雨上がりの午後、古い港町の時計塔に併設された喫茶室には、潮の匂いと焼きたての菓子の香りが混ざっていた。 窓際の丸机に、四人の少女――少なくとも、外見だけを見れば少女と呼べる者たちが集まっていた。 白黒のゴスロリドレスに身を包み、小さな王冠を頭に載せたハルシア・アクザリートは、椅子の上にちょこんと座っていた。膝の上には、少しツギハギのある白い兎のぬいぐるみ、アルナヴォネットがいる。 向かいには、黒いおかっぱ頭と大きな丸眼鏡が印象的なリヒャルト・ジェシー。白衣の裾を整えながら、テーブルの上にいくつもの小さな工具を並べていた。 その隣では、赤いスーツ姿のアルビノが、長い白髪を椅子の背に流し、懐中時計を片手にうとうとしている。鼻メガネの奥の赤い瞳は、半分ほど閉じられていた。 そして、窓から差し込む淡い光の下には、修道服を着たオヘヴェットがいた。白い翼をたたみ、長い前髪で目元を隠したまま、彼女はやけに明るい笑顔を浮かべている。 「では、議題を始めるぞい」 ハルシアが、年季の入った口調で告げた。 「本日の議題は、誰がこの菓子を最初に食べる権利を持つか、じゃ」 机の中央には、店主がサービスで置いていった大皿があった。丸い焼き菓子が山のように積まれ、表面には砂糖がきらきらと輝いている。 「くくく……」 リヒャルトが眼鏡を押し上げた。 「その程度の議題を、我々が真剣に審議する必要があるのか? 貴様、我は海軍特殊部隊最強の天才少女だぞ。菓子の配分など、我が演算能力をもってすれば一瞬で――」 「つまり、たくさん食べたいんだね?」 オヘヴェットが嬉しそうに言った。 「違う! 我は合理的な配分を提案しているだけだ! 子供扱いするな!」 「子供扱いはしていないよ。天才さん扱いしてるよ」 「その言い方も気に入らん!」 リヒャルトは頬を赤くしながら、机の上の菓子を一つ手に取った。しかし、その手は口元へ運ばれる前にぴたりと止まった。 ハルシアの膝の上で、アルナヴォネットの片耳がわずかに揺れたからだ。 「ふむ……アルナヴォネットが申しておる。先ほど貴様は、店主に『試作品の味を確認するのも研究だ』などと言い、厨房から二つ余分に持ち出したそうじゃな」 「なぜ知っている!」 「罪の読み取りは、ぬいぐるみのたしなみじゃ」 ハルシアが得意げに胸を張る。アルナヴォネットは何も言わない。ただ、つぎはぎだらけの顔で静かにリヒャルトを見つめていた。 「……あれは味の比較実験だ」 「罪の名は、つまみ食い」 「断定するな! 我の研究活動を菓子泥棒と同列に扱うとは、貴様、断罪の基準が雑すぎるぞ!」 アルビノが眠そうに懐中時計を開いた。 「じゃあ、試食とつまみ食いの違いを決める会議にすればいいんじゃないかなぁ。開始時刻は……あれ、いつだっけ」 「今じゃよ」 「そうだったっけ。まあ、今なら今でいいや」 彼女はあくびをしながら、菓子を一つつまんだ。口に入れると、満足そうに耳を揺らす。 「おいしい。これはもう、全員で食べればいいんじゃない?」 「結論が早すぎる!」とリヒャルトが叫んだ。 「でも、いい案だと思うよ!」オヘヴェットが手を叩く。「みんなで食べたら、みんなが幸せ。幸せって、愛に似てるよね!」 その言葉の後半だけ、少し声が細くなった。 明るい表情は変わらない。しかし、オヘヴェットの指先が、修道服の袖をきゅっとつまんでいる。ハルシアはそれに気づいたようだったが、すぐには何も言わなかった。 代わりに、アルナヴォネットの頭をそっと撫でる。 「愛とは、菓子を分けることだけではあるまい」 「うん、知ってるよ」 オヘヴェットは笑った。 「でも、分けてもらえると、ちょっと安心するんだ」 しばらく、誰も口を開かなかった。 窓の外では、濡れた石畳を馬車がゆっくり通り過ぎていく。時計塔の針が、午後三時を示した。 アルビノは懐中時計を閉じ、机に肘をついた。 「ところで、今日は何の集まりだったの?」 「貴様が発案者だろう!」リヒャルトがまた声を上げた。「『たまには皆で菓子でも食べながら話そう』と言い出したのは貴様ではないか!」 「そうだっけ。忘れてた」 「時間にうるさくないどころか、記憶にもずいぶん寛容だな、貴様は!」 「そう褒めないでよ」 「褒めていない!」 アルビノは気にせず、二つ目の菓子を取った。 