紅い月が、夜空の中央で笑っていた。 月光は赤く、地面に転がる瓦礫も、濡れた石畳も、そこに立つ三つの影も、すべて血の色に染めている。風はない。なのに、遠くの建物の窓硝子だけが、誰かの呼吸に合わせるように震えていた。 広場の中央で、ヴォルフガング・アルカディウス・フォン・エルグランデは古剣を肩に担いだ。 「いやあ、いい月だ。こういう夜は剣がよく喋る」 対面するのは、黒いスーツに中折れ帽、そして不自然に口角の上がった笑仮面をつけた男――チェシャ。 そのさらに後方、崩れた時計塔の影には佐崎がいた。 ただし、そこにいる佐崎は影武者だった。 本人は遠くから、赤い月を見上げている。 「勘違いって、恐ろしいですよねぇ」 その声はまだ、誰にも届かなかった。 チェシャが首を傾ける。仮面の笑みは変わらない。 そして、教育番組の司会者のような優しい声で歌い始めた。 「ラーラーラーラー♪」 旋律は陽気なカーニバル調だった。だが、音が広場に満ちるほど、空気の温度が下がっていく。 「おやおや。随分と楽しそうなお歌だ」 ヴォルフガングは笑った。 笑っているが、内心ではすでに相手の立ち位置、足の向き、歌声の反響、視線の癖を拾っていた。 チェシャは正面にいるように見える。しかし、声の反射は一つ多い。右手前の瓦礫の裏、左側の折れた柱の向こう、そして――自分の背後。 「なるほど。暗闇や閉鎖空間から出てくるタイプか。では、空間そのものを材料にするのが礼儀かな」 瞬間、チェシャの姿が消えた。 「みーつけた♪」 背後から牛刀が滑り込む。 ヴォルフガングは振り向かなかった。足元の砕けた石を蹴り上げ、刃の軌道へ放つ。石は牛刀に弾かれ、乾いた音を立てて砕けたが、その一瞬で彼は身を沈めていた。 牛刀が髪を数本だけ切り裂く。 ヴォルフガングの古剣が閃いた。 だが、チェシャはすでにいない。 「逃げ足が速い。いや、逃げているんじゃないな。見えないところへ戻っているだけか」 返事の代わりに、歌声が広場の四方から響いた。 「ラーラーラーラー♪」 暗闇が濃くなる。 紅い月は確かに頭上にあるのに、広場の端から黒い幕が押し寄せ、建物と建物の間を塞いだ。チェシャの歌が空間を閉じ、逃げ道と視界を同時に奪っていく。 ヴォルフガングは目を細めた。 ――面白い。 怖れはなかった。むしろ未知の技に触れた喜びが、胸の奥で熱を持って膨らんでいる。 「閉鎖空間の形成、暗闇への潜伏、反撃後の死角への再出現。いいねえ。ずいぶん几帳面な殺し方だ」 「ほめてくれて、ありがとう♪」 右斜め前。 ヴォルフガングは横へ跳んだ。次の瞬間、牛刀が彼のいた場所を深々と抉る。石畳が割れ、赤い粉塵が舞った。 しかしチェシャの攻撃は一撃で終わらなかった。刀身を返し、肘、脇腹、喉へと続けざまに襲いかかる。人間の関節では説明できない角度だった。腕が伸び、肩が外れ、身体全体が蛇のようにねじれていく。 ヴォルフガングは古剣一本で捌いた。 刃と刃がぶつかるたび、火花が咲く。 「おや、関節が柔らかい。いや、柔らかいというより――壊れても構わないのか」 「こわれるのは、たのしいよ♪」 チェシャの牛刀が古剣を押し込む。 力が異常だった。 ヴォルフガングの足元の石畳が沈む。押し負ければ腹を割られる。だが、彼は歯を見せて笑った。 「では、こちらも壊れたものを使おう」 彼は左足で石畳を踏み抜いた。 砕けた石片が跳ね上がり、牛刀の刃に絡みつく。単なる瓦礫ではない。ヴォルフガングの魔力が石の角度と運動を束ね、即席の小さな魔剣群へと変えていた。 《瓦礫魔剣術・崩星》。 無数の石片がチェシャの手首を弾き、牛刀の軌道を逸らす。 ヴォルフガングの古剣がチェシャの胸を斜めに斬った。 黒いスーツが裂け、肉が開く。 