昼とも夜ともつかぬ裏市場は、巨大な地下洞窟を思わせる場所だった。 天井から吊られた無数のランタンが、赤や青の光を濡れた石畳へ落としている。情報屋が耳打ちをし、賞金稼ぎが獲物の値踏みをし、怪しい商人たちが呪具、禁制薬、異国の銃、瓶詰めの妖怪まで声高に売りさばいていた。 その雑踏を、神巫のミオは慎ましく歩いていた。 巫女服の袖を乱さぬよう気をつけながら、腰に下げた札入れと破魔矢を確かめる。山上の神社から降りてきたのは、盗まれた神器の手がかりを得るためだった。人の欲望と妖気が混ざり合うこの場所では、普段よりも強く神気を保たねばならない。 「……どうか、騒ぎになりませんように」 そう小さく呟いた直後だった。 向かいの屋台から、紫色の瞳を持つ女が現れた。 ドレスのような服。その顔には、大きな目が描かれた羊皮紙が貼りついている。そして何より異様なのは、彼女の左右に浮かぶ二本の巨腕だった。腕は主の意思に従ってゆっくり拳を握り、周囲の客たちを威圧している。 女――アンドレは、ミオの腰の札入れを見た。 その瞬間、彼女の気配が変わった。 「……その札」 アンドレの声に、隠しきれない興奮が滲む。 「魔族を焼ける札だろう? いい。実にいい。そんなものを持った相手と、私は戦いたい」 「申し訳ございませんが、これは売り物ではありません」 ミオは丁寧に頭を下げた。 「神器の手がかりを探しております。どうか道をお譲りくださいませ」 「断る」 アンドレは即答した。 巨腕の片方が、近くの屋台に積まれていた鉄箱を掴む。中身を確認することもなく、拳のように握り潰した。金属がひしゃげ、内部の薬瓶が一斉に砕ける。 「貴方の札を見た時から、腹が立って仕方がない。戦う力を持っているくせに、商人の列に並んで、礼儀正しく歩いている。その澄ました態度が気に入らない」 周囲から、歓声と口笛が上がった。 「ここで私と戦え。拒むなら、その札入れごと貴方を殴り潰す」 ミオの表情から、わずかに笑みが消えた。 「それは……困りましたね」 「怖いのか?」 「いいえ。ですが、周囲の方々にご迷惑がかかります」 ミオは破魔矢を一本抜いた。矢尻をアンドレではなく、周囲の柱へ向ける。 「どうか、これ以上はおやめください。これも縁です。できれば、拳ではなく言葉で解決したいのですが」 アンドレは笑った。羊皮紙に描かれた目が、まるで笑っているように歪む。 「ならば、貴方が私を止めてみろ」 巨腕が振り下ろされた。 轟音とともに、ミオが立っていた石畳が砕ける。だが彼女の姿はない。ミオは破魔矢を柱へ射込み、矢に結んだ紙垂を足場にして横へ跳んでいた。 「急急如律令!」 着地と同時に、ミオは大判の札を三枚投げた。 札は空中で燃え上がり、白い焔の帯となってアンドレを包む。浄罪の札――霊的な力を持つ炎は、魔族の肉体を直接焼くためではない。相手に絡みつく呪いや邪気、力の流れを浄化して削るものだった。 アンドレは一瞬だけ目を細めた。 「なるほど。触れれば危険か」 巨腕の片方が炎の前に割り込み、もう片方が地面を叩く。衝撃で石畳が剥がれ、飛び散った石片が札を次々に弾き飛ばした。 アンドレ本人は炎の隙間を滑り抜ける。 ミオはその動きを見て、すぐに後退した。 「お見事です」 「褒めるな。もっと怒れ」 アンドレの拳が迫る。 ミオは半歩だけ身を引いた。しかし拳は途中で軌道を変えた。巨腕の拳が屋台の陰から回り込み、彼女の背中を狙っていたのだ。 ミオの背後で、木箱が粉砕される。 彼女は袖から小さな札を落とし、地面に触れた瞬間、札を中心に薄い光の円を展開した。巨腕の拳が円へ触れると、動きが一瞬鈍る。 「簡易結界ですか」 アンドレが感心したように言う。 「ですが、弱い。貴方の気は真っ直ぐすぎる」 「……先読みをなさるのですね」 「相手の気を読む。