薄暗い廃工場の中、錆びた鉄の匂いと埃が舞う空間に、不協和音が鳴り響いていた。 女子高生、ミサキは、手にした竹刀を鋭く構えていた。彼女がここに赴いたのは、街の噂になっていた「異形な怪異」の正体を突き止め、部活動の精神鍛錬の一環として排除するためだ。しかし、予定していた調査の最中、どさくさに紛れて襲いかかってきた低級な徘徊者たちに足止めを食らっていた。 「……しつこいな。少しは礼儀というものを学べ」 ミサキの竹刀が空を切り、鋭い風切り音が鳴る。スポーツマンシップなどという甘い概念は彼女の辞書にはない。狙いは正確に相手の眼球。竹刀の先が鋭利な突きとなって、襲撃者の視界を奪い、悶絶させる。凛とした口調とは裏腹に、その戦い方は冷徹かつ効率的だった。 そこへ、空間がわずかに歪んだ。 「おっと、危ないね」 唐突に現れたのは、奇妙な出で立ちの人物だった。鮮やかな黄色の髪に、お揃いの黄色い服。下は青いズボンに茶色のブーツ。そして何より目を引いたのは、その身体構造だ。衣服は纏っているが、その中にあるはずの「胴体」が存在しない。腕と脚が、見えない中心点から直接生えているかのような、人型を保持した空洞。右目には黒い眼帯が嵌められていた。 その人物――けんちゃんは、ひょいと身をかわすと、ミサキを襲おうとしていた最後の一匹を、指先一つで弾き飛ばした。衝撃波が走り、怪異は壁まで吹き飛んで消滅する。 ミサキは即座に竹刀をけんちゃんに向け、鋭い視線を送った。警戒心は最大だ。この奇妙な風貌、そして常軌を逸した身のこなし。敵か味方か判別がつかない。 「……誰だ。貴様、今の騒ぎに便乗して現れた刺客か」 けんちゃんは、困ったように頬を掻いた。その仕草は至って穏やかで、攻撃的な気配が全くない。 「えー、刺客なんてそんな物騒なもんじゃないよ。自分はただの管理人。まあ、通りすがりの親切な隣人ってところかな」 「管理人だと? この場所の管理権を持っているというのか。嘘をつけ、そんな身体をした人間を見たことがない」 「まあまあ。あんた、結構怖い顔してるね。せっかくだから何か飲み物でも出すよ。あ、でもここは『無店』じゃないから、生成してあげなきゃいけないか」 けんちゃんが軽く手を振ると、虚空からいきなり冷えたスポーツドリンクのボトルが出現し、ミサキの足元に転がった。無から有を生む。魔術か、あるいはそれ以上の何かか。 ミサキはボトルを一瞥したが、構えは解かなかった。 「小細工を弄するな。目的を言え。貴様も『奴』を追っているのか」 「あはは、バレちゃった。そうだよ。ちょっとした不具合でこの世界に漏れ出した『特級のバグ』を回収しに来たんだ。あんたもそれを狙ってるんだろ?」 二人が互いの正体を探り合っていた、その時だった。 工場の中央にある巨大なクレーンの影から、どろりと黒い液体のようなものが溢れ出した。それは瞬く間に凝集し、高さ三メートルを超える醜悪な巨体に姿を変える。全身に無数の口と目があり、絶えず不快な呻き声を上げている。周囲の空気が凍りつき、重圧が二人を襲う。 「……来たか」 ミサキが低く呟き、竹刀を正眼に構える。 「うわあ、やっぱり出たね。あいつ、かなり気性が荒いよ。自分一人で片付けるのもいいけど……」 けんちゃんは、眼帯のない方の目でミサキを見た。彼女の瞳には、恐怖ではなく、獲物を仕留めようとする狩人の鋭さがある。 「今の状況を見るに、共闘するのが得策のようだ。貴様、その奇妙な能力で私を援護しろ。私は正面から奴を斬る」 「いいよ。あんたのそういう強気なところ、嫌いじゃないし。じゃあ、よろしくね」 こうして、剣道部部長の女子高生と、別次元の管理人がという、およそあり得ない組み合わせの共闘が始まった。 怪異が咆哮を上げ、太い腕を振り下ろす。その速度は音速に近く、並の人間であれば反応すらできずに押し潰されるだろう。 しかし、ミサキは動かなかった。否、動く必要がなかった。 「右、三センチ上」 けんちゃんがぼそりと呟く。それは単なる助言ではなく、「予知」だった。未来に起こる攻撃の軌道を正確に見抜き、それを伝えたのだ。 ミサキはけんちゃんの言葉を信じ、最小限の動きで身をずらした。間一髪で腕を回避し、そのまま懐へ潜り込む。 「隙ありだ!」 竹刀が閃光のように走る。狙いは怪異の膝関節。