それでもチェシャは笑っていた。 血が噴き出し、仮面の口元を赤く濡らす。 「すごいねえ♪」 「そうだろうとも」 ヴォルフガングは一歩退いた。 その瞬間、チェシャの裂けた胸の奥から、別の牛刀が突き出した。 死角だった。 一瞬前まで正面にあった身体の傷口から、まるでそこが扉だったかのように刃が出現したのだ。 ヴォルフガングは首を反らした。刃は喉を逸れたが、鎖骨から胸元まで深く裂いた。 赤い血が噴き出す。 熱い。痛い。 その痛みが、紅い月の魔力によって奇妙な快楽へ変質していく。もっと速く。もっと強く。もっと際どい場所で、もっと大きな一撃を。 理性が警告する。 ――威力が大きすぎる。 ――街ごと吹き飛ばすな。 ――人間相手に使う技ではない。 しかし、その声は月光の下で弱かった。 ヴォルフガングは血を拭い、嬉しそうに目を輝かせた。 「傷口を出入口にするとはね。いい珍技だ。ならば、その癖ごといただこう」 チェシャが歌う。 「ラーラーラーラー♪」 暗闇が広場を覆い、無数の気配が生まれた。 正面、左右、背後、頭上、足元。 すべてにチェシャがいる。 牛刀が雨のように降り注いだ。 ヴォルフガングは古剣を振り続けた。剣筋で刃を逸らし、柄で叩き、肩を滑らせ、瓦礫を蹴って足場を変える。ひとつひとつの動作に軽口を挟みながらも、彼の瞳は冷静に相手の構造を読み解いていた。 「影は三つ。声は五つ。実体はひとつ――いや、違う。実体をひとつに絞っているんじゃない。攻撃の瞬間だけ、どこにでも実体を移している!」 牛刀が頬を裂く。 「おっと、訂正! 攻撃の瞬間にだけ“死角”が実体になるのか!」 別の刃が背中を裂く。 「実に性格が悪い!」 さらに一撃。 ヴォルフガングは古剣で受けた。だが剣が軋む。古剣の刀身に無数の亀裂が走った。 チェシャはその隙を逃さない。 背後に現れた牛刀が、ヴォルフガングの右脇腹へ突き込まれる。 刃が肉を貫いた。 ヴォルフガングの笑みが一瞬だけ消える。 痛みではない。 このままでは押し切られるという、純粋な危機感だった。 チェシャは刃をねじった。 「みーつけた♪」 血がさらに溢れる。 だが、その瞬間ヴォルフガングは笑った。 「見つけたのは、こちらだ」 彼は自分の傷口から流れた血を、古剣の亀裂へ塗り込んだ。 紅い月光を浴びた血は、魔力を帯びていた。古剣の亀裂が赤く輝く。 《血錆魔剣術・逆月》。 刀身が砕けた。 チェシャの目の前で、古剣は無数の赤い刃片へ変わった。刃片は彼の身体へ突き刺さり、牛刀を握る腕、肩、喉、膝を縫い止める。 チェシャの身体が初めて止まった。 「あはは……これは、いたいねえ♪」 「痛いのに笑えるとは、たいしたものだ」 ヴォルフガングは息を荒げながらも、楽しげだった。 しかし、チェシャの胸の傷と同じように、無数の刃片が刺さった場所が黒く開いていく。 その穴の中から、巨大な牛刀が出現した。 「でも、きみも見つけたよ♪」 刃が振り下ろされる。 ヴォルフガングは跳べなかった。脇腹の傷が深く、右足が動かない。 咄嗟に、彼は周囲の暗闇を掴んだ。 暗闇は物質ではない。だが、この夜には魔力が満ちている。紅い月は本能も魔力も増幅していた。 ならば、闇さえ材料になる。 ヴォルフガングは左手を伸ばし、牛刀の影を掴んだ。 「火事場の悪知恵ってやつを、お見せしよう」 影が刃へ絡みつき、軌道をわずかに逸らす。 巨大な牛刀は彼の肩を切り落とした。 肉が裂け、骨が断たれ、腕が地面に落ちる。 それでもヴォルフガングは倒れなかった。 紅い月の下、血を噴きながら、彼は笑った。 「腕一本で済んだ。安い買い物だね」 チェシャは首を傾けた。 「まだ、たのしい?」 「ああ。君の技は実に珍しい」 ヴォルフガングの目から、先ほどまでの軽薄な光が少しずつ消えた。 