拳を出す前に、貴方の体がもう避けようとしているのが分かる」 アンドレは懐へ踏み込み、右の巨腕で正面から殴り、左の巨腕で逃げ道を塞いだ。本人の拳は、ミオの札を持つ手首を狙っている。 ミオは逃げず、屋台の台座を蹴った。 香辛料の袋が宙へ舞い、赤い粉が周囲に広がる。アンドレの羊皮紙の目が一瞬、粉塵に遮られた。 「目が紙に描かれているなら、煙や粉は有効でしょうか」 「視界に頼っていると思うか?」 アンドレは目を閉じたまま笑った。 「私は気を読む」 左の巨腕が、粉塵越しに正確にミオへ伸びる。 だが、掴んだのは巫女服の袖だけだった。ミオは袖を脱ぎ捨て、屋台の支柱を回り込んでいる。 「ならば、気配を散らします」 ミオは札を十枚、周囲の客へ向けて投げた。札は人に当たることなく、柱、屋根、商品箱、床へ次々に貼りつく。 「急急如律令!」 十枚の札から、ミオの気配に似た白い光が立ち上がった。 市場の一角に、ミオが十人いるように見える。 アンドレの巨腕が一斉に偽の光を殴り飛ばした。だが、光は殴られるたびに弾け、周囲へさらに散っていく。客たちが悲鳴を上げ、商人たちは商品を抱えて逃げ始めた。 「小細工を!」 アンドレが怒鳴った。 「戦いとは、相手の得意を避けることも含まれるのではありませんか?」 ミオは本物の自分を隠すため、商品の並ぶ路地へ走った。 アンドレは気配を追った。だが、路地は呪具を吊るした商店と、鏡面加工された金属板を並べた店に挟まれている。ミオはその金属板を次々に倒し、アンドレの気の反響を乱した。 「そこだ!」 巨腕が金属板を粉砕する。 しかし、その背後にミオはいない。 アンドレが振り返ると、ミオは高い市場の看板の上に立っていた。手には破魔矢。矢先は天井へ向いている。 「万の結界」 破魔矢が上空へ放たれた。 矢は天井に届く前に光の柱へ変わり、無数の細い線を市場全体へ走らせた。屋台の屋根、石柱、建物の壁が光で繋がり、広大な結界が展開する。 魔法、呪詛、精神干渉、空間を歪める力。その一切を遮る結界だ。 アンドレの巨腕が唸りを上げる。 「面白い! ならば物理で壊す!」 両腕が同時に結界へ叩きつけられた。 光の網が大きくたわみ、市場全体が震える。吊り下げられたランタンが落下し、屋台が崩れ、逃げ遅れた客が床へ伏せた。 ミオは看板から飛び降り、負傷した商人を結界の内側へ引き寄せた。 「皆さま、壁際へ! 走らず、頭をお守りください!」 「貴方は戦闘中でも他人を気にするのか!」 「神に仕える者として、当然のことです」 「その余裕が気に入らない!」 アンドレの巨腕が今度は市場の柱を掴んだ。柱を折れば、建物全体を崩せる。結界を壊せないなら、周囲ごと戦場を変えるつもりだった。 ミオの顔色が変わる。 「おやめください!」 「ならば私を止めろ!」 アンドレが柱を引き抜いた。 その瞬間、市場の奥から銅鑼のような音が響いた。 「聞け、裏市場の者ども!」 高所の足場に、二人の賞金稼ぎが姿を現した。片方は長銃、もう片方は鎖付きの鉤爪を持っている。 「神巫のミオ、魔族のアンドレ! 両名に賞金が懸かったぞ!」 「生け捕りなら倍額だ!」 【ランダムイベント:賞金稼ぎが二人に賞金を懸けて乱闘】 賞金稼ぎたちは、戦いの隙を狙って同時に飛び込んできた。 長銃の弾丸がミオへ、鉤爪がアンドレへ飛ぶ。 ミオは札を一枚掲げた。弾丸が札へ触れた瞬間、浄化の焔に包まれ、ただの鉄片となって床へ落ちる。 アンドレは巨腕で鉤爪を弾き、賞金稼ぎの一人を屋台の上へ叩き飛ばした。 「邪魔をするな! 私は今、最高の相手と戦っている!」 「勝手なことを!」 ミオも声を荒らげた。 「人々を巻き込むなら、あなたも敵と見なします!」 ミオは大きな札を一枚、賞金稼ぎたちの足元へ投げた。白い焔が輪となって広がり、二人の武器に絡みつく。