在日数のことでしょうか」 ファラダインが微笑むと、ルベルトも口元をわずかに緩めた。 「その定義なら、こちらはかなり遠い場所です。学園には三日ほど滞在したいと考えておりますので」 「三日も? それは大歓迎です。学生たちが聞けば、皆、講義をせがむでしょう」 「私が講義をするのですか?」 「商人の交渉術、資産管理、失敗した発明の処理方法。需要はあると思いますよ」 「最後の項目だけ、妙に具体的ですね」 「私の経験に基づく実学です」 二人は向かい合う椅子に腰を下ろした。ルベルトは眼鏡を指で押し上げ、机の上に置いた箱を開く。中には小瓶が整然と並び、その一つ一つに細かなラベルが貼られていた。 「こちらは先月、学園へ納入した補給品の改良版です。保存性を高め、服用時の苦味を抑えました。学生向けには、苦味を完全に消すより、少し残した方が好ましいという調査結果もあります」 「ほう。苦味を残す理由があるのですか?」 「薬を飲んでいる実感が欲しい、という意見が多かったためです。甘いだけでは菓子と区別がつかない、と」 「学生らしいような、学生らしくないような意見ですね」 「ちなみに教員からは、眠気を覚ます薬の効果をもう少し穏やかにしてほしいとの要望がありました」 「それは私からもお願いします。以前、会議中に目が冴えすぎて、壁時計の歯車一つ一つまで気になってしまいました」 「それは薬のせいというより、学園長の観察力の問題では?」 「なるほど。では次回から、壁時計を外しておきましょう」 「学園の備品を薬の責任にしないでください」 ルベルトの返答は丁重だったが、そこにはわずかな呆れが混じっていた。ファラダインは楽しそうに笑い、箱の中身を眺める。 窓の外では、二人の学生が濡れた庭を走っていた。一人が抱えた紙束を落とし、もう一人が慌てて拾い集めている。ファラダインは立ち上がり、窓に近づいた。 「若いというのは、よいものですね。失敗しても、拾い直す速度が速い」 「拾い直せるよう、紙を一枚ずつ分けておくのも大人の仕事です」 「ルベルトさんは、相変わらず細部まで見ておられる」 「見落としは、たいてい細部から始まりますので」 穏やかな沈黙が落ちた。 かつて二人は、今よりずっと若かった。正確には、ファラダインにとっては長い人生の一時期であり、ルベルトにとっては九百年の記憶の中でも、特に密度の高い時代だった。 魔王を討伐したチーム。その噂を、ファラダインは今でも肯定も否定もしない。ルベルトもまた、過去を大仰に語ることはなかった。ただ、二人の間には、説明する必要のない時間がある。 「学生たちの間で、また妙な噂が広がっていますよ」 ルベルトが言った。 「私たちが九百年前の魔王討伐隊だった、という噂でしょうか」 「よくご存じで」 「学園長室の壁は、耳よりもよく噂を拾いますから」 「それは盗聴では?」 「教育環境の把握です」 「商人の言葉は便利ですね」 「学園長の言葉ほどではありません」 ルベルトは箱から小瓶を一つ取り出し、光に透かした。 「学生たちは、実際に我々が何をしていたのか知りたがっているようです」 「困りましたね。英雄譚として語るには、会計の話が多すぎます」 「会計は重要です。どれほど立派な理想を掲げても、食料と宿泊費がなければ続きません」 「その通りです。私など、当時は研究道具を買いすぎて、何度か食事を抜きました」 「何度か、ではありません。記録上は七回です」 「よく覚えていますね」 「会計係でしたので」 「では、私が忘れていたことまで、あなたは覚えているのですね」 「忘れるべきことと、忘れてはいけないことを分けております」 ルベルトの声音は穏やかだったが、その言葉には年月の重さがあった。 ファラダインはしばらく黙り、机の上の小さな魔具へ手を伸ばした。それは古びた木製の箱に見えたが、側面には新しい合金の板が取り付けられている。彼が蓋を開くと、内部から温かな香りが漂った。 「これは?」 「焼き菓子です。学園長室に長居する方々が、書類だけで胃を満たそうとする傾向があるため、対策として」 「それは私のためですか?」 「主に学園長のためです」 「主に、ということは?」 「私の分も含まれています」 箱の中には、小さな焼き菓子が二列に並んでいた。ファラダインは一つを手に取り、香りを確かめてから口に運ぶ。 「これはおいしい。少し酸味がありますね」 「南方の果実を使っています。日持ちと味の両方を考えました」 「あなたは昔から、食事にまで計算を持ち込みますね」 「計算を持ち込まない食事など、あるのですか?」 「ありますとも。誰かと食卓を囲み、何を話すか決めず、食べ終わってから初めて時間に気づく食事です」 「それは計算できませんね」 「だからこそ、価値があるのですよ」 ルベルトは返事をせず、焼き菓子を一つ取った。 そのとき、扉が軽く叩かれた。返事をすると、若い教員が顔を出す。 「学園長、失礼いたします。研究棟の備品申請について確認を……あ、ルベルト商会長もいらしたのですね」 「ご無沙汰しております。申請書を拝見してもよろしいでしょうか」 「は、はい」 教員が差し出した書類を、ルベルトは一読した。ファラダインも隣から覗き込む。 「新型の観測器具ですか。必要性は理解できますが、数量が少々多いようですね」 「学生が同時に使う授業を予定しておりまして」 「授業計画では十二台。申請は十五台です」 「予備を含めています」 「予備は二台で十分でしょう。