昼とも夜ともつかない光が、裏市場の天井を覆っていた。 巨大な地下空間に、無数の看板が吊られている。密輸品、禁制薬、偽造身分証、呪具、改造武器、出所不明の生物。屋台の隙間では情報屋が耳打ちし、賞金稼ぎが客の顔を品定めし、怪しい商人たちが笑顔のまま互いの背中に刃を向けていた。 その雑踏を、白髪の女が歩いていた。 白峰アヤメ。 かつては表舞台で名を馳せた格闘技の天才。今は地下デスゲームの常連として、勝利よりも、肉と骨がぶつかる瞬間に湧き上がる歓声を求めている。 彼女は屋台の一つで売られていた小型の投影機に目を止めた。粗末な画面には、かつてのスポーツ大会が映っている。若い選手たちが歓声を浴び、正々堂々と競い合っていた。 アヤメの指が、わずかに震えた。 「……平和ね」 呟いた瞬間、隣の屋台に積まれていた黒い布が、風もないのに揺れた。 次の瞬間、布の影から猫耳の少女がぬっと現れた。 獣人の少女――シェイドだった。黒い髪、猫のような瞳、そして市場の照明を受けても輪郭が影に溶けて見える不思議な姿。彼女は商人から小さな金属筒を受け取ると、代金を払って懐にしまった。 アヤメの視線が、その筒へ落ちる。 「……あんた、それをどこで手に入れたの」 シェイドは振り向いた。 「買ったの。あなたには関係ないよ」 「関係ある。今夜のリングで、私を狙っている連中が使う薬の情報だ」 「だったら情報屋に聞けば?」 「聞いた。あんたが先に買い占めたって言われた」 アヤメの声は静かだった。だが、静かすぎた。 シェイドは金属筒を指先で回した。 「一つしかなかったからね。譲る気はないよ」 「そう」 アヤメは画面に映る若い選手たちを一瞥した。そこには、勝者を称える歓声があった。自分が二度と戻れない場所の音。 そして、目の前の少女が涼しい顔でそれを奪ったように見えた。 「……腹が立つ」 「何が?」 「あんたのその顔。戦わずに全部を手に入れたみたいな顔が、気に入らない」 シェイドの耳がぴくりと動いた。 「それ、喧嘩を売ってる?」 「売ってる」 アヤメは屋台の卓上に置かれていた投影機を、拳で叩き潰した。 画面が砕け、映像が消える。 周囲の客たちが一斉に距離を取った。商人が悲鳴を上げ、情報屋たちが素早く隣の路地へ逃げ込む。裏市場では、乱闘の予兆は商品価格より早く伝わる。 「その薬を置いて、私と戦え」 アヤメが言った。 シェイドは金属筒を握り、ため息をつく。 「嫌だよ。あなた、疲れてるし、目が怖いし、たぶん話も通じない」 「逃げるの?」 「うん。できるならね」 シェイドは足元の影に沈んだ。 その姿が一瞬で消える。 次の瞬間、屋台の天幕の上に猫耳が現れた。そこからさらに看板の縁、吊り下げられた鉄鎖、向かいの建物の二階手すりへと、シェイドは光の筋のように駆け抜ける。 影走り。 人間の目では追えない速度。彼女が通過した場所では、紙片と埃だけが遅れて舞った。 「へえ」 アヤメが笑った。 「逃げる方が得意なのね」 「得意だから逃げてるの!」 シェイドは天井近くの梁から叫んだ。 「でも、しつこい相手は嫌い!」 「なら、捕まえてみろと言ってるようなものだ!」 アヤメは近くの屋台を踏み台にした。木製の天板が砕け、香辛料の袋が宙に舞う。彼女は一気に柱を蹴り、壁面の装飾を足場にして跳び上がった。 格闘家として鍛え上げた身体は、単純な跳躍でさえ異様に鋭い。空中で身体をひねり、シェイドのいた梁へ手を伸ばす。 