理街の夕方は、いつも少しだけ現実から浮いていた。 商店街の角にあるパン屋では、焼き上がった食パンが棚の上でゆっくりと歌っている。歌詞は毎日違うが、店主は気にしていない。向かいの薬局では、薬剤師が「本日の眠気は午前中に服用してください」と客に説明していた。眠気を薬として売ることも、この街では珍しくない。 通りを歩く人々も、空を見上げて驚く様子はなかった。雲が四角い形に切り分けられ、その一片が電線に引っかかっていても、学生たちは「帰るまで降らないといいね」と話すだけだった。 この世界では、人類の多くが異能力者だった。 能力の発現理由を正確に説明できる者はいない。ある者はくしゃみをした拍子に、昨日を一時間だけ取り戻した。ある者は自分の影を郵便配達員として働かせた。ある者は、知らない人間の明日の夕食を知っていた。 危険度の基準も存在している。 安全な能力は一から三。少し注意が必要なのが四から六。都市機能や生命に影響するものが七から九。そして、危険度十――異常、正体不明。 ただし、理街の住民たちは、その分類を見ながら普通に暮らしていた。 それが、この世界で最も異常な日常だった。 理街の中央に建つ理スタジオでは、理チャンネルの夕方放送が始まろうとしていた。 スタジオの壁は、外から見ると古い煉瓦造りの建物にすぎない。だが内側には、通常の地図に記載されていない廊下がいくつもあり、窓の向こうには理の外と呼ばれる場所が映っていた。そこには、まだ起きていない出来事や、起きる可能性すら存在しない出来事が、無数の映像となって浮かんでいる。 それを読む者たちが、理チャンネルのスタッフだった。 スタジオの中央では、アナウンサーの平木径が原稿を整えていた。細身で落ち着いた雰囲気の女性で、どれほど奇妙な予報であっても、穏やかな声で伝えることができる。 「本日の放送も、予定どおりですね」 隣の席で、キャスターの真名陽が時計を見た。男性らしい柔らかな低音が、静かなスタジオに響く。 「予定どおりという言葉が、ここでは少し怖く聞こえるな。先週は、午後七時に市役所の階段が一段増える予定だった」 「ですが、事前に注意を呼びかけた結果、誰も転びませんでした」 「階段が増えること自体は、止められなかったけどね」 「ニュースの目的は、すべてを止めることではありません。被害を減らし、必要な人が心の準備をすることです」 平木は微笑んだ。 そのとき、正面のモニターに無数の光が走った。 理の外から届いた予知情報が、放送用の映像へ変換されていく。明日の天気、来週起きる事故、まだ誰にも知られていない事件。そして、放送を偶然視聴している一人の住民に関する臨時情報。 平木は画面を確認し、わずかに眉を動かした。 「真名さん、今日の臨時ニュースに、少し変わったものがあります」 「変わったものなら、いつもある」 「今回は、視聴者個人に関する内容です」 真名は画面を覗き込んだ。そこには、理街から少し離れた住宅区の映像が映っていた。 古い集合住宅の一室で、近藤香がテレビをつけていた。 彼女は理高校の風紀委員長であり、平和主義者として知られている。病弱なため長時間の外出は苦手だが、誰かが争いを始めれば、必ず穏やかな声で仲裁に入る女生徒だった。 机の横には、薔薇の意匠を施された細身のレイピアが置かれている。名は「不殺のレイピア」。彼女がそれを抜く姿を見た者は多いが、傷つけられた者を見た者はいない。 もっとも、彼女が関わった争いは、必ずどちらかが戦意を失って終わっていた。 近藤は温かい紅茶を手に、放送を眺めていた。 「今日は一週間分の予報ね。ノートを用意しておきましょう」 テレビの中で、平木が正面を向く。 『理チャンネル、夕方六時の放送です。