夕暮れの少し前、古い天文台の屋上には、まだ昼の名残を含んだ風が吹いていた。 円形の石床の中央には、ひび割れた観測台がある。かつては星の動きを記録するための場所だったらしいが、今では使われることもなく、風に運ばれた白い花びらが静かに積もっていた。 その観測台のそばに、エルシア・ノクティスは立っていた。 白銀の髪が風に揺れ、白いドレスの裾がわずかに翻る。その上から羽織った黒いロングジャケットは、夕暮れの空に溶け込むようだった。紫がかった灰色の瞳は、遠くの地平線を見つめている。 彼女の手には、細身の黒い剣――月光があった。鞘に収まったままのそれを、エルシアは大切そうに両手で支えている。 「……遅い」 小さく呟いた声は、風にさらわれかけた。 その直後だった。 「ごめんなさい……もう少しだけ、寝ていたかったのです……」 のんびりとした声が、空の上から降ってきた。 エルシアが顔を上げると、薄紫色の雲がゆっくりと天文台へ近づいてくるところだった。雲の上には、青色のパジャマ姿の少女が横たわっている。肩ほどの長さの髪が風に揺れ、その隙間から眠たげな緑の瞳が覗いていた。 ステラ・スターシープは、雲の端に頬杖をつきながら、あくびをひとつする。 「……こんにちは、エルシアさん」 「こんにちは。ステラ」 「今日は、朝ですか? 夜ですか?」 「夕方」 「そうですか……では、もう少し寝ても大丈夫ですね……」 ステラは本当に眠り直そうとした。 エルシアはしばらく彼女を見上げていたが、やがて小さく息を吐いた。 「ここへ来る約束をしていた」 「はい……覚えています……たぶん……」 「覚えているのなら、起きて」 「起きています……」 「目が閉じている」 「心の目が開いています……」 エルシアは返事をしなかった。代わりに、ほんのわずかに目を細める。 ステラはその変化に気づいたのか、雲を観測台のそばへゆっくり降ろした。ふわりとした雲は石床の上に浮かび、足場のように静止する。 「今日は何をするのでしたっけ……?」 「星を見る」 「夜に?」 「夜に」 「今は夕方です」 「だから、待つ」 「待つのは得意です……寝ていれば、すぐですから……」 ステラは雲の上に座り直し、藍色の腕輪を指先で撫でた。眠そうな表情のままだが、その仕草にはどこか落ち着いたものがあった。 エルシアは観測台に腰を下ろす。黒いジャケットの裾が石床に触れ、月光の鞘がかすかな音を立てた。 「あなたは、いつも眠っている」 「はい」 「起きている時間は、少ない」 「はい」 「それで困らないの?」 ステラは少し考えた。考えている間も、瞼は半分閉じている。 「困ることもあります……でも、眠いときに起きているほうが、もっと困ります……」 「……それは、そうかもしれない」 エルシアが素直に認めると、ステラの口元がかすかに緩んだ。 「エルシアさんは、あまり寝ないのですか?」 「眠る」 「よく眠れますか?」 「……あまり」 「夢は?」 「覚えていない」 「それは、少し寂しいですね……」 ステラの声は柔らかかった。眠たげで、ゆっくりしていて、それでもその言葉だけはエルシアの中に静かに届いた。 エルシアは返事をしなかった。 空は次第に色を変えていく。西の端が橙色に染まり、淡い紫がその上へ広がっていく。薄紫の雲と空の境目が曖昧になり、ステラの姿まで夕暮れの一部に見えた。 「エルシアさんは、星が好きなのですか?」 「好き、というほどではない」 「では、嫌いですか?」 「嫌いでもない」 「では、なぜ見に来たのですか?」 エルシアは、遠くに見える山並みへ視線を向けた。 「……星は、遠いから」 「遠いと、いいことがありますか?」 「近すぎるものは、見えないことがある」 ステラは黙って聞いていた。 「近くにあるものは、触れられる。触れられるから、見なくても分かると思ってしまう。でも、本当は分からないことも多い」 エルシアの指が、月光の柄に触れた。 「遠くにあるものは、届かない。だから、ずっと見ていられる」 「……分かるような、分からないような……」 「私も、うまく説明できない」 「でも、エルシアさんらしいです」 「私らしい?」 「はい。静かで、少し寂しくて……でも、きれいです」 エルシアはステラを見た。 ステラは自分の言葉が何か問題でもあったのかと思ったらしく、眠そうな瞳をわずかに見開く。 「……変なことを言いましたか?」 「いいえ」 「怒っていませんか?」 「怒っていない」 「では、よかったです……」 ステラは安心したように、また雲へ横になった。 「ステラ」 「はい……?」 「あなたは、私をどう思っている?」 質問されるとは思っていなかったのだろう。ステラは瞬きをした。それから、雲の上で横向きになり、エルシアのほうへ顔を向ける。 「エルシアさんは、きれいな人です」 「それは、さっきも言った」 「そうでしたか……?」 「言った」 「では……とても静かな人です」 「それも、分かりやすい」 「眠っているときに、そばにいても安心できる人です」 エルシアは僅かに目を伏せた。 「なぜ?」 「静かな人は、急にどこかへ行ってしまいそうに見えることがあります。でも、エルシアさんは、黙っていてもちゃんとそこにいます」 「……そう見える?」 「はい。だから、隣で寝ても大丈夫そうです」 「判断の基準が、眠れるかどうかなのね」 「大事なことです……」 ステラはそう言って、雲の端に手を置いた。 