彼は落ちた右腕を見なかった。古剣の残骸も見なかった。チェシャの胸の傷、無数の出現点、暗闇の密度、牛刀が現れる瞬間の空気の歪みだけを見ていた。 「だが、君にもルールがある」 チェシャの笑仮面が、月光を受けて歪んだように見えた。 「ルール? そんなのないよ♪」 「いいや。ある。殺す前に必ず“見つけた”と言う。攻撃は相手の死角から。出現場所は、閉じた闇か、傷口か、遮蔽物の裏。つまり――君は完全に自由じゃない」 チェシャが姿を消す。 「みーつけた♪」 背後。 ヴォルフガングは振り返らなかった。 代わりに、左手で地面を叩いた。 広場に落ちた血、砕けた石、チェシャの裂けたスーツの布、そして影。すべてが赤黒い魔力の線で結ばれる。 《即興魔剣術・紅月迷宮》。 広場全体が剣の材料になった。 石畳から刃が生え、建物の壁面から細い剣が突き出し、瓦礫の影が刃の檻へ変わる。暗闇へ逃げようとしたチェシャの出現点が、片端から剣で塞がれていく。 「死角が必要なら、死角を全部剣にすればいい」 チェシャが現れた。 だが、そこにはすでに刃があった。 胸を貫かれ、肩を裂かれ、両足を切り裂かれる。 それでもチェシャは笑った。 「いたいなあ♪ でも、きみもそこにいるね♪」 牛刀がヴォルフガングの腹へ突き刺さる。 一撃ではない。刃が何度も現れ、消え、別の角度から身体を貫いていく。肩、太腿、脇腹、背中。ヴォルフガングの身体が血に染まる。 チェシャは損傷を受けながらも、まるで遊戯の最中の子供のように愉快そうだった。 ヴォルフガングは膝をついた。 視界が赤い。 紅い月の色なのか、自分の血なのか、もう区別がつかない。 勝つための手段は残り少ない。 まともに斬れば、チェシャは避ける。 死角を作れば、そこから現れる。 暗闇を閉じれば、その暗闇を利用される。 ならば、暗闇を消す。 ヴォルフガングは紅い月を見上げた。 「ああ……そうか」 火事場の悪知恵が、最後の閃きを生む。 「君が暗闇から現れるなら、暗闇のない場所ではどうする?」 彼は残った左手を空へ向けた。 広場中の魔力が一点へ集まる。紅い月光、炎のような魔力、石畳の熱、チェシャの血、ヴォルフガング自身の生命力。すべてが一本の巨大な魔剣の形へ圧縮されていく。 夜空に、赤い光の剣が生まれた。 チェシャが初めて後ずさった。 「それは、ずるいねえ♪」 「戦いにずるいも何もない。今日は殺し合うのにちょうどいい夜なんだろう?」 ヴォルフガングは笑った。 そして、残った左手で剣を握った。 巨大な魔剣が振り下ろされる。 紅い月光が爆発した。 広場の暗闇が消し飛ぶ。建物の影も、瓦礫の陰も、チェシャの潜伏場所も、すべてが白熱した赤い光に焼かれた。 チェシャは逃げようとした。 だが、逃げ場がない。 死角がない。 出現できる闇がない。 彼の身体に開いていた傷口も、紅い光によって焼け、出口として機能しなくなる。 「ラーラーラーラー……♪」 歌声がかすれた。 ヴォルフガングは一歩踏み出す。 「いい歌だったよ」 巨大な魔剣が横薙ぎに走る。 チェシャの身体が斜めに断ち切られた。 仮面が割れ、黒いスーツが裂け、血が赤い光の中へ散る。それでも彼の口元には笑みが残っていた。 「みーつけ……た……」 言葉は最後まで続かなかった。 身体が崩れ、地面へ落ちる。 ヴォルフガングは魔剣を消した。 荒い呼吸を繰り返しながら、彼はチェシャの遺体を見下ろした。 「君の珍技、実に堪能した。だが、次はもう少し長く遊びたかったな」 チェシャは動かない。 その胸元には、血で刻まれた大きなCが残されていた。 それが彼自身の最後の署名だった。 だが、戦いは終わっていなかった。 時計塔の影から、声がした。 