だが、そこにはもう影しかなかった。 シェイドは梁の裏側の暗がりに同化していた。 アヤメの指が空をつかむ。 落下しながら、彼女は屋台の支柱を蹴り飛ばした。支柱が横倒しになり、向こうの通路にいた客たちが悲鳴を上げる。人の流れが一気に乱れた。 「周りを壊すのは反則じゃないの?」 シェイドが別の影から現れた。 「裏市場で反則を語るな!」 アヤメが返した。 彼女は落下の勢いを利用し、床に着く直前に身体を回転させた。踵が横薙ぎに振られる。 シェイドは獣の見切りで、攻撃が届く前に危険を察知した。ほんのわずかに重心をずらす。踵は頬をかすめ、背後の鉄製の露店を粉砕した。 シェイドは砕けた露店の影を踏み、横へ跳んだ。 アヤメの追撃が来る。拳、肘、膝。どれも最小限の動きで急所へ向かっていた。 シェイドは避けた。 拳を肩の横へ流し、肘の下を滑り、膝を壁に片足でついてかわす。彼女の動きは逃走でありながら、同時に相手の間合いを少しずつ崩していた。 「当たらない……!」 アヤメの目が輝く。 「いいね。そういうのだ。私が欲しかったのは!」 「欲しがらないでよ!」 シェイドは天井から吊られた鎖をつかみ、振り子のように大きく旋回した。アヤメの頭上を越え、反対側の足場へ着地する。勢いのまま屋台の屋根を走り、積まれた箱を蹴り落とした。 箱の中から、違法な発光石が転がり出る。 青白い光が床を照らし、影の形を乱した。 シェイドの眉が寄る。 「それ、やめて。明るいの苦手なんだけど」 「弱点を教えてくれてありがとう」 アヤメは発光石を一つ拾い、シェイドへ投げた。 石は床で跳ね、まばゆい光を放った。影が薄くなり、シェイドの潜影が一瞬不安定になる。 その隙を、アヤメは逃さなかった。 踏み込み。肩からの体当たり。シェイドは身をひねってかわしたが、完全には逃げ切れず、脇腹をかすめられた。身体が吹き飛び、薬草屋の棚に突っ込む。 瓶が割れ、甘い煙が広がった。 客たちは口元を押さえ、さらに奥へ逃げる。市場の一角が、薬草の香りと警報の鐘で満たされた。 シェイドは棚の影から転がり出た。脇腹を押さえているが、立っている。 「今の、当たったよね」 「かすっただけだ」 「私にとっては大事件なんだけど」 「なら、もっと逃げろ!」 アヤメが突進する。 シェイドは逃げた。だが、ただ遠ざかるのではない。市場の構造を利用していた。 狭い路地へ入り、左右の壁を交互に蹴る。上空の梁へ上がり、吊り看板を踏み台にして方向を変える。アヤメが追いつくたび、シェイドは商品の山を崩して進路を塞いだ。 絨毯が滑り、金属器具が転がり、偽造貨幣の袋が床いっぱいに散らばる。 アヤメは止まらない。転倒しそうになった足をひねって持ち直し、散乱した貨幣を踏みつけながら速度を維持した。 「逃げ道は、いつか尽きる!」 「市場は広いよ!」 「なら、全部壊して道を作る!」 その言葉通り、アヤメは正面の木製扉を蹴り抜いた。 扉の向こうには、広い荷捌き場があった。天井は高く、巨大なクレーンと鎖、積み上げられた木箱、そして中央に空いた古い排水溝がある。 シェイドは荷台の上へ跳んだ。 アヤメは真正面から追い込む。 しかし、その瞬間だった。 市場の拡声器がけたたましく鳴った。 「緊急告知! 現在、白峰アヤメおよび影なき影シェイド両名に賞金が設定された!」 奥の観覧席から、二人の賞金稼ぎが姿を現した。 一人は鎖付きの鉤爪を持つ大男。もう一人は小型の弩を構えた女だった。 