「それに、エルシアさんは優しいです」 「私は、何もしていない」 「何もしていなくても、優しい人はいます」 「分からない」 「では、覚えておいてください……」 そのとき、天文台の階段のほうから、かすかな音がした。風に飛ばされた木の枝が転がってきたのだ。エルシアは反射的に立ち上がり、音のほうへ視線を向ける。 ステラも起き上がったが、すぐに眠そうな姿勢へ戻った。 「何かいましたか?」 「枝」 「枝……」 「怖くない」 「よかったです……」 「あなたは、少しも警戒しない」 「エルシアさんがいるので……」 あまりに自然に言われたため、エルシアは言葉を失った。 ステラはきょとんとしている。自分が何か特別なことを言ったとは思っていないらしい。 「……私がいるから?」 「はい。エルシアさんが困ったときは、私も起きます」 「起きるだけ?」 「必要なら、考えます」 「考えるのは、起きていなくてもできるの?」 「たぶん……」 エルシアは、ほんの少しだけ笑った。 それは笑顔と呼ぶには小さすぎる変化だったが、ステラには十分伝わったらしい。緑の瞳が、ゆっくりと細くなる。 「今、笑いましたか?」 「……気のせい」 「そうですか……」 「そう」 「では、私も気のせいということにしておきます……」 空がさらに暗くなった。 最初の星がひとつ、薄い青の中に姿を現す。続いて二つ、三つ。夕暮れの色が退くにつれ、夜空は少しずつ深みを増していった。 ステラは雲に寝転びながら、空を見上げていた。いつもの眠たげな表情の奥に、わずかな好奇心が宿っている。 「星は、遠いですね……」 「そう」 「でも、見えます」 「そうね」 「触れなくても、そばにあるみたいです」 エルシアは星を見た。 遠く、遥かな場所で輝く光。それは届かないからこそ、夜空の中で失われずにいる。 「……あなたは、星みたい」 「私がですか?」 「眠っていて、遠くにいるようで……でも、ちゃんと光っている」 ステラはしばらく沈黙した。 「エルシアさんが、そう思ってくれるなら……私は、星でもいいです」 「嫌ではないの?」 「はい。星なら、眠っていても許されそうですから……」 エルシアはまた小さく息を吐いた。今度は呆れたようでいて、どこか柔らかい。 「あなたは、いつも眠ることを正当化する」 「眠ることは、大切です」 「分かった」 「本当に?」 「たぶん」 「エルシアさんも、眠ってくださいね」 「努力する」 「では、今日はもう……」 ステラの声が少しずつ小さくなる。瞼が落ち、呼吸がゆっくりになる。数秒もしないうちに、彼女は雲の上で静かに眠り始めた。 エルシアは隣に立ったまま、夜空を見上げていた。 やがて彼女は、ステラの眠りを妨げないよう、雲の近くへ腰を下ろす。月光を膝元に置き、風の音と穏やかな寝息を聞きながら、星を見つめた。 静かな時間だった。 誰かと共にいるのに、無理に話さなくてもいい時間。近づきすぎず、遠ざかりすぎず、ただ同じ空の下にいる時間。 エルシアは、こういう時間を嫌いではないのかもしれないと思った。 しばらくして、ステラが寝言のように呟いた。 「……エルシアさん」 「何?」 「そこに、いますか……?」 「いる」 「……よかったです……」 ステラはそれきり、また深く眠った。 エルシアは夜空から目を離し、眠る少女を見た。 「……私も、よかった」 聞こえないほど小さな声だった。 そして、二人の間には、星明かりと静かな風だけが残った。 帰る時間になっても、エルシアはすぐには立ち上がらなかった。ステラが目を覚ますまで待つつもりだったのだが、待っているうちに、雲の上の少女が身じろぎをした。 「……もう、夜ですか?」 「夜」 「星は見えましたか?」 「見えた」 「きれいでしたか?」 「きれいだった」 「それは、よかったです……」 ステラはゆっくり身を起こした。髪が少し乱れている。エルシアがそれを見ていると、ステラは首を傾げた。 「どうしましたか?」 「髪」 「寝癖ですか?」 「少し」 「直っていますか?」 「直っていない」 「では、帰ってから直します……」 「そのまま寝る気でしょう」 「……よく分かりましたね」 エルシアは、今度こそはっきりと微笑んだ。 ステラは嬉しそうに目を細める。 「また、星を見に来てもいいですか?」 「約束するなら」 「はい。今度は、遅れないようにします」 「本当に?」 「……少しだけ、努力します」 「それなら、いい」 エルシアは立ち上がった。ステラも雲を動かし、天文台の出口へ向かう。 帰り道、二人の影は石造りの階段に並んで伸びていた。ひとつは細く静かに、もうひとつは雲の淡い光をまとって柔らかく。 星空の下で、二人は多くを語らなかった。 けれど、その沈黙はもう、ひとりきりのものではなかった。 エルシア・ノクティスがステラ・スターシープへ抱いた印象は、眠たげで掴みどころがないのに、そばにいる者を安心させる不思議な人、というものだった。言葉はゆっくりで、行動もゆっくりだが、その奥には確かな優しさがある。エルシアはそれを、まだうまく言葉にできないまま、大切なものとして受け止め始めていた。 一方、ステラ・スターシープがエルシア・ノクティスへ抱いた印象は、静かで少し寂しそうなのに、決して誰かを見捨てない人、というものだった。近くにいるだけで心が落ち着き、眠りへ向かうことさえ許してくれる。ステラにとってエルシアは、夜の中で迷わず見つけられる、白く静かな星のような存在だった。