冒頭 重厚な石造りの会議室。壁に掛けられた巨大な時計が刻む秒針の音が、不気味なほどに静まり返った空間に響いていた。円卓を囲むのは、国家の枢要を担う四人の閣僚である。 政府の諜報部から提出された極秘報告書。そこには「バトラー」と呼称される、既存の枠組みでは捉えきれない特異個体についての記述があった。彼らが国家の治安を揺るがす脅威となるのか、あるいは単なる奇行者に過ぎないのか。現時点での判断を仰ぐため、この緊急会議が招集されたのである。 内務卿は、不安げに指先を組み、落ち着かない様子で視線を彷徨わせていた。治安の維持を最優先とする彼女にとって、正体不明の不確定要素は最大のストレス源である。 分析卿は、眼鏡のブリッジを指で押し上げ、淡々と資料に目を落としていた。魔術的な特異点か、あるいは科学的な変異か。客観的なデータのみを信じる彼は、この状況を一種の知的遊戯として楽しんでいる節がある。 軍務卿は、不機嫌そうに腕を組み、椅子に深く腰掛けていた。陸海空全ての武力を掌握する彼は、単純に「叩き潰すべき敵」がいない現状に苛立っていた。 そして穏健卿は、柔らかな微笑みを湛えながら、ティーカップを口に運んでいた。対話による解決、平和的な共存。彼女の理想は常に高く、そして危うい。 「……さて、時間です。始めましょうか」 分析卿の静かな合図と共に、会議が幕を開けた。 会議:個体Aについて 内務卿が、震える手で一枚の資料をテーブルの中央に提示した。そこには、諜報部が作成した「嗚呼寒杉・G・乾布摩介」の想像図が添えられていた。図の中の男は、9月の気候であるにもかかわらず、布団のような厚みの衣類を12枚も重ね着し、文字通り「球体」に近い姿で震えていた。 内務卿は、報告書を音読し始めた。 「……個体名、嗚呼寒杉・G・乾布摩介。正体は日本の寒さに絶望し、ヴィランへと堕ちた男です。動機は……信じられませんが、不動産業者に騙され、50年ローンで南極点の物件を購入したことによる精神的崩壊。現在は日本の首都となった岐阜に勤務しておりますが、交通費が出ないため、南極から岐阜行きの夜行バスで通勤するという、正気の沙汰とは思えない生活を送っております。活動内容は……日本の優秀な人材を、頑張って暗黒面に墜とすこと、とのことです」 読み終えた瞬間、会議室に沈黙が訪れた。そして、軍務卿が机を激しく叩いた。 「ふざけるな! こんなもどきのような男をバトラーとして報告してきたのか! 南極からバスで通勤だと? 物理的に不可能だろうが!」 「まあまあ、軍務卿。でも、この『暗黒面に墜とす』という表現が気になりますね」と穏健卿が口を挟む。「もしかして、精神的なアプローチによる洗脳のようなものでしょうか?」 分析卿が冷静に分析を加える。 「注目すべきは、彼を絶望させた『不動産業者』の存在だ。南極点に地盤がしっかりした物件があるなどという嘘を信じ込ませ、50年ローンを結ばせる。この業者は、ある種の精神操作か、あるいは法を超越した権限を持っている可能性がある。彼こそが真の黒幕ではないか」 「そんなことより、治安への影響よ!」内務卿が声を上げる。「岐阜の街中で、12枚も服を着た男が『お前も暗黒面へ来い』なんて言いながら彷徨っていたら、市民がパニックになるわ! 寒がっている人間を助けるのか、逮捕するのか、現場が混乱するわよ!」 「待て、内務卿」軍務卿が鼻で笑う。「相手は寒さに弱く、移動に夜行バスを必要とする脆弱な個体だ。軍が介入すれば、暖房器具を全部取り上げるだけで屈服させられる。脅威などあるか」 「いいえ、軍務卿。そこが罠なのです」分析卿が眼鏡を光らせる。「絶望した人間は、失うものがありません。彼は『交通費が出ない』という経済的困窮と、『南極という極限環境』という物理的絶望を同時に抱えている。この精神状態にある人間が、日本の優秀な人材を効率的に暗黒面に導く手法を見出した場合、国家の知的基盤が崩壊します」 「あら、いいじゃない」穏健卿が微笑む。「優秀な人たちが、少しだけ視点を変えて、緩やかな生活を送るようになるだけかもしれませんよ。