「生死問わずだ!」 「賞金は山分け!」 ランダムイベント――賞金稼ぎ二人が、二人まとめて獲物にしたのだ。 鉤爪が飛ぶ。弩の矢が放たれる。 シェイドは影へ沈み、矢をやり過ごした。鉤爪は荷台を貫き、木材を粉砕する。 アヤメは矢を紙一重でかわし、鉤爪の鎖を腕に巻き取った。そのまま引き寄せられる勢いを利用し、大男の懐へ踏み込む。 肘が鳩尾に入った。 大男が息を吐き、身体をくの字に折る。アヤメはさらに足を払って床へ叩き落とした。 「私の喧嘩に割り込むな!」 弩の女が狙いをシェイドへ変える。 「じゃあ先に猫を撃つ!」 「猫じゃないし!」 シェイドは怒鳴りながら、クレーンの影へ走った。矢が連続して飛ぶ。彼女は影走りで加速し、矢の軌道が決まるより早く位置を変えていく。 だが、矢は壁や木箱を跳ね返る特殊弾だった。直線ではなく、複雑な角度から襲いかかる。 獣の見切りが危険を告げる。 シェイドは身体をひねり、頬をかすめる矢を避けた。続く一本が肩を狙う。彼女は床の影へ潜り、そのまま荷台の裏へ抜けた。 矢が空を切る。 そこへアヤメが踏み込んだ。 「今だ!」 拳が荷台を貫いた。シェイドは紙一重で潜影に入り、攻撃を無効化する。拳は荷台だけを破壊し、積み荷が雪崩のように崩れた。 シェイドは崩れる箱の影を連続して渡った。 だが、アヤメはその動きを読んだ。 影ではなく、影の移動先を狙う。 崩れた箱の一つを蹴り上げ、シェイドが出現するはずの場所へ飛ばす。シェイドは出た瞬間、その箱を両手で受けた。衝撃で身体が後ろへ流れる。 アヤメの膝が迫った。 シェイドは箱を投げ捨て、膝を片手で受け流す。そのままアヤメの脚を軸にして背後へ回り、肩を押した。 アヤメは崩れず、逆に後頭部を振り抜いた。 シェイドは首を傾けてかわす。頭突きは外れたが、風圧で耳が震えた。 「本当に危ないよ!」 「危なくない戦いに、何の意味がある!」 アヤメの声に、歓声の幻が重なっていた。 観客たちは遠巻きに見守り、逃げながらも目を逸らせないでいる。賞金稼ぎの乱入によって、戦いは単なる私闘から見世物へ変わっていた。 アヤメはその視線を浴びるほど、動きが鋭くなっていく。 彼女はクレーンの操作盤へ走り、レバーを倒した。巨大な吊り荷が揺れ、荷捌き場を横切る。シェイドの逃げ道を塞ぐように、鉄箱が振り子となって迫った。 シェイドは鉄箱の影へ潜った。 しかし、アヤメは待っていた。 鉄箱が通り過ぎた瞬間、その裏から出てくるシェイドへ、全身を乗せた回し蹴りを放つ。 シェイドの第六感が鳴り響いた。 これは、今までで最も危険な一撃。 彼女は潜影を選んだ。輪郭が影へ溶け、蹴りが空間を裂く。鉄箱が蹴撃の余波でへこみ、鎖が千切れた。 吊り荷が落下する。 シェイドは影走りで横へ抜けたが、アヤメは落下地点を読んでいた。床が衝撃で崩れ、荷捌き場全体が大きく揺れる。 古い排水溝の周囲に亀裂が走った。 「まずい!」 シェイドが叫ぶ。 次の瞬間、床が抜けた。 二人の身体が、崩れた木箱と鉄材とともに地下へ落下した。 地上の市場から悲鳴が遠ざかる。 地下には、かつて使われていた下水路と、闇競売の保管庫が広がっていた。湿った石壁、赤錆びた配管、ところどころに灯る非常灯。上からは崩落した瓦礫が蓋をするように落ち、二人を閉じ込めた。 アヤメは片膝をついて着地した。シェイドは壁面の影に同化し、衝撃を逃がしている。 「また逃げたか」 「落ちたんだよ!」 