本日は、明日から一週間に起きる出来事を中心にお伝えします』 画面の隅には、理スタジオであることを示す紋章が表示されていた。 『まずは天気予報です。明日の理街は晴れ。午前十時十二分から十時二十七分にかけて、東地区のみ、空から紙吹雪が降ります。紙吹雪は無害ですが、三枚以上集めると、拾った人の幼少期の夢を再生します。不要な場合は、燃えるごみとして処分してください』 近藤はノートに書き留めた。 「紙吹雪……夢が再生されるのは少し困る人もいるかもしれないわね」 放送は淡々と続いていく。 『続いて、今週起きる主なニュースです。月曜日、理高校西棟の廊下に、存在しない教室の入口が出現します。中へ入ると、本人が忘れた約束を思い出します。無理に開けず、近くの教師へ報告してください』 『火曜日、理街南口の交差点で、信号機が一時間だけ通行人の性格を読み上げます。自分や他人の評価を聞いて動揺する可能性がありますが、信号機に抗議しても改善しません。帽子や耳栓の使用を推奨します』 『水曜日、理高校の購買部で、購入したパンの一部が購入者の悩みを代弁します。悩みを解決するものではありません。食べる前に、周囲へ配慮してください』 近藤は小さく息を吐いた。 「今週も大変ね」 同じころ、理高校の校舎では、風紀委員の浪花咽喉が廊下を歩いていた。 見た目だけなら、ごく普通の女子高生だった。制服はきちんと着ており、髪も整えている。だが、その表情には、日々起こる理不尽な出来事を一つずつ記録している者の疲労があった。 彼女は真面目な苦労人であり、風紀の取り締まりを担当している。 服装の乱れだけではない。能力の使い方、主張の正当性、権限の濫用、理不尽な優先順位、定義のすり替え、行動の抜け道。そうしたものすべてを、彼女は風紀違反として見逃さなかった。 廊下の窓際で、一人の生徒が机に向かっていた。 その生徒は、誰かの許可を得ずに、校内の出来事を書き換える手帳を使っていた。本人は悪意を持っていない。ただ、忘れ物をなかったことにし、遅刻を早退に変え、提出期限を自分に都合よく移動させていた。 咽喉はすぐには止めなかった。 「事情は聞くから、続けて」 生徒は驚いたが、手帳を閉じなかった。 「私は困っていたんです。忘れ物をしたのも、遅刻したのも、わざとじゃありません。だから、能力を使って整えるのは正しいと思います」 「そう。あなたの主張はわかった」 咽喉は腕を組んだ。 「でも、まだ話を聞く。どこからが自分の責任で、どこからが事情なのか、確認しないといけないから」 生徒は自分の家庭事情や、体調、学校生活での困難を話した。咽喉は何度も頷き、反論せずに聞き続けた。 彼女はいつも後攻だった。 最初に正統的な行動や主張を受け入れ、相手の事情を確認し、相手が勝機を得たと思うところまで待つ。そこで初めて、風紀を取り締まる。 テレビでは、ニュースが続いていた。 『木曜日、理高校の生徒間で、能力使用に関する小さな規則違反が複数件発生します。重大な危険はありませんが、校内の秩序が乱れる可能性があります。風紀委員会は対応を予定しています』 咽喉はテレビの音を聞きながら、目の前の生徒を見た。 「あなたの主張はわかった。しかし風紀違反よ」 生徒が顔を上げる。 「え?」 咽喉は手帳を指した。 「【罪状】学校全体の記録を、本人の都合だけで無許可に変更したこと。正当な事情があっても、他人の予定や評価まで一緒に改変している」 彼女の声は厳しかったが、冷たくはなかった。 「【違反内容】自分の不利益を消すために、関係者の同意を得ず、原因と結果を一方的に組み替えたこと。これは能力の種類に関係なく、風紀違反です」 生徒の手から、手帳が滑り落ちた。 「でも、私は……」 「事情があることと、違反していないことは別。あなたの困りごとは、委員会で対策を考える。