暗黒面というのも、単に定年退職のような心地よさを指しているのかもしれません」 「楽観的すぎるわ!」内務卿が叫ぶ。「いい? 彼はヴィランなのよ! ヴィランなの! 岐阜という狭い地域に特化したヴィランかもしれないけれど、もし彼が南極の寒さを岐阜に持ち込む魔術でも使い始めたらどうするの!」 「それは面白い仮説だ」分析卿が頷く。「もし彼が『寒さへの憎しみ』をエネルギーに変換し、局所的な氷河期を発生させる能力を得ていたとしたら。交通費の出ない怒りが、気候変動を引き起こす。実に論理的な絶望の連鎖だ」 軍務卿が再び身を乗り出す。 「だったら、そのバスを撃墜すれば済む話だ。南極から岐阜へのルートを封鎖し、彼を孤立させればいい」 「残酷ですね」と穏健卿。「まずは、不動産業者に損害賠償を請求させるなど、法的な救済措置を提示して、彼を光の面に戻してあげましょうよ」 「そんな時間があるなら、今すぐ逮捕して温かい部屋に閉じ込めて interrogation(尋問)よ!」内務卿が机を叩く。 「結論として、個体Aの脅威は『個人の能力』ではなく、『絶望の伝播力』にあると言えるだろうな」分析卿がまとめる。「ただし、本人が極度の寒がりであるため、冬場は活動率が著しく低下することが予想される」 「つまり、冬は安全ということか。ふん、くだらん」軍務卿が鼻を鳴らす。 「それでは、個体Aの脅威度を判定しましょう」分析卿が促す。 内務卿:「治安を乱す潜在的な不安定さがあるわ。……40点!」 分析卿:「絶望のメカニズムは興味深いが、実害は限定的。……20点」 軍務卿:「バスを止めるだけで終わる。……10点」 穏健卿:「迷える子羊のような方ですもの。……5点」 分析卿が計算を行う。「平均値は……18.75。概ね、無視して良いレベルということになるな」 会議:個体Bについて 「さて、次に行きましょう」分析卿がページをめくる。 内務卿が、今度はさらに困惑した表情で資料を提示した。そこには、ひどく騒々しい雰囲気を持つ男の想像図があった。背景には、あらゆる方向を向いた巨大な正三角形が描かれている。 内務卿が、ため息混じりに読み上げる。 「……個体名、【入ろう!!!三角大好きクラブ!!!】カクサン。肩書きは『三角大好きクラブ会長』。特性は……極めてうるさい男性であり、三角を病的に愛しています。スキルとして『大いなる三角のカリスマ』を持ち、なんと全人口の三割をすでに会員にさせているとのことです。決め台詞は『三角こそトライアングル!!!』。目的は、世界を三角に染めるための布石を打つこと……だそうです」 一瞬の静寂。そして、軍務卿が怒鳴った。 「またか! 今度は何だ! 三角大好きだと!? 趣味のサークルを諜報部が報告してくるな! 全人口の三割だと? そんな馬鹿な数字があるか!」 「でも軍務卿、三割ですよ」穏健卿が頬に手を当てて感心している。「これだけの人間を惹きつけるカリスマ性があるというのは、ある意味で恐ろしい能力です。平和的に、かつ迅速に組織を拡大させている」 分析卿が深く思考に耽る。「……気になるのは『世界を三角に染める』という言葉だ。これは比喩なのか、それとも物理的な変容を指しているのか。もし彼が、物質の構造を三角形に書き換える能力を持っているとしたら、それは物理法則への干渉に等しい」 「そんなことまで考える必要あるの?」内務卿が呆れたように言う。「ただのうるさい男じゃない。でも、三割の人間が彼に従っているというなら、これは一種のカルト宗教よ! 治安維持の観点からして、極めて危険だわ。ある日突然、『世界を大きな三角形にしよう』と言って、建物を全部壊し始めたらどうするの!」 「なるほど」分析卿が頷く。「建築学的に見て、三角形は非常に安定した構造だ。しかし、全てを三角形に強制すれば、既存の都市機能は停止する。彼は『美しさ』という主観的な価値を、物理的な強制力に変えようとしている可能性がある」 「笑わせるな!」軍務卿が肩をすくめる。「三角が大好きなら、山にでも行って三角形の石を積んでいろ。軍が介入すれば、そのクラブとやらをまとめて拘束してやる。