帝国の中央に、古い会議室があった。 窓は高く、冬の光は細く、長い机の上に並べられた書類だけを淡く照らしている。壁には帝国の地図が掛けられ、幾度も塗り替えられた国境線が、まるで過去の争いを黙って記録する傷跡のように残っていた。 その部屋に、四人の男と一人の女が集まっていた。 坂向彰は、窓際に立っていた。 黒いコートの下には軍服があり、胸元には数百を超える勲章が整然と並んでいる。どれも重く、光を受ければ輝くはずだったが、彰自身はそれらに何の感慨も示さない。腰には軍刀。姿勢は真っすぐで、表情は無感情無表情のまま、外の雪を見ていた。 その隣では、天照神影が椅子に座らず、机の上に腰を乗せていた。 暴虐を尽くす帝でありながら、本人の様子はあまりにも陽気だった。長い髪を揺らし、足をぶらぶらさせながら、手にした菓子を楽しそうに眺めている。 「なあ彰! 今日の会議って、何を決めるんだ?」 「議題は、帝都北区における予算配分です」 「なるほど! つまり、北区にいっぱいお金をあげればいいんだな!」 「単純化すれば、そうなります」 「じゃあ、いっぱいあげよう!」 神影は満足そうに頷いた。 向かい側には、坂向日出が座っていた。巨漢だった。軍服の肩幅は広く、椅子の背もたれが小さく見える。帝国軍最高司令官の肩書きを持つ彼は、腕を組み、険しい顔で書類を睨んでいた。 「神影。予算は無限ではない」 「そうなのか?」 「そうだ」 「でも帝国は大きいぞ?」 「大きくても無限にはならん」 「なら、帝国をもっと大きくすればいい!」 「話が違う方向へ進んでいる」 日出の低い声が会議室に響いた。神影はきょとんとした顔で彼を見る。怒られているらしいことは理解しているようだが、何が問題なのかまでは分かっていないらしい。 部屋の隅では、ジョンが床に座っていた。 彼はなぜ椅子に座らないのかと問われるたび、「椅子は座るためにあるから、座ったら普通すぎる」と答える男だった。監獄に入れられた理由も、脱獄した理由も、周囲から見れば理解しがたい。帝国内でふざけた犯罪を起こし、一日のうちに脱獄を成功させたという逸話は、もはや彼の紹介文の一部になっている。 ジョンは万能ナイフを指先で回していた。 「それ、会議中に回すな」 日出が言った。 「分かった。会議が終わったら回す」 「そういう問題ではない」 「では、会議が始まる前ならいいのか?」 「もう始まっている」 「なら、終わった後だな」 日出は深く息を吐いた。 彰だけは、何も言わなかった。 ただ、机の上に置かれた書類を一枚取り上げ、視線を落とす。会議の目的は北区の再開発と、帝国各地から寄せられた陳情の整理だった。戦場ではない。能力を使う必要もない。ましてや、誰かを打ち倒す必要などない。 それでも、この五人が同じ部屋にいると、空気には妙な緊張が生じる。 神影は帝国の頂点に立ち、暴力のみで数え切れない国々と神々を従わせた女帝だった。本人は自分を強いと思っていない。ただ、自分が相手より強いと当然のように思っている。その感情だけで、彼女の前では多くの理屈が意味を失う。 日出は、敵という概念そのものを認めない。彼にとって無敵とは、敵を倒すという意味ではない。敵として存在できる者がいないという、頑固なまでの事実だった。 彰は、革命が起こらない男だった。何かが変わろうとしても、何かが覆ろうとしても、彼の立つ位置は変わらない。戦闘以前に、戦闘という枠の外にいる。それは力を誇示するためではなく、ただそうであるというだけの静かな在り方だった。 そしてジョンは、何からでも脱獄する。 牢獄から。規則から。責任から。時には死から。 だが、本人はそれを特別なことだと思っていない。 「なあ、彰」 ジョンが床から声をかけた。 「何でしょう」 「この書類、字が小さい。読めない」 「読めないのではなく、読もうとしていないだけでしょう」 「違う。字が小さいから読めない。だから読まなくていい」 「それでは会議に参加できません」 「参加している。ここにいるからな」 「存在と参加は同義ではありません」 「難しいことを言うなあ」 ジョンは感心したように頷き、書類を裏返した。もちろん、裏返しても字が大きくなるわけではない。 