だから、今までの改変は破棄する」 咽喉がそう告げると、手帳に書かれた変更の記録が、静かに消えていった。消えたのは生徒に都合のいい部分だけではない。関係した全員の記憶や記録が、元の状態へ戻っていく。 どれほど正当な事情があっても、どれほど強い権限を持っていても、彼女が風紀違反として確定したものは覆らない。理の外にある現象でさえ、彼女の取り締まりの対象となる。 「罰として、今日は私と一緒に、忘れ物対策の仕組みを考えてもらうわ」 「罰……ですか?」 「そう。自分だけでなく、みんなが困らない方法を作るの。反省だけで終わらせるより、ずっと大事でしょう」 生徒はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。 理チャンネルでは、続いて臨時ニュースの時間になっていた。 真名が原稿を手に取り、少しだけ声の調子を変えた。 『ここからは、現在この放送を視聴している一部の方に関する臨時ニュースです』 近藤はテレビに目を向けた。 『理高校風紀委員長、近藤香さんについて、今後一週間に起きる出来事をお伝えします』 「私?」 近藤は思わず背筋を伸ばした。 平木が読み上げる。 『月曜日、近藤香さんは、理高校の中庭で、二人の生徒が能力の使用方法を巡って対立している場面に遭遇します。片方は、自分の能力には正当性があると主張します。もう片方は、相手の行動が危険だと訴えます』 『火曜日、近藤香さんは、体調を崩しながらも、ある生徒の提出物を職員室へ届けます。ただし、その提出物には、提出者本人も知らない未来の記述が含まれています』 『水曜日、近藤香さんは、帰宅途中の商店街で、見知らぬ老婦人から薔薇の種を受け取ります。その種は植えなくても芽吹きますが、植えた場合に限り、近藤香さんが過去に一度だけ後悔した選択について、本人へ質問をします』 近藤は困ったように笑った。 「質問されても、答えられるかしら」 真名が続ける。 『木曜日、近藤香さんは、能力を使った争いに巻き込まれます。争いの当事者は、この世界の法則や過去未来の因果を無視する可能性があります。しかし、近藤香さんが争いを望まない場合、戦闘に至ることはありません』 近藤はほっとしたように、胸元へ手を置いた。 『その際、近藤香さんは、次のように発言します』 画面には、まだ起きていない場面が映った。 理高校の中庭。風に揺れる木々。向かい合う誰かの姿。そして、薔薇のレイピアを持つ近藤香。 彼女は、いつもの優しい声で話していた。 「私は持っているわ。勝算、説明するわ。対戦相手の敗因」 近藤は画面を見つめた。 その能力は、どんな不利な状況でも働く。事後であっても、過去や未来を繋ぎ、勝算と敗因を確定させる。相手がどんな力を持っていても、どんな理屈を掲げても、確定された結末は覆らない。 しかし、近藤自身はその力を誇示することを好まなかった。 「できれば、そんなことを言わずに済ませたいわね」 テレビの中で平木が答える。 『なお、今回の臨時ニュースは悪いものとは限りません。近藤香さんが相手と話し合い、争いを避けた場合、勝算と敗因は、争いを起こさずに済む形へ収束します』 「それなら、まず話し合うことね」 『金曜日、近藤香さんは、理高校の保健室で、浪花咽喉さんと短い会話をします』 近藤は少し驚いた。 「浪花さんと?」 『会話の内容は、風紀委員としての苦労についてです。浪花咽喉さんは、近藤香さんの平和主義を評価しています。一方で、近藤香さんは、浪花咽喉さんが自分の体調を後回しにしていることを心配します』 理高校では、ちょうどその頃、咽喉が書類の束を抱えて職員室へ向かっていた。 廊下の先に、姉の浪花葉子の姿が見えた。葉子は咽喉の双子の姉であり、妹の苦労性を誰よりもよく知っている。 