「勘違いって、恐ろしいですよねぇ」 ヴォルフガングが振り向く。 そこには佐崎が立っていた。 いや、正確には、今まで戦っていた佐崎は影武者だった。倒された影武者の姿が、遠くで灰のように崩れていく。 ヴォルフガングは目を細めた。 「なるほど。最初から本人ではなかったか」 「私がいつやられたと言いましたか?」 佐崎の背後に、巨大な人影が現れる。 黄金の甲冑。無数の宝具。冷たい王の眼差し。 ギルガメッシュ。 その手から放たれた天の鎖が、赤い夜を裂いて飛来した。 ヴォルフガングは反応した。 しかし、チェシャとの戦闘で傷つきすぎていた。右腕は失われ、腹部と背中には深い傷があり、左脚もほとんど感覚がない。 それでも古剣があれば、まだ―― そう考えた瞬間、彼は気づいた。 古剣はもう砕けている。 魔剣は消えている。 周囲の瓦礫も、血も、魔力も、先ほどの大技でほとんど使い切った。 天の鎖が両腕と胴を拘束する。 鎖は力を奪った。魔力を封じ、筋力を削り、身体を地面へ縫い止める。 ヴォルフガングはなおも笑おうとした。 「これは……なかなか珍しい拘束術だ」 しかし声に、初めて余裕がなかった。 佐崎は穏やかに言った。 「あなたの設定を、少し弄らせてもらいます」 紅い月が、雲の向こうへ隠れた。 その瞬間、ヴォルフガングの身体から何かが抜け落ちた。 魔力が消えた。 剣技が消えた。 即興の発想も、危機をひっくり返す悪知恵も、彼の設定に刻まれていたあらゆる能力が、最初から存在しなかったことに書き換えられていく。 彼はただの負傷した人間になった。 「……なるほど。そういう仕組みか」 理解してしまったことが、彼にとって最後の慰めだった。 佐崎は彼の前へ歩み寄った。 「一般人になってしまえば、もう抵抗できませんねぇ」 天の鎖が締まる。 ヴォルフガングの骨が軋む。 それでも彼は目を逸らさなかった。 チェシャとの戦いの興奮も、珍技を見抜いた喜びも、紅い月に煽られた殺意も、すでに薄れていた。 残ったのは、最後まで剣士として立とうとする意地だけだった。 「君は……戦わないのか」 「戦いましたよ。影武者が」 佐崎は微笑んだ。 「私は最初から、勝つ方法を持っていただけです」 そして、刃が振るわれた。 ヴォルフガングの左腕が落ちる。 次に右脚。 最後に残った脚も、容赦なく切断された。 彼は鎖に吊られ、血を流しながら、なお意識を保っていた。 痛みが遅れて押し寄せる。 自分の身体が、剣を握るための形を失っていく。 それでも、最後に彼は笑った。 「……いい夜だった」 佐崎は少しだけ首を傾ける。 「ええ。そうですねぇ」 彼は懐から黒い銃を取り出した。 存在消失銃。 銃口がヴォルフガングへ向けられる。 「おやすみなさい」 引き金が引かれた。 音はなかった。 ただ、ヴォルフガングの輪郭が崩れた。 血も、肉も、記憶も、名も、彼がそこにいたという事実そのものが、赤い月の光から切り取られていく。 最後に消えたのは、彼の笑顔だった。 「……無影……納刀……」 それは本来、彼が終盤に使う最後の技の名だった。 しかし、抜剣も納刀も起こらなかった。 ただ一拍遅れて、何もない空間を斬閃だけが走った。 それは誰を斬ったのか。 何を斬ったのか。 答えは残らない。 佐崎は銃を下ろし、崩れた広場を見渡した。 チェシャの遺体だけが残っている。 その仮面には、まだ笑みがあった。 佐崎はそれを見て、静かに呟いた。 「勘違いって、本当に恐ろしいですよねぇ」 紅い月が雲間から戻る。 広場には、二人の敗者と、一人の勝者がいた。 チェシャ――死亡。 ヴォルフガング――存在消失。 勝者――佐崎。 そして赤い月は、まるでその結末を祝うように、夜空で嗤い続けていた。