夕暮れの街道に、からからと車輪の音が響いていた。 道の端に寄せられた大きなリヤカーには、色とりどりの瓶、奇妙な形の箱、用途の分からない金属片、古びた巻物が整然と並べられている。屋根の下には、モコモコした服を着た銀髪の少女が座っていた。 白雪柊奈は、荷台の隅で難しい本を開いている小柄な少年を、じっと見下ろしていた。 「……まだ読むの」 「はい。あと少しで、この章の『境界』についての説明が終わるんです」 アルムは本から顔を上げた。童顔のせいか、年齢よりも幼く見える。けれど、その碧い瞳には、書物の内容だけではなく、世界そのものを見ようとするような深い光があった。 「境界って、場所と場所の間にあるもの?」 「それも含まれます。でも、僕が気になっているのは、もっと曖昧な境界です。夢と現実、知識と理解、偶然と必然……そういうものの間にある境目です」 「難しい話」 「難しいから、面白いんです」 アルムはそう言って、少しだけ得意そうに笑った。 柊奈はジト目のまま、彼の本を覗き込む。数秒ほど黙っていたが、やがて本を閉じるように指先で表紙を押さえた。 「休憩」 「えっ。あの、でも……」 「夕食の時間。商人は、同行者を飢えさせない」 「僕はそこまでお腹が空いていないです」 「そう言う人ほど、食べると普通に食べる」 「……観察力が高いですね」 「商人だから」 柊奈はリヤカーから小さな鍋を取り出した。いつの間に用意したのか、温かな湯気が立ち上っている。香草と野菜の匂いに、アルムの腹が小さく鳴った。 彼は気まずそうに本を抱え直す。 「今のは、その……本の音です」 「本は鳴かない」 「知っています」 「じゃあ、食べて」 差し出された器を、アルムは両手で受け取った。 「ありがとうございます。……あの、柊奈さん」 「なに」 「僕、こういうふうに誰かと食事をするのは、あまり慣れていなくて」 「知ってる」 「どうしてですか?」 「食べる前に、料理の構成を三回確認した」 「毒物や薬品が混入していないか確認するのは、合理的な行動です」 「疑ってるわけじゃない」 柊奈は、自分の分の器を取りながら淡々と言った。 「慎重なのは分かってる。だから、気にしなくていい」 「……はい」 アルムは少しだけ頬を緩めた。彼がこうして素直に返事をすると、普段の冷静さよりも年相応の幼さが目立つ。 二人はしばらく、黙って食事をした。 沈黙は不思議と重くなかった。遠くで鳥が鳴き、風が草を撫でる。柊奈は食事の合間に、荷物の整理をしていた。瓶を一本ずつ確認し、布で包み直し、傷がないか確かめていく。 「柊奈さんの商品は、どれもかなり高品質ですね」 「そう」 「単なる旅商人が扱うには、性能が過剰です。傷を一瞬で治す薬、遠距離移動の巻物、特殊な鉱石加工品……市場に出せば、大きな騒ぎになります」 「だから、あまり市場に出さない」 「やはり、利益が目的ではないんですね」 「珍しい物と、面白い話。お金は、そのための手段」 「合理的です」 「アルムは、珍しい物より話のほうが好きそう」 「どうして分かるんですか?」 「面白い話をしている時、目が明るい」 アルムは器の中身を見つめた。 「……そんなに分かりやすいですか?」 「かなり」 「では、気をつけないと」 「どうして?」 「僕の興味を利用されるかもしれないので」 柊奈は、ほんの少し口元を上げた。 「利用するなら、もっと分かりやすくする」 「えっ?」 「アルムは、面白い話をしてくれたら、対価を払うタイプでしょう」 「対価というのは……お金ですか?」 「お金以外でもいい」 柊奈は銀髪を指先で払った。碧い瞳が、冗談とも本気ともつかない温度でアルムを見る。 「珍しい本とか、知らない知識とか。場合によっては、もっと別のものでも」 「別のもの?」 「大人の取引」 アルムは数秒黙り、それから視線をそらした。耳が少し赤い。 「……その、僕は大人の取引について、十分な知識がありません」 「知識はあるのに、経験はない」 「そういう言い方をすると、僕がとても未熟に聞こえます」 「未熟とは言ってない」 「でも、僕は異性との距離感には、あまり自信がありません」 「近い?」 