武器に宿っていた呪力だけが浄化され、賞金稼ぎたちは驚いて転倒した。 「殺してはいない」 ミオは言った。 「これで、退いてください」 「お人好しめ!」 アンドレが笑いながら、ミオへ突進した。 彼女が賞金稼ぎを助けるため、一瞬だけ意識を逸らした。その気の揺らぎを、アンドレは見逃さなかった。 巨腕の拳が結界を迂回し、横からミオを打つ。 ミオは咄嗟に札を重ねたが、衝撃は防ぎきれず、屋台を三つ突き抜けて壁へ叩きつけられた。 巫女服が裂け、長い黒髪がほどける。口元から血が一筋流れた。 観客が息を呑んだ。 アンドレはゆっくり歩み寄る。 「立て。貴方の気は、まだ折れていない」 ミオは壁に手をついて立ち上がった。 「……ええ。まだ、倒れるわけにはまいりません」 「ならば、その神とやらを見せろ」 アンドレの挑発に、ミオは黙って札を並べた。 市場のあちこちに残る札、結界の光、砕けた屋台の木片、落下した破魔矢。すべてが一本の術式として繋がっていく。 アンドレが気配を読む。 だが、読めない。 ミオの気は、彼女一人のものではなくなっていた。結界に守られた客たち、折れた柱、燃え残る札、無数の祈り。そのすべてが重なり、巨大な山のような気配になっている。 「……何だ、これは」 ミオは静かに目を閉じた。 「降臨の儀を執り行います」 彼女は両手を合わせ、低く祝詞を唱え始めた。 「高天原に坐します御神々よ。此処に集いし穢れを鎮め、迷える魂を導き給え。願わくば、この身を依代とし――」 アンドレが初めて後ずさった。 「させるか!」 巨腕が二本ともミオへ向かう。 ミオの周囲で、万の結界がさらに輝いた。巨腕が触れる前に、見えない壁へ弾かれる。アンドレは拳を握り直し、連続して殴りつけた。地面が割れ、屋台が吹き飛び、観客が悲鳴を上げる。 それでも、ミオは祈りを止めなかった。 「……降り給え」 最後の言葉が響いた瞬間、市場の空気が凍りついた。 ミオが顔を上げる。 その瞳にあった慎ましい光は消えていた。 代わりに、山頂から世界を見下ろす神の威圧が宿っている。彼女の背後に巨大な神影が浮かび、手には白銀の神剣が現れた。 声も変わっていた。 「歯向かうか。愚かなる者」 アンドレは笑った。 恐怖ではない。歓喜だった。 「それでこそだ! その力を、私に向けろ!」 巨腕が唸り、アンドレ自身も同時に踏み込む。彼女は神剣の軌道を気から読み、二本の巨腕を交差させて受ける構えを取った。 神剣が振り下ろされる。 アンドレは紙一重で避けた。剣は床を裂いたが、彼女の肩を浅く切り裂く。魔族の血が散った。 「読める! 貴方の攻撃は速いが、直線的だ!」 「一撃にて滅さん」 神剣が再び振るわれる。 今度もアンドレは身を沈め、巨腕の一つで神剣の側面を殴った。軌道がわずかに逸れ、剣先が石柱を両断する。 もう一方の巨腕が神巫の胴を狙った。 しかし、神剣を逸らしたはずのミオは、その勢いで回転していた。神剣の柄で巨腕の関節を打ち、次いで手のひらから札を押し当てる。 「浄罪の札」 小さな札が、巨腕の表面で燃え上がった。 それはただの炎ではなかった。アンドレの巨腕を構成する魔力の結び目を、一つずつほどいていく浄化の焔だった。 「ぐ、ああああっ!」 アンドレが腕を引き、札をもぎ取る。だが、すでに腕の輪郭が崩れ始めていた。 「私の腕を……消すのか!」 「あなた様が止まらぬゆえです」 ミオの神の人格は、敬語の形を残しながらも冷酷だった。 アンドレは残った巨腕を振り抜いた。ミオは真正面から受け止めず、結界の一部を屋台の屋根へ移した。巨腕の拳が屋根を打ち、その反動でアンドレの体勢が崩れる。 ミオはその隙に、周囲に貼られた十枚の札を一斉に発動させた。 白い焔の柱が市場の各所から立ち上がる。 最初はアンドレを囲むだけだった。だが、ミオはすぐに術式を変えた。