標高1000メートル。空に近い場所にある白い邸宅『アルプス荘』での一ヶ月。血と硝煙に塗れた日常を生きる彼らにとって、そこはあまりにも静謐で、贅沢すぎる「空白の時間」でした。 季節は秋。メタセコイア並木の緩い坂道が、燃えるようなオレンジ色に染まる季節。北アルプスの峻険な稜線が、鏡のような秋空に切り取られて見える絶景の中に、彼らは身を置いていました。 戦いから切り離された一ヶ月間。それぞれの視点から綴られた、滞在後の回想録です。 * 【来栖 刻輪 の回想録】 正直に言って、最初はどう過ごせばいいのか分かりませんでした。僕の身体は、常に誰かの殺意に反応し、最短距離で急所を撃ち抜くために最適化されている。そんな僕にとって、この「アルプス荘」の静寂は、ある意味で一番慣れない戦場のような心地がしました。 けれど、次第に心地よくなっていったんです。特に、中庭の白樺や楓の葉が舞う様子を眺めながら、メイドさんが淹れてくれた温かいお茶を飲む時間は、僕の人生で初めて「何も考えなくていい時間」でした。僕の筋力は、ここではただの「重い荷物を運ぶ便利さ」にしか使われませんでしたね。果樹園でりんごを収穫する時、大人が数人で運ぶような籠を片手でひょいと持ち上げたら、庭師さんが驚いた顔をして笑っていました。 夜、暖炉の火を眺めながら飲んだノンアルコールワインは、驚くほどフルーティーで、喉を通る感覚が心地よかった。大好きなピアノを弾く時間もありました。指先に力を込めすぎないように、ゆっくりと鍵盤を叩く。その音色が広いLDKに響き渡り、ふと隣を見ると、あんなに冷酷な巳波さんが、静かに目を閉じて聴いていたのが印象的です。 北アルプスを望む露天風呂で、冷たい秋風に当たりながら温かい湯に浸かっていると、自分が人間であることを思い出した気がします。僕はもう、誰かの頭蓋骨を砕く必要もないし、ナイフを投げる必要もない。ただの17歳の少年として、この景色を眺めていられる。そんな贅沢が許される場所が世界にあるなんて、信じられません。また、あのメタセコイアの道を歩きたいと思うのは、きっと僕の心が少しだけ、柔らかくなったからだと思います。 【氷見澤 狂花 の回想録】 ……感情が動く、という感覚を忘れていた。けれど、この場所では、時折、胸の奥がわずかに疼くのを感じた。 私は気配を消すことに慣れている。誰にも気づかれず、影のように生きる。けれど、アルプス荘のスタッフの方々は、私がどれだけ気配を消していても、絶妙なタイミングで「お飲み物のお代わりはいかがですか」と声をかけてくれた。私の隠密技術が通用しないのではなく、彼らが私の存在を「自然なもの」として受け入れてくれていた。それが、不思議と心地よかった。 一番好きだったのは、早朝の鍾乳洞と、それに続く果樹園の散歩。ひんやりとした空気と、熟した葡萄の香り。ワインセラーで冷やされた白ワインを一口含んだ時、味覚という感覚が鮮明に蘇った。チーズの濃厚なコクと、冷えたワインの酸味。無機質だった私の世界に、色がついていく感覚だった。 ある日、中庭でお茶会をした。妃羊美さんが寂しそうに私の袖を引いて、無理やり隣に座らせた。私は何も答えなかったし、表情も変えなかったと思う。けれど、彼女が笑いながらケーキを口に運ぶ様子を眺めていたとき、私は自分が、この静かな時間に依存し始めていたことに気づいた。 もともと、私の世界は消音弾のように静かだった。けれど、ここでの静寂は、孤独な静寂ではなく、満たされた静寂だった。北アルプスの山々が夕日に染まる瞬間、私は初めて、明日が来ることを「惜しい」と思った。