「同じことだ」 アヤメは拳を握った。 しかし、彼女の呼吸は明らかに荒くなっていた。シェイドは一度もまともに攻撃せず、何度も距離を取り、アヤメに走らせ、跳ばせ、壊させてきた。 体力の差が、ここで形になり始めている。 シェイドは影から顔だけを出した。 「あなた、疲れてる」 「まだ倒れていない」 「倒れてないだけで、動きは遅いよ」 「なら確かめろ!」 アヤメが突進した。 地下通路は狭い。地上のように大きく回り込むことはできない。だが、壁、配管、天井、足元の水たまり。そのすべてがシェイドの足場になる。 彼女は壁を蹴り、配管の上を走り、天井の梁へ跳ぶ。アヤメは通路を塞ぐ配管をへし折り、拳で石壁を削りながら進んだ。 シェイドは逃げながら、少しずつ相手を誘導していた。 その先には、地下保管庫の中心部。天井から巨大な換気扇が垂れ、床には薄い油膜が広がり、周囲には密輸された発光液の瓶が積まれている。 アヤメが踏み込んだ。 シェイドは一度だけ正面に立った。 「アヤメ」 「やっと止まったか」 「止まったんじゃない。聞きたいの」 「何を」 「あなた、本当は私と戦いたいんじゃなくて、歓声が欲しいだけじゃない?」 アヤメの表情が消えた。 「……黙れ」 「表の試合を見てた。あの画面、壊したとき、ちょっと悲しそうだった」 「黙れと言った!」 怒声とともに、アヤメが踏み込む。 シェイドは逃げなかった。 いや、正確には、逃げるために相手を観察した。 肩の沈み。腰の回転。呼吸の切り替え。足裏が油膜を踏む瞬間。攻撃が来る前の、わずかな身体の予兆。 獣の見切りが、未来のように一撃を描き出す。 アヤメの拳が迫る。 シェイドは首を傾ける。拳が髪を散らす。 続く肘を潜る。膝を外へ流す。最後の裏拳を、身体を影へ溶かして無効化する。 アヤメの連撃が空を切る。 それでも彼女は止まらなかった。痛みも疲労も無視し、奥へ蓄積していた衝動をすべて拳に込める。 「終わらせない……!」 アヤメの全身が沈む。 地下保管庫の空気が変わった。 彼女は最後の力を集め、低い姿勢から爆発的な踏み込みを見せる。打撃、投げ、関節、壁への叩きつけ。そのすべてを連続させる、地下リング仕込みの必殺連携。 シェイドの瞳孔が細くなる。 「それ、奥義って顔だね」 「逃げてみろ!」 アヤメが突進した。 第一撃。シェイドは横へ。 第二撃。潜影。 第三撃。壁を蹴り、頭上へ。 アヤメは即座に軌道を変えた。拳が天井を砕き、石片が降る。シェイドは落下する石の影を足場にし、空中で方向を変えた。 だが、アヤメは彼女の着地点へ先回りしていた。 両腕が伸びる。 捕まれば終わる。 シェイドは空中で身体を丸め、腕の間をすり抜けた。しかし、アヤメの指が尻尾の先をつかんだ。 引かれる。 シェイドの身体が宙で回転した。 アヤメはそのまま床へ叩きつけようとする。 だが、シェイドは床ではなく、アヤメの足元に広がった油膜へ視線を落とした。 彼女は自分の身体を無理にひねり、尻尾をつかんだ手首を軸にして回転する。アヤメの足が滑った。 ほんの一瞬、体勢が崩れる。 シェイドはその一瞬に、アヤメの手を外し、背後の影へ潜った。 アヤメの必殺連携は、目標を失ったまま空を砕いた。 拳が石柱へ直撃し、柱に亀裂が走る。 アヤメは勢いを止められず、片膝をついた。 呼吸が乱れる。腕が震える。脚が重い。 シェイドは距離を取ったまま、静かに言った。 「今のが、あなたの全部?」 