焔を内側へ収束させるのではなく、石畳に沿って流し、アンドレの逃げ道だけを塞いでいく。 炎は観客や商人には触れず、呪われた商品だけを焼いた。禁制薬の瓶が割れ、呪具が悲鳴を上げ、魔力を含んだ布が灰になる。 市場の危険な品々を浄化しながら、戦場を狭めていくのだ。 アンドレはそれに気づいた。 「私を追い込むために、周囲の品まで利用しているのか!」 「この市場そのものが、あなた様の力を増幅していました。ならば、穢れを断ちます」 「ならば拳で、貴方の結界ごと砕く!」 アンドレは残った巨腕と自分の拳を同時に繰り出した。 その攻撃は、これまでで最も速く、重かった。先読みだけでは避けきれない。ミオの結界が大きく震え、神影の輪郭が揺らぐ。 観客の一人が叫んだ。 「巫女様、負けるな!」 別の商人が続けた。 「市場を守ってくれ!」 祈りとも声援ともつかぬ声が、結界の内側に重なった。 ミオの神気が増す。 アンドレは拳を振り抜きながら、かすかに笑った。 「そうだ、それだ! 貴方一人ではなく、皆の気を背負っている!」 「……お気づきでしたか」 「だからこそ、全部まとめて殴る価値がある!」 アンドレの拳が結界へ衝突した。 光の壁に亀裂が走る。 その瞬間、ミオは結界を外側へ広げた。防ぐのではなく、衝撃の方向を変える。拳の力は壁に沿って流れ、左右の建物へ分散される。砕けた木材が空中で止まり、札の焔がそれらを受け止めた。 アンドレの拳だけが、勢いの行き場を失う。 「なに?」 ミオはアンドレの懐へ踏み込んだ。 巨腕が戻るより早い。 神剣の切っ先が、アンドレの胸元――魔力の核へ触れた。 だが、斬らなかった。 ミオは剣を止め、代わりに札を一枚、アンドレの胸へ貼った。 「急急如律令」 浄化の焔が爆発する。 それは肉体を焼く炎ではなく、戦闘狂として膨れ上がった魔力、巨腕を操る呪的な回路、周囲から吸い上げていた市場の邪気だけを燃やしていった。 アンドレの巨腕が崩れる。 二本目も、光の粒となって消えた。 アンドレ本人は膝をつき、顔の羊皮紙が半ば剥がれ落ちた。紫の瞳が露わになる。 彼女はなお拳を握ろうとしたが、力が入らない。 「……私の、腕が」 「しばらくは戻りません」 神巫のミオは神剣を消し、元の瞳へ戻りつつあった。 「ですが、命までは奪いません。あなた様は、戦うこと以外を知らぬように見えます」 「情けをかけるのか」 「違います」 ミオは血の滲む額を拭った。 「ここで命を奪えば、また市場の方々が巻き込まれます。それに……戦う理由が、少し寂しく思えましたので」 アンドレはしばらく黙っていた。 周囲では、賞金稼ぎたちが逃げ、商人たちが焼け残った商品を確認している。崩れた屋台の間から、観客たちが恐る恐る顔を出していた。 アンドレは剥がれかけた羊皮紙を押さえ、ミオを見上げる。 「貴方は、私を哀れんでいるのか?」 「いいえ。次にお会いする時は、もう少し穏やかにお話しできればと」 「断る。次も必ず戦う」 「そうですか」 ミオは困ったように微笑んだ。 「これも縁ですね」 アンドレはその言葉に、初めて苛立ちではない笑みを浮かべた。 「ならば、その縁を切らないためにも……次は私が勝つ」 「その時は、周囲にご迷惑をかけない場所を選びましょう」 市場の上空では、消えかけた結界の光が雪のように降っていた。 ミオは破魔矢を拾い、壊れた屋台や負傷者の様子を確かめる。アンドレは立ち上がろうとしたが、膝が笑い、近くの柱へ寄りかかった。 決着はついた。 勝者は、神を降ろしながらも市場を守り抜いた神巫のミオ。 敗者は、巨腕も戦意も浄化され、なお再戦を誓うアンドレ。 しかし裏市場の誰もが理解していた。 この一戦は、ただの勝敗ではない。 二人の間には、怒りから始まり、拳と神威を交わした末に生まれた、奇妙で危うい縁が残されたのだ。