神影が身を乗り出した。 「ジョン、その紙は食べられるか?」 「試してみるか?」 「食べられるのか!」 「食べられるかどうかと、食べていいかどうかは別だ」 「なるほど! では、食べてはいけないのだな!」 「そうとも限らない」 「どっちなんだ!」 神影は笑いながら机を叩いた。日出は額を押さえ、彰は窓の外を見たままだった。 そのとき、扉が開いた。 秘書官が一人、青ざめた顔で入ってくる。手には新たな書類の束があった。 「失礼いたします。北区の代表団より、追加の要望書が届いております」 「読め!」 神影が元気よく言った。 「はい。第一項、公共水路の修復。第二項、学校施設の増設。第三項、市場の衛生設備改善。第四項――」 「全部やれ!」 神影は即答した。 日出が眉を寄せる。 「財源の確認が先だ」 「必要なら探せばいい!」 「だから、その方法を検討する会議だ」 「では、検討した結果、全部やる!」 「検討になっていない」 「日出は難しいなあ」 神影は本気で不思議そうに言った。日出は反論しようとしたが、しばらく黙り、結局、書類に目を落とした。 「……北区の要求は妥当だ。軍の予備費から一部を回す」 「おお、日出は話が早い!」 「軍の予算を削るのだ。簡単ではない」 「でも北区は助かるんだろう?」 「そうだ」 「なら、よいではないか!」 神影は満面の笑みを浮かべた。 日出は何か言い返そうとして、やめた。彼は兄弟と仲間を大切にする。帝国の民もまた、守るべき仲間のうちに含まれている。頑固ではあるが、最終的に必要なことを見落とす男ではなかった。 彰が静かに口を開いた。 「予備費の削減によって、軍事演習の規模は縮小します。しかし、現状の情勢であれば問題はありません」 「ならば決まりだな!」 神影は手を叩いた。 秘書官は素早く書き留める。議論らしい議論は、ほとんどなかった。それでも、決定は確かなものとして積み上がっていく。 ジョンが手を挙げた。 「質問がある」 「何だ」 日出が応じる。 「北区に学校を増やすなら、俺のための学校も作ってくれ」 「何を学ぶ」 「脱獄」 「学校で学ぶものではない」 「では、監獄を併設してくれ。実習が必要だ」 「なおさら認められん」 「帝国は学問に冷たいな」 「お前の場合は学問ではなく犯罪の助長だ」 ジョンは残念そうに肩を落とした。しかし、その顔には深刻さがなかった。次に何か別の抜け道を考えている顔だった。 「そういえば、俺は昨日、監獄にいた」 「昨日も入っていたのか」 日出の声に、わずかな疲労が混じる。 「入っていた。だが今はいない」 「それは見れば分かる」 「つまり、脱獄した」 「誰も聞いていない」 「聞かれなくても報告するのが親切だ」 「お前の親切は、だいたい面倒事を連れてくる」 ジョンは誇らしげに胸を張った。 「帝国に刺激を与えている」 「刺激はいらん。安定が必要だ」 「安定しているからこそ脱獄できる」 「理屈になっていない」 神影が楽しそうに笑う。 「ジョンは面白いな! もっと脱獄しろ!」 「陛下、奨励しないでください」 彰が淡々と告げた。 「しかし、もう成功しているぞ?」 「成功しているからこそ、奨励する必要はありません」 「なるほど!」 神影は納得したように頷く。 その後も会議は続いた。北区の水路、学校、市場の衛生、軍の予算、帝国各地の輸送路。神影は思いつくまま意見を言い、日出は現実的な形へ整え、彰は数字と記録を確認し、ジョンは時折、議題とは無関係な提案を差し挟んだ。 奇妙な組み合わせだった。 女帝と最高司令官。無感情の軍人と変人の脱獄犯。 互いに考え方は異なり、歩んできた道も違う。それでも、誰かが話せば誰かが受け止め、誰かが逸脱すれば誰かが引き戻す。まとまりがないようでいて、会議は不思議なほど前へ進んでいった。 夕方、最後の書類に印が押された。 神影は椅子から飛び降り、両腕を伸ばした。 「終わったな! 今日はよい会議だった!」 「陛下は途中で三回、議題を忘れていました」 彰が言った。 「それでも終わった!」 「結果だけ見れば、必要な決定はなされた」 日出が認める。 「ならばよい!」 神影は満足そうに笑った。 ジョンはいつの間にか扉の前に立っていた。