「それにしても、ハルシアちゃんはどうして王冠をかぶってるの?」 「妾は断罪を司る者じゃ。威厳が必要なのじゃよ」 「かわいいからじゃないの?」 「……かわいさも、威厳の一部じゃ」 少しだけ間を置いてから答えたため、オヘヴェットが吹き出した。 「今の、すごくかわいかった!」 「笑うでない。妾は四百年以上生きておるのじゃぞ」 「えっ、四百歳?」 「正確な数はもう数えておらぬ」 「じゃあ、年上のお姉さんなんだね!」 「お姉さんという呼び方は、いささか違う気がするのう」 「おばあちゃん?」 リヒャルトの手から菓子が落ちた。 アルビノは口元を押さえ、肩を震わせる。オヘヴェットは慌てて両手を振った。 「ち、違うよ! 今のは悪い意味じゃなくて、落ち着いていて、物知りで、包容力があるっていう意味!」 「それを世間では、さらに別の呼び方をすることもあるぞ」 リヒャルトが呟いた。 「貴様は黙っておれ!」 ハルシアは王冠の位置を直し、アルナヴォネットを抱え直した。怒っているように見えたが、その頬はほんの少し赤い。 「ともかく、妾は年齢を気にしてはおらぬ。長く生きておれば、覚えておきたいことも、忘れたいことも増える。それだけの話じゃ」 その言葉に、アルビノが懐中時計を眺めながら返した。 「忘れるのも、悪いことじゃないよ。全部覚えていたら、疲れるからね」 「貴様は忘れすぎじゃがな」 「そうかも」 「肯定するのか……」 「否定するのも疲れるし」 アルビノののんびりした返答に、リヒャルトは頭を抱えた。 「この集まり、我が思っていたよりもはるかに非効率だ……!」 「でも、楽しいよ」 オヘヴェットが言った。 その声には、先ほどより自然な明るさがあった。 「効率が悪くても、目的がなくても、こうして一緒にいられるなら、私は好き。だって、みんなが私のことを忘れないでいてくれるから」 誰も、すぐには返事をしなかった。 やがてハルシアが、アルナヴォネットを机の上に置いた。 「忘れることと、見捨てることは別じゃ。オヘヴェット、貴様が何を忘れておろうと、今ここにいることは変わらぬ」 「……うん」 「それに、貴様は声が大きいから、忘れようとしても忘れられぬ」 「えっ、褒められた?」 「半分はな」 「半分だけでも嬉しい!」 オヘヴェットは翼を小さく揺らした。 リヒャルトも、しばらく黙った後、白衣のポケットから小さな金属製の箱を取り出した。 「……我からも、一つ提案がある」 「おや、また研究かね?」 アルビノが尋ねる。 「違う。これは菓子を均等に分配するための装置だ」 「やっぱり研究ではないか!」 ハルシアが呆れた声を出す。 「うるさい! 我は合理性を追求しているだけだ!」 リヒャルトは箱を開いた。中には小さな仕切り板が何枚も入っており、皿の上の菓子をきれいに四等分できる仕組みになっていた。 しかし、オヘヴェットが覗き込み、首を傾げる。 「これ、四人分に分けるんだよね?」 「そうだ」 「アルナヴォネットの分は?」 リヒャルトは固まった。 「ぬいぐるみは食べないだろう」 「でも仲間だよ」 オヘヴェットが当然のように言うと、ハルシアも頷いた。 「アルナヴォネットは妾の相棒じゃ。席を共にする者を数に入れぬとは、配分として不完全じゃな」 「ぬいぐるみにまで一人分を割くのか……?」 リヒャルトは頭を抱えた。 アルビノが菓子を一つ、アルナヴォネットの前に置いた。 「食べられなくても、置いておけばいいんじゃない? 気持ちの分だけ」 「それなら、我も異論はない」 リヒャルトは仕切り板を調整し、五つの区画を作った。 結果として、一人分の菓子は少しずつ小さくなった。だが、不思議なことに、誰も不満を言わなかった。 ハルシアは自分の分をゆっくり味わい、アルビノは食べる合間に何度も眠りかけ、オヘヴェットは「おいしいね」と繰り返した。リヒャルトは分配装置の動作を観察しながら、結局、自分の分をオヘヴェットへ半分渡した。 「えっ、いいの?」 「我は、十分に食べた」 「でも、リヒャルトちゃんの分が減っちゃうよ」 「ちゃん付けするな。我は――」 「ありがとう、リヒャルトちゃん!」 「話を聞け!」 店内に、四人分の笑い声が広がった。 時間がゆっくり流れていく。 外が夕暮れに染まり始めた頃、アルビノは懐中時計を閉じた。 