薄暗い廃ビルの一室に、埃っぽい夕陽が斜めに差し込んでいた。割れた窓ガラスの向こうでは、遠くの車の音が途切れ途切れに聞こえてくる。 不良グループの溜まり場として使われているこの部屋には、古びたソファと折り畳み式のテーブルが置かれていた。その隅で、コーノスケ・アマダは膝を抱えて座り込んでいた。痩せた身体に羽織ったコートは少し大きすぎて、伸びきった金髪が額に垂れている。虚ろな黒い瞳は、床の一点をじっと見つめていた。 「……また、あの声か」 誰にも聞こえないような小さな声で呟く。頭の奥に、古い言葉の列が流れ込んでくる。読んだことも聞いたこともない、けれど確かに知っているような文章。それを口にしてしまえば、何かが起きてしまう。それがわかっているのに、唇は勝手に動きそうになる。 「ああ、大丈夫、大丈夫だ」 自分に言い聞かせるように、彼は繰り返した。 そこへ、ドアが軽く蹴り開けられる音がした。 「よう、コーノスケ。まーた一人で辛気臭い顔してんのか」 入ってきたのはリュート・オーチだった。屈強な肉体を黒ジャケットに包み、流した黒髪を指で払いながら、碧い瞳で部屋を見回す。両手には紙袋を抱えていた。 「ほら、差し入れ。コンビニの肉まんだ。冷めちまったけどな」 リュートは紙袋をテーブルに置くと、ためらいなくコーノスケの隣にどっかと腰を下ろした。ソファが大きく沈む。コーノスケは身じろぎしたが、逃げることはしなかった。 「……リュート。俺なんかに構うなよ。どうせ、お前らにも迷惑をかける」 「なぁに、気にすんなよ。長生きしねえぞ、そんな考え方してたら」 軽い調子で言いながら、リュートは肉まんを一つ取り出してコーノスケの膝に乗せた。コーノスケは戸惑ったように、それを見下ろす。 「……俺は、おかしいんだ」 絞り出すような声だった。 「時々、急に全部が恐ろしくなる。自分が何をしてるのかわからなくなる。それで、自分を責めることしかできなくなる。……お前たちの役に立ててる気がしない」 「ふうん」 リュートは肉まんを頬張りながら、特に驚いた様子もなく相槌を打った。 「で、誰かに監視されてる気がする、って話もしてたよな。最近」 「……ああ。誰かが、ずっと見てる。部屋の外からでも、夜の窓からでも。気のせいだって言われても、消えないんだ」 「なるほどな」 リュートはそこで初めて表情を引き締めた。碧い瞳が、どこか遠くを見るように細められる。彼は頭の中で、いくつもの可能性を並べていた。語学の本で読んだ古い文献のこと。心理学の授業で聞いた、不安が過剰な知覚を生むという話。そして、この街に流れる妙な噂。 「お前が言ってる『声』ってやつ、どんな内容なんだ?」 「……言えない。口に出したら、本当になってしまう気がする。それに、最後まで読んではいけないって、それだけはわかるんだ」 「読み進めちまうんだろ? 止められないのか」 「止めようとしてる。でも、気づくと……口が動いてる」 俯いたコーノスケの肩が小さく震えていた。リュートは一度だけ、その背中を軽く小突いた。力は加減されていたが、確かな温度があった。 「なら、俺が聞いといてやるよ。お前が変なこと口走りそうになったら、すぐ止めてやる。俺の力、知ってるだろ? 手元に引き寄せて、距離を無くすやつ。どんなに遠くにあるもんでも、ぱっと俺んとこに持ってこられる」 「……ゼロ・ディスタンス、だったか」 「そうそう。便利だぜ、いろいろ」 リュートはにやりと笑った。 「要はな、ひとりで抱え込むなってことだ。お前の不安も、その妙な声も、全部まとめて俺らの前に出しちまえ。どうにかできるかどうかは、そっから考えりゃいい」 沈黙が落ちた。遠くで、どこかの扉が閉まる音がする。 コーノスケは膝の上の肉まんを、そっと両手で包んだ。まだ微かに温かい。 「……リュート」 「おう」 「ありがとう。……でも、本当に、俺のそばにいると危ないかもしれない」 「そんときはそんときだ。俺は頑丈だからな。お前が心配することじゃねえよ」 豪快に笑って、リュートは立ち上がった。そして、ふと窓の外へ視線を向ける。夕闇が濃くなりつつある街並みの向こう、ビルの屋上あたりに、何かがちらりと動いた気がした。 気のせいか、それとも。 彼は何も言わず、視線を部屋の中へ戻した。コーノスケはまだ、肉まんを抱えたまま俯いている。その横顔には、ほんの少しだけ、張り詰めていたものが和らいだ色が浮かんでいた。 「さて、冷めちまう前に食おうぜ。お前、ちゃんと飯食ってんのか? そんな細っこいと、風で飛ばされちまうぞ」 「……余計なお世話だ」 小さく返したその声は、かすかに笑いを含んでいた。窓の外では、夜が静かに街を覆い始めていた。 ―――――― 【コーノスケ・アマダから見たリュート・オーチ】 豪快で、なのに人の弱いところに気づいてしまう男だ。俺のような厄介者を見捨てず、軽口を叩きながらも真っ直ぐに向き合ってくれる。正直、眩しくて、少し怖い。だが、彼の隣にいると、ほんの少しだけ自分を責める声が遠のく気がする。 【リュート・オーチから見たコーノスケ・アマダ】 危なっかしくて放っておけないやつだ。自分を責めすぎて、勝手に潰れていきそうで見ていられない。妙な声や視線の件も気になるが、何より、あいつが抱えているものを一緒に背負えるなら背負ってやりたい。頭は回るくせに、心だけが不器用なんだよな、あいつは。