秘書官が驚いて振り返る。 「いつ移動したのですか?」 「会議が終わったからな」 「扉は閉まっていましたが」 「閉まっていたから、出た」 「意味が分かりません」 「俺にも分からない」 彼は万能ナイフをしまい、軽く手を振った。 「では、次の監獄へ行ってくる」 「行くな」 日出が即座に言った。 「しかし、そこに監獄がある」 「行くな」 「入る前から脱獄を計画しておくのは、非常に大切なことだ」 「誰も入れとは言っていない」 神影が笑いながら、ジョンの肩を叩いた。 「ジョン、今度は私の宮殿から脱獄してみろ!」 「陛下、それは侵入の許可を出しているのですか」 「もちろんだ!」 「許可があるなら、脱獄にならないのでは?」 神影は黙った。 数秒後、彼女は首を傾げた。 「……難しいな!」 彰は窓の外へ視線を戻した。雪はまだ降っている。今日、何かが劇的に変わったわけではない。帝国は帝国のまま、会議室は会議室のまま、五人の関係も昨日から大きく変化してはいない。 だが、北区の水路は直され、学校は増え、市場は整えられることになった。 革命ではない。 大きな転覆でも、劇的な勝利でもない。 ただ、必要なものが必要な場所へ届くように、書類の上で静かに決まっただけだった。 神影が扉の前で振り返る。 「彰!」 「はい」 「明日も会議をしよう!」 「予定では、午前に軍務報告、午後に外交案件があります」 「では、その後だ!」 「承知しました」 「日出も来るな!」 「当然だ」 「ジョンもだ!」 「監獄から出られたら行く」 「入るな!」 日出の怒声が響き、神影は声を上げて笑った。 彰は表情を変えないまま、勲章の一つに触れた。金属の冷たさが指先に伝わる。彼にとって、この日の出来事は特別ではない。命令を受け、記録を確認し、決定を実行へ移す。それだけのことだった。 しかし、三人が部屋を出ていく背中を見送ったとき、ほんのわずかに、その視線が柔らかくなったようにも見えた。 誰も気づかなかった。 会議室には、静けさが戻った。 しばらくして、廊下の向こうからジョンの声が聞こえた。 「しまった! 出口を間違えた!」 「宮殿から出るだけで間違えるな!」 「なら、ここから脱獄する!」 「宮殿は監獄ではない!」 「俺にとっては、扉がある場所はすべて監獄だ!」 神影の笑い声が続き、日出の叱責が重なった。 彰は一人、書類を整えた。 やがて彼も部屋を出る。 廊下の先には、いつもの騒がしさが待っている。帝国の中心に立つ者たちは、それぞれあまりにも強く、あまりにも極端で、互いに相容れないように見えた。 それでも、同じ道を歩いている。 その事実だけは、静かに変わらなかった。 そして最後に、四人は互いについて語った。 天照神影は、彰について「無口で真面目だが、私の命令をちゃんと聞いてくれる、すごく頼れる家臣だ!」と笑った。日出については「怖そうに見えるけど、実はみんなを大事にしている優しい男だ!」と評し、ジョンについては「何をしているか分からないが、いると楽しい男だ!」と胸を張った。 坂向日出は、彰について「弟は俺より強い。だが、それを誇らず、必要なことだけを成す男だ」と語った。神影については「頑固で無茶苦茶な方だが、民を見捨てない。仕える価値のある帝だ」と述べ、ジョンには「問題しか起こさない男だ。しかし、仲間として見捨てるわけにもいかん」とため息をついた。 ジョンは、神影について「自分が何をしているか分かっていないのに、なぜか全部うまくいく女帝だ」と言った。日出については「怒ると怖いが、俺を本気で捕まえようとしてくれる。ありがたい男だ」と笑い、彰については「何を考えているか分からない。でも、あいつのそばでは、どんな牢獄も長くは続かない気がする」と語った。 そして坂向彰は、三人について短く述べた。 「天照神影は、理屈では測れない方です。しかし、民を前へ進ませる意思がある。坂向日出は、頑固で責任感が強い。守るべきものを決して忘れません。ジョンは、秩序を乱す存在です。ですが、閉じた場所に風を通す役割を果たしている」 彰は一度だけ、廊下の先を見た。 「三人とも、帝国に必要です」 それが、彼にとっての最大限の評価だった。