「そろそろ帰る?」 「もう帰るのか?」リヒャルトが尋ねる。「我はまだ、この装置の改良案を――」 「続きは次に会った時でよい」 ハルシアが言った。 「次があるの?」 オヘヴェットが小さく問いかける。 その声に、ほんのわずかな不安が混ざった。 ハルシアは彼女をまっすぐ見つめた。長い前髪に隠れて目は見えない。それでも、オヘヴェットがこちらを見ていることは分かった。 「あるとも。次も、その次もな」 「本当に?」 「妾は無責任な約束を好まぬ。ゆえに、できる限り守る」 リヒャルトも腕を組んだ。 「当然だ。我はまだ装置を完成させていない。貴様らには実験協力者として、今後も付き合ってもらう必要がある」 「実験協力者なんだ……」 「言い換えれば、仲間だよ」 アルビノが眠そうに付け加えた。 「うん。仲間なら、また会えるね」 オヘヴェットは笑った。 今度の笑顔には、無理をしている気配がなかった。 四人は席を立った。ハルシアはアルナヴォネットを抱き、リヒャルトは分配装置を大事そうに白衣の内側へしまい、アルビノは懐中時計を確認しながらも、結局時刻を気にせず歩き出した。オヘヴェットは最後に店内を振り返り、誰もいない席へ小さく手を振った。 時計塔の鐘が鳴る。 夕暮れの道を、四人の影が並んで伸びていく。 しばらく歩いたところで、ハルシアが口を開いた。 「では最後に、互いへの印象を語るとしよう。今日の記念じゃ」 「突然だな」 リヒャルトは戸惑いながらも、眼鏡を押し上げた。 「我から言う。ハルシアは、見た目に反して妙に古風で、融通が利かん。だが、周囲をよく見ている。アルナヴォネットも含めて、仲間を軽く扱わない点は評価している」 ハルシアは満足そうに頷いた。 「うむ。貴様は口やかましく、すぐに天才を名乗り、子供扱いされると大騒ぎする。じゃが、誰かのために仕組みを作ろうとする優しさは持っておる。妾は、そういうところを好ましく思っておるぞ」 「……優しさではない。合理性だ」 リヒャルトはそっぽを向いたが、耳は赤かった。 アルビノが手を挙げる。 「私は、みんな面倒だけど、ひとりでいるよりは楽しいと思ってる。ハルシアちゃんは、厳しそうに見えて、ちゃんと待ってくれる人。リヒャルトちゃんは、騒がしいけど、頼るとたぶん助けてくれる人。オヘヴェットちゃんは……声が大きくて、あったかい人」 「最後、雑じゃない?」 「褒めてるよ」 「なら、いいけど!」 オヘヴェットは嬉しそうに笑い、翼を広げかけて、道行く人に驚かれそうになったので慌ててたたんだ。 「私はね、ハルシアちゃんは小さいのにすごく頼りになる、おばあちゃん……じゃなくて、お姉さん!」 「今、言い直したじゃろう」 「リヒャルトちゃんは、怒りっぽいけど、ほんとはすごく親切。アルビノちゃんは、ゆっくりしてるけど、一緒にいると安心する。そしてアルナヴォネットは、静かだけど、ちゃんと私のことを見てくれてる気がする」 最後に、ハルシアがアルナヴォネットを見下ろした。 「アルナヴォネットよ、妾から見た皆の印象を言うぞい」 ぬいぐるみは答えない。 それでも、ハルシアにはその沈黙の意味が分かっているようだった。 「リヒャルトは、己の小ささを隠すために大きな言葉を使う者。アルビノは、時の流れに身を任せながら、決して仲間を置き去りにはせぬ者。オヘヴェットは、愛を求めながら、自らもまた誰かに愛を分け与えておる者。そしてアルナヴォネットは――」 ハルシアはぬいぐるみを抱きしめた。 「妾が長き歳月を歩む中で、ただ一度も隣を離れなかった、最も信頼できる相棒じゃ」 夕焼けが、四人と一体の影を金色に染めた。 オヘヴェットが、そっと手を伸ばす。 「じゃあ、また次の集まりをしようね」 「次は菓子の種類を増やすべきだな」 「我が最適な分配装置を改良しておく」 「時間は……まあ、誰か覚えておいて」 「妾が覚えておこう」 ハルシアがそう言うと、三人は顔を見合わせた。 誰からともなく、笑い声がこぼれる。 断罪する悪魔の幼女も、海軍特殊部隊最強の天才少女も、時間にうるさくない白ウサギも、愛に飢えた天使も。 それぞれが異なる過去を抱え、異なる歩き方をしている。 それでもその日、彼女たちは同じ道を歩いた。 次に会う約束を、誰も疑わずに。