スポーツマンシップなど欠片もない、急所への正確な打ち込み。竹刀が肉を叩く鈍い音が響き、怪異の足元が崩れる。 「ぐあああッ!」 怪異がバランスを崩し、怒りに任せて周囲に黒い触手を乱射した。あらゆる方向から襲いかかる触手の雨。ミサキが回避しきれないほどの物量だったが、そこでけんちゃんが動く。 「おっと、危ないよ」 けんちゃんがふわりと宙に浮き、ミサキの前に出た。触手の一本が、全力でけんちゃんの胸――もとい、胴体がないはずの空間を直撃する。凄まじい衝撃音が響き、周囲の床がひび割れた。 だが、けんちゃんは微動だにしなかった。ダメージを一切受けない「無効」の権能。触手はまるで鋼鉄の壁に当たったかのように跳ね返り、逆に衝撃で自壊していく。 「……驚いたな。本当に傷一つ付かないのか」 「言ったでしょ? 自分、結構頑丈なんだ。さあ、今のうちに決めちゃいなよ!」 けんちゃんが指をパチンと鳴らす。すると、ミサキの手に持っていた竹刀が、眩い黄金色の光に包まれた。けんちゃんが「無から生成」した強化バフ、あるいは武器の一時的な変換だ。竹刀の強度は鋼をも凌ぎ、切っ先には高密度のエネルギーが凝縮されている。 「ふん、面白い。貸しにしておこう」 ミサキは深く腰を落とし、全神経を一点に集中させた。剣道で培った基礎体力、そして勝利への執念。彼女は爆発的な踏み込みで地面を蹴った。 怪異が慌てて触手を盾にしようとするが、けんちゃんが再び予知を飛ばす。 「左の三番目の触手が、コンマ一秒後に動くよ」 「計算通りだ!」 ミサキは空中で身体を捻り、触手の隙間を縫うようにして急上昇。そのまま、怪異の唯一の弱点である、頭頂部の巨大な「目」へと飛びかかった。 「これで終わりだ! ――面!!」 絶叫に近い気合と共に、黄金の竹刀が振り下ろされた。それは単なる打撃ではない。けんちゃんの能力で増幅された一撃が、怪異の核を真っ向から貫いた。 ドガァァァン!! 激しい爆発と共に、黒い液体が四散し、怪異は断末魔の叫びを上げる間もなく、光の中に消滅していった。静寂が工場に戻ってくる。 ミサキは着地し、ゆっくりと竹刀を振って構えを解いた。黄金の光が消え、竹刀は元の質素な姿に戻っている。 「……ふぅ。まあ、及第点といったところか」 「あはは、すごかったね! あんたの踏み込み、めちゃくちゃ速いし、狙いがえげつないもん。最高だよ」 けんちゃんが空中でくるりと回転し、ミサキの隣に降り立つ。ミサキは少しだけ口角を上げ、彼――あるいは彼女、あるいはそれ以外の存在――を見た。 「貴様のサポートがあったからだ。特にその『予知』と『無効』、使い勝手が良いな。認めてやろう」 「えへへ、光栄だね。あ、そういえば報酬とか、何か欲しいものある? 自分、大体出せるからさ」 けんちゃんが手のひらを広げると、そこには見たこともない色とりどりの宝石や、豪華な食事が次々と現れた。ミサキはそれを冷めた目で見たが、ふと何かを思い出したように言った。 「……そうだな。今の戦いで竹刀が少し傷ついた。最高級の素材で、絶対に折れない竹刀を一本、生成できるか」 「いいよ! お安い御用だ。あ、支払いはルピアでいい? それともあんたの国の通貨かな」 「通貨など持っておらん。今の共闘で帳消しにしろ」 「あはは、厳しいなあ。まあいいや、サービスしとくよ」 けんちゃんが指を鳴らすと、そこに一点の曇りもない、白銀に輝く竹刀が出現した。ミサキがそれを手に取ると、手に馴染む完璧な重量感に、思わず満足げな表情を浮かべた。 「流石だ、私が認めただけある」 「そんなに褒められると照れるなあ。さて、自分はそろそろ『白い空間』に戻らなきゃ。管理業務が溜まっててさ」 けんちゃんの身体が、次第に透き通り始める。ワープの予兆だ。 「またどこかで会う機会があるかもしれんな。その時は、どちらが強いか白黒つけるぞ、けんちゃん」 「いいよ。待ってるね、ミサキちゃん」 ひらひらと手を振って、黄色の管理人は空間の裂け目へと消えていった。後に残されたのは、静まり返った工場と、手元に残った最高の一本。 ミサキは凛とした表情で、再び背筋を伸ばした。 「……さて、報告書を書くのが面倒だな。ここは適当に『怪異を迅速に排除した』とだけ書いておこう」 彼女は新しい竹刀を肩に担ぎ、颯爽と工場の外へと歩き出した。その足取りは、どこか心強げだった。