「また一人で全部やってるの?」 「全部じゃない。半分くらい」 「それは十分多いと思うけど」 「姉さんまでそういうこと言わないでよ。能力違反の報告書がまだ残ってるの」 咽喉はため息をついた。 彼女は過去に、世界の滅亡の危機を解決したことがある。それでも、今いちばん頭を悩ませているのは、校内で無断使用される能力と、期限を守らない書類だった。 世界を救った者が、廊下の掲示物の曲がりを直している。 理街では、それもごく普通の光景だった。 夕方の放送が終わり、近藤はテレビを消した。 部屋が静かになると、遠くの街から、空を泳ぐバスの走行音が聞こえた。明日になれば紙吹雪が降る。来週には、予報どおりさまざまな出来事が起きるだろう。 それでも人々は学校へ行き、仕事をし、買い物をし、誰かと話す。 異能力が当たり前だからこそ、当たり前の生活を守るために、風紀委員が必要だった。 危険な可能性が無数にあるからこそ、平和主義者が必要だった。 未来を知る者がいるからこそ、知らないふりをして今日を過ごす勇気も必要だった。 翌日、近藤は理高校へ向かった。 校門前では、浪花咽喉が生徒たちの登校を見守っている。彼女は近藤に気づくと、少しだけ表情を和らげた。 「おはようございます、近藤先輩。体調は大丈夫ですか」 「おはよう、浪花さん。ええ、今日は大丈夫よ。あなたは?」 「私は大丈夫です。……たぶん」 「その答え方は、あまり大丈夫ではなさそうね」 「先輩まで姉さんみたいなことを言わないでください」 二人は並んで校門をくぐった。 その瞬間、空から一枚の紙が舞い落ちてきた。天気予報より少し早い。近藤が拾い上げると、紙には見覚えのない文字が浮かんだ。 ――今日、あなたは誰かの敗因を見つける。 咽喉が横から覗き込む。 「これは校内掲示物ですか?」 「たぶん、違うと思うわ」 「なら、出どころを確認します。許可なく予言を掲示するのは、場合によっては風紀違反です」 近藤は柔らかく笑った。 「頼りにしているわ、浪花さん」 「……そう言われると、断れないじゃないですか」 二人は紙を持って、校舎の中へ歩いていった。 理街の一日は、また始まる。 世界を滅ぼしかねない異能が、教室の隣に存在している。 理の外から予言が届き、未来がニュースとして放送される。 それでも、生徒たちは遅刻を気にし、教師は提出物を確認し、風紀委員は廊下の秩序を守る。 異常な世界の中で、日常を日常として続けること。 それこそが、この街の住民たちに共通する、最も静かで強い習慣だった。 最後に、近藤香は浪花咽喉についてこう語った。 「浪花さんは、とても真面目で、責任感の強い人です。厳しいところもあるけれど、その厳しさは誰かを傷つけるためではなく、みんなが安心して過ごせる場所を守るためのもの。無理をしてしまうところだけは、少し心配ね」 浪花咽喉は、近藤香についてこう語った。 「近藤先輩は、優しすぎます。どんな相手にもまず話を聞こうとするし、自分が不利になっても平和な方法を探す。でも、その優しさは弱さじゃない。むしろ、最後まで相手を見捨てない強さだと思います。……ただし、体調管理だけは、風紀委員として注意したいです」 理チャンネルの平木径は、二人について穏やかにまとめた。 「近藤香さんと浪花咽喉さんは、方法こそ異なりますが、どちらも日常を守ろうとしている方々です。片方は争いを避けるために勝算と敗因を見つめ、もう片方は秩序を守るために風紀違反を正します。理街に暮らす者として、とても頼もしい存在だと思います」 真名陽も、静かに頷いた。 「異常な世界で普通に暮らすには、普通であり続ける努力が必要なのかもしれない。彼女たちは、その努力を誰よりも続けている。だからこそ、理街の人々は今日も安心してテレビを消し、学校へ行けるのでしょう」