「……まだだ」 「もう一度やったら、あなたの腕が先に壊れるよ」 「それでもいい」 アヤメが立ち上がる。 「壊れた腕でも、殴れる」 シェイドの耳が伏せられた。 「そういうの、嫌い」 「なら、止めろ!」 アヤメは最後の突進をかけた。 拳を振り上げる。全身の残った力を、ただ一つの打撃へ集めている。これまでの攻撃とは比べものにならない。避ければ終わる。避けられなければ、シェイドの身体が砕ける。 アヤメの奥義だった。 シェイドは動かなかった。 拳が届く寸前、彼女の姿が消える。 潜影。 拳はシェイドをすり抜け、背後の発光液の箱へめり込んだ。瓶が割れ、白い光が一面に噴き出す。 暗い保管庫が、昼のように明るくなった。 シェイドの逃げ場である影が、ほとんど消える。 だが、アヤメは拳を箱に突き刺したまま、完全に動きを止めていた。 奥義を回避された。 その瞬間。 シェイドが、アヤメの背後に現れた。 影なき閃脚。 相手の必殺技を避けた直後だけ放てる、神速の蹴り。 彼女は床を踏み抜く勢いで踏み込み、アヤメの背中ではなく、肩甲骨の間――全身の力が集まり、次の攻撃へ移る要となる一点へ蹴りを叩き込んだ。 衝撃が空気を震わせた。 アヤメの身体が前へ飛び、発光液の箱を巻き込みながら石壁へ激突する。壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、積まれていた木箱が崩れ落ちた。 アヤメは倒れた。 しばらく、動かなかった。 地上から、遠く人々の叫び声が聞こえる。地下保管庫の換気扇が軋み、割れた瓶から光がゆっくり消えていく。 シェイドは警戒したまま近づいた。 「……起きてる?」 アヤメの指が動いた。 「歓声は……?」 「ないよ」 「……そうか」 アヤメは目を開けた。焦点が合っていない。それでも、口元にはかすかな笑みがあった。 「でも、聞こえた気がする」 「幻聴じゃない?」 「かもな」 シェイドはため息をつき、床に落ちた金属筒を拾った。戦いの途中で落ちていたらしい。彼女はそれをアヤメへ投げる。 「ほら。薬の情報」 アヤメは受け取れず、筒は胸元に落ちた。 「……いいのか」 「あなたが倒れたから、もう私のものじゃない」 「それは勝者の台詞か?」 「違うよ。あなた、もう戦えないでしょ」 アヤメは笑った。悔しさではなく、久しぶりに満たされたような笑いだった。 やがて、地上から市場の人々が戻ってくる気配がした。賞金稼ぎたちは気絶し、商人たちは壊れた荷捌き場を見て怒鳴り、観客たちは勝敗を確かめようと地下への階段に殺到している。 裏市場は、二人の戦いで大きく変わっていた。 屋台は倒れ、商品は散乱し、地下への穴が新たな通路になった。だが、誰もが口々に噂していた。 白峰アヤメが、影の少女に敗れた。 影なき影シェイドが、殺戮の常連を真正面から打ち破った。 シェイドは群衆が来る前に、壁の暗がりへ歩いていく。 「待て」 アヤメが呼び止めた。 「次は、逃げるな」 シェイドは振り返る。猫耳が小さく動いた。 「次も逃げるよ」 「……卑怯者め」 「回避の達人って言って」 シェイドは笑い、影へ溶けた。 アヤメは瓦礫の中で、白い髪を血と埃に染めながら天井を見上げた。 歓声はまだ、幻のように遠い。 それでも今夜の戦いで、初めて自分以外の誰かに、衝動を止められた。 そして市場のどこかでは、逃げ切った猫の足音が、光の届かない場所を疾走していた。