一台は修理中の代替として確保し、残りの一台分は消耗品へ回す方がよろしいかと」 「しかし、もし故障が重なれば……」 「故障率の記録を確認しました。過去三年で同時に三台が使えなくなったことはありません。もし不安であれば、商会から簡易型を貸し出せます」 教員は目を輝かせた。 「本当ですか?」 「もちろんです。学園の教育目的であれば、条件を整えた上で無償貸与いたします。ただし、破損時の報告だけは正確にお願いします」 「ありがとうございます!」 教員が頭を下げて出ていくと、ファラダインは感心したように頷いた。 「購入させることもできたでしょうに」 「できます。しかし、必要なものを必要な分だけ行き渡らせる方が、長期的には商会にも学園にも利益があります」 「利益という言葉を、あなたは広い意味で使いますね」 「利益とは金銭だけではありません。信頼、継続、育った人材、技術の蓄積。それらを含めて初めて、商売は長く続きます」 「昔から、あなたはそうでした」 ファラダインの声に、わずかに懐かしさが滲んだ。 「自分だけが得をする取引を、あなたは好まなかった。相手に得があるように見せるのではなく、本当に得をさせようとした」 「それでは商人として甘い、と何度も言われました」 「しかし、あなたは一度も変わりませんでしたね」 「変わりましたよ。以前より、契約書の文字を大きくしました」 「そこですか」 「読みづらい契約は、誠実とは言えませんので」 ファラダインは肩を揺らして笑った。 夕方が近づくにつれ、学園長室には橙色の光が差し込んだ。書類はまだ残っていたが、二人は急いで片づけようとはしなかった。 「三日間の滞在中、何をなさるおつもりですか?」 「商会と学園の共同研究について、教員方と協議いたします。学生向けの小型魔具の開発案もあります。あとは、旧友の様子を確認する予定です」 「旧友というのは、私のことでしょうか」 「ほかに、九百年前から予定表を埋め続けている方をご存じですか?」 「さて。長生きする方は、皆さん似たようなものかもしれません」 「では、明日は講義の後に時間をいただけますか」 「喜んで。庭の奥に新しい温室を作りました。そこでお茶にしましょう」 「また予定表にない予定を追加されるのですね」 「予定表に書かない楽しみも、少しは必要ですから」 ルベルトは窓の外へ目を向けた。雨に濡れた庭の先で、学生たちが灯りをともしている。光は一つ、また一つと増え、古い学園の輪郭を柔らかく浮かび上がらせていた。 「ええ。たまには、そういう時間もよいでしょう」 ファラダインは満足そうに微笑んだ。 「それでは決まりです。明日は、講義と会議とお茶。もし時間が余れば、学生たちの質問にも答えましょう」 「時間が余ることを期待してもよろしいのですか?」 「もちろん。学園長として、時間を作る努力はいたします」 「努力、ですか」 「私は何事にも努力を惜しまない老人ですので」 「存じております。ですが、時には努力せずとも得られるものを、素直に受け取ってください」 その言葉に、ファラダインは少しだけ目を細めた。 「あなたからそう言われるとは、珍しいこともあるものです」 「私も、長く生きておりますから」 二人はしばらく、夕暮れの庭を眺めていた。 かつては世界の命運を背負い、互いの判断に未来を預けた二人だった。今は一人が学園を育て、一人が世界中の商会を動かしている。立場も責任も変わったが、相手の言葉の裏にある意図を読み、読みすぎた時には冗談でほどく関係だけは、少しも変わっていなかった。 やがてルベルトは立ち上がり、机上の箱を閉じた。 「本日はこれで失礼いたします。夕食前に、納入品の確認をしておきたいので」 「商会長自ら確認を?」 「確認を他人に任せることと、責任を他人へ渡すことは別です」 「相変わらず、厳格ですね」 「学園長ほどではありません」 「私は温和な教育者ですよ」 「ええ。だからこそ、学生たちはあなたの小言を喜んで聞くのでしょう」 「小言ではありません。未来への助言です」 「学生たちには、ほぼ同じものとして届いているようですが」 ファラダインは笑いながら、扉までルベルトを見送った。 「では、明日の午後に」 「はい。どうか予定表に、私とのお茶を記入しておいてください」 「忘れるとお思いですか?」 「学園長の予定表は、先ほどから増え続けていますので」 「それなら、最上段に書いておきましょう」 「それは光栄です」 ルベルトが一礼し、廊下へ出ていく。扉が閉まったあとも、ファラダインはしばらくその場に立っていた。 やがて彼は机へ戻り、銀色の円盤に指を触れる。光の文字が浮かび上がり、その最上段に新しい予定が刻まれた。 ――明日、ルベルトと温室で茶を飲む。 ファラダインはその一文を眺め、柔らかな笑みを深めた。 「さて。これは、何より優先すべき予定ですね」 廊下の向こうでは、ルベルトの足音が遠ざかっていく。規則正しく、迷いなく、それでいてどこかゆっくりとした足音だった。 ファラダインから見たルベルトは、計算高く、隙がなく、世界中を動かすほど有能な人物である。それでも根底には、誰かが困らぬよう細部まで気を配る誠実さがある。長い年月を経てもその本質を失わない、信頼できる旧友だった。 一方、ルベルトから見たファラダインは、底知れぬ知識と力を持ちながら、それを誇示せず、学ぶ者の隣に立ち続ける教育者である。気まぐれな冗談と過剰な予定で人を振り回すこともあるが、そのすべての根には、未来を担う者たちへの深い愛情がある。 二人は互いを、変わらぬ友として、そして今なお学び続ける者として見ていた。