柊奈はそう言いながら、少しだけアルムのほうへ身を寄せた。 「ち、近いです」 「嫌?」 「嫌というわけでは……ただ、心拍数が変化するので、状況の分析が難しくなります」 「それ、困ってる顔じゃない」 「困っています」 「かわいい」 「……柊奈さんは、時々、評価の基準が独特です」 アルムは困ったように眉を下げた。しかし、本当に嫌がっているわけではないらしい。むしろ、慣れてきた相手にしか見せない、甘えるような表情がわずかに浮かんでいた。 「でも、僕は柊奈さんのことを信用しています」 「急に真面目」 「真面目な話です。柊奈さんは、相手が困ることを無理に押しつけない。僕の反応を見て、止めるべきところでは止めている」 「よく見てる」 「探究するのが僕の性質なので」 「じゃあ、私のことも探究してる?」 「はい」 即答だった。 柊奈は珍しく瞬きをした。 「どこまで分かったの」 「柊奈さんは気だるそうに見えて、実際には周囲への注意が細かいです。商売の際には相手の欲しいものだけでなく、隠している事情まで見ています。それから、珍品を集めているようで、物そのものより、その物にまつわる物語を好んでいる」 「……」 「違いますか?」 「続けて」 「面白い話を聞く時、柊奈さんは相手の言葉より、言葉を選ぶ間を見ています。だから、嘘そのものより、嘘をつく理由に興味がある。たぶん、珍しい商品を売る時も、相手の願いが本当にその商品で満たされるのか確認している」 柊奈は黙ってアルムを見ていた。 「そして、たぶん……」 アルムは少し考え、慎重に言葉を選んだ。 「柊奈さん自身も、誰かに自分のことを理解してほしいと思っているのではないでしょうか」 風が吹いた。 荷台の布が揺れ、瓶の中の液体が淡く光を返す。 柊奈はしばらく何も言わなかった。アルムは不安そうに彼女の顔を見る。 「……外しましたか?」 「半分」 「半分ですか」 「理解されたい。でも、全部は嫌。面白くないから」 「なるほど。完全な理解は、未知を失わせる」 「そう。アルムも同じでしょう」 「僕は……そうかもしれません」 アルムは本を胸に抱き、少しだけ目を伏せた。 「僕は世界の真相を知りたい。でも、すべてが分かってしまったら、次に何を探せばいいのか分からなくなる気もします」 「矛盾してる」 「はい。僕は矛盾が好きです」 「変な子」 「よく言われます」 「褒めてる」 「……では、受け取っておきます」 二人の間に、今度は小さな笑いが落ちた。 食事を終えると、柊奈はリヤカーの中から一枚の古い紙片を取り出した。羊皮紙には、円環と三本の線が複雑に描かれている。 「これ、今日手に入れた」 「見せてもらっても?」 「交換条件」 「僕に払えるものなら」 「感想」 「感想ですか?」 「面白い感想なら、無料」 アルムは紙片を受け取った。しばらく眺め、角度を変え、指で触れずに目だけで細部を追う。 「これは地図ではありません。地図に似ていますが、場所ではなく、概念の関係を示している。円環は循環する時間、三本の線は観測者、対象、記録……ただし、中央の空白が不自然です」 「空白が重要?」 「はい。記されていないのではなく、記してはいけないものを表している可能性があります。あるいは、そこに到達した観測者が、観測結果を持ち帰れなかった」 「面白い」 「それだけですか?」 「十分」 柊奈は紙片を受け取り、満足そうにしまった。 「ねえ、アルム」 「はい」 「明日、北の街に行く。そこで、古い時計を持ってる人に会う」 「時計ですか?」 「逆向きに針が進む時計。持ち主は、時間を失ったことがあるらしい」 アルムの目が輝いた。 「ぜひ同行させてください」 「最初からそのつもり」 「本当ですか?」 「面白い子を連れていくと、面白い話が増える」 「僕は子供ではありません」 「子供っぽいところはある」 「否定はできませんが……」 アルムは本を抱えたまま、柊奈の隣に座った。さっきより距離が近い。それに気づいているのかいないのか、彼は気にせず地図を覗き込んでいる。 「柊奈さん」 「