三割いようが、銃火器の前には無力だ」 「そこが間違いです、軍務卿」穏健卿が真剣な顔で指摘する。「三割の人間が彼を慕っている。もし彼を無理に排除しようとすれば、その三割の人間が暴動を起こします。これは軍事的な問題ではなく、社会的な問題です。彼を敵に回すことは、国民の三割を敵に回すことと同義です」 内務卿が青ざめる。「そうよ! その通りだわ! 街中の三人に一人が『三角こそトライアングル!!!』と叫びながらデモ行進を始めたら、交通網は麻痺し、行政は機能不全に陥るわ!」 「フム。つまり、彼は『合意形成の力』という最強の武器を持っているということか」分析卿が分析を深める。「個体Aが個人の絶望に依存していたのに対し、個体Bは集団の熱狂を利用している。個体としての戦闘力は不明だが、集団としての破壊力は個体Aを遥かに凌駕している」 「だったら、三角を認めてやればいいじゃない」穏健卿が提案する。「政府公認の『三角推進委員会』のようなものを設立して、彼のエネルギーを建設的な方向に導けば、平和的に解決できるはずです」 「正気か!」軍務卿が怒鳴る。「国家が公式に『三角形最高』なんて認めたら、四角いものが好きな人間が怒るだろうが! 混乱を招くだけだ!」 「でも、彼を無視し続ける方がリスクが高いわ」内務卿が切迫した声で言う。「今のところは『大好きクラブ』という微笑ましい名前だけど、いつ『三角帝国』に名前を変えて反乱を起こすか分からない。彼のカリスマ性は、一種の精神的汚染に近いわ」 分析卿が顎に手を当てる。「『あらゆる三角を扱うことができる』という記述がある。これがもし、次元的な三角形……つまり三次元的な空間操作を指しているのだとしたら、彼はこの世界の幾何学的構造そのものを操作できる可能性がある。そうなれば、もはや軍隊など意味をなさない。世界そのものが彼好みの『正三角形』に折りたたまれてしまう」 「……おい、分析卿。お前の分析はいつも極端すぎる」軍務卿が引き気味に呟く。 「客観的に見て、可能性はゼロではない」分析卿は淡々と言い放つ。 「もう、どうすればいいのよ!」内務卿が頭を抱える。「ただの変質者だと思っていたのに、気づけば国家転覆の危機にさらされている気がするわ!」 「ふふふ、まずは彼に美味しい三角形のケーキを贈って、親睦を深めましょう」穏健卿がにこやかに笑う。 「そんなことで解決するなら、苦労しねえよ!」軍務卿の怒号が響いた。 「さて、議論は十分でしょう」分析卿が時計を見る。「個体Bの脅威度を判定しましょう」 内務卿:「社会的な混乱を招く力が強すぎるわ。……80点!」 分析卿:「空間操作の可能性を考慮すれば、極めて危険。……90点」 軍務卿:「まとめて拘束できるが、三割の反発は面倒だ。……50点」 穏健卿:「情熱的な方は素敵だと思います。……30点」 分析卿が計算を行う。「平均値は……62.5。個体Aに比べれば、明確に『警戒すべき対象』と言えるな」 * 終了 「以上で、バトラー個体AおよびBに関する審議を終了します」分析卿が宣言した。 会議室に再び静寂が訪れたが、それは冒頭の静寂とは異なる、疲労感に満ちた沈黙であった。 内務卿は、深く、深いため息をつき、机に突っ伏していた。治安を守るはずの自分が、最も精神的に不安定な状態になっていた。 軍務卿は、不機嫌そうに椅子を蹴って立ち上がった。「いいか、次にあんな馬鹿げた報告書を持ってくる奴がいたら、その場で正座させて反省文を書かせてやる」 穏健卿は、最後の一口の紅茶を飲み干し、満足げに微笑んでいた。「いい勉強になりました。世界には、多様な価値観を持つ方々がいるのですね」 分析卿だけが、手元のメモに何かを書き込んでいた。個体Aの絶望と、個体Bの熱狂。もしこの二人が出会い、『絶望的に三角形を愛する集団』が誕生したとき、世界はどうなるか。彼はそのシミュレーションに、密かな知的好奇心を抱いていた。 「お疲れ様でした」 分析卿の言葉を最後に、四人の閣僚はそれぞれの部屋へと去っていった。国家の運命を左右する会議であったはずだが、彼らが得た結論は、「世界は予想以上に混沌としている」という、至極当たり前の真理だけであった。