感情がないはずの私に、この邸宅は残酷なほどの安らぎを教えてくれた。 【銃使い 白井巳波 の回想録】 冷酷で親切。それが私のスタイルだ。だが、この一ヶ月、私はただの「親切な居候」でいられた。狙撃銃を置き、10km先の標的を追う代わりに、庭に実った栗を拾い集める。そんな非効率的な時間の使い方が、これほどまでに贅沢だとは思いもしなかった。 この邸宅の設備は完璧だった。特にLDKにあるバーとビリヤード台。夜、刻輪と二人で競い合ったビリヤードは、狙撃とはまた違うベクトルでの「精密さ」が求められ、心地よい緊張感があった。彼は温厚だが、勝負になるといい顔をする。僕たちは似た者同士なのかもしれない。 特筆すべきは、食事の質だ。地元の新鮮な牛乳の濃厚さと、肉保冷庫から出された最高級の肉。それをBBQ会場で焼き、北アルプスを背景に食らう。贅沢の極みと言えばそれまでだが、胃袋が満たされることで、心まで満たされていくのが分かった。いつもは音響爆弾や閃光弾で敵の感覚を奪うことに心血を注いでいたが、ここでは、ただ秋の風の音や、水車小屋から聞こえる水の音に耳を澄ませるだけで十分だった。 温泉への出入りで、不意に快活に笑う妃羊美や、相変わらずの無表情ながらもどこか緩んでいる狂花を見ていると、不思議な連帯感のようなものを感じた。僕たちは本来、相容れない世界に生きる者たちだが、この「アルプス荘」という特異点においては、ただの休暇を楽しむ仲間でいられた。 チェックアウトの日、メタセコイアの並木道を振り返ったとき、少しだけ胸が締め付けられた。もう二度と戻れないかもしれない。それでも、あの白い邸宅で過ごした時間は、私の人生における唯一の「聖域」として刻まれるだろう。 【野々花 妃羊美 の回想録】 ああ、もう帰りたくない! 本当に、本当に帰りたくないです! 最初は、みんなバラバラで、どう接していいか分からなくて不安でした。だって、みんな強すぎるし、どこか冷たい雰囲気があったから。でも、このアルプス荘の魔法みたいに、一緒に過ごすうちに、みんなの優しいところが見えてきたんです。 私は寂しがり屋だから、誰かと一緒にいたかった。だから、狂花さんの隣にぴったりくっついたり、巳波さんにわがままを言って美味しいお菓子をリクエストしたりしていました。狂花さんは全然反応してくれなかったけど、実は私が隣にいても嫌がらなかったし、巳波さんも呆れながらも全部叶えてくれた。刻輪くんは、いつもニコニコして私の話を聞いてくれたし。そんな時間が、私にとっては何よりの宝物でした。 一番の思い出は、中庭でのティータイム。紅葉が真っ赤に染まって、白樺の白い幹とのコントラストが本当に綺麗で。そこで食べた特製のチーズケーキと、冷え冷えのノンアルコールワイン(私は大人だから本物を飲んだけど!)が絶品だったこと。あと、お風呂! 外湯で北アルプスを眺めながら、「あー、幸せだなあ」って何度呟いたか分かりません。 毒針の鞭なんて、ここでは全く使い道がなかったけど、それでいいんです。誰かを傷つける道具じゃなくて、ただの「私」として、美味しいものを食べて、綺麗な景色を見て、大好きな人たちと一緒に笑い合う。そんな普通の女の子みたいな生活が、こんなに幸せだなんて知らなかった。 水車小屋の横で、みんなでたわいもない話をしながら過ごしたあの午後の光景を、私は一生忘れません。アルプス荘の執事さんとメイドさんも、本当にお母さんやお父さんみたいに優しくて……。今でも、あの白い壁と、メタセコイアの並木の景色を思い出すだけで、涙が出そうになります。いつかまた、みんなでここに戻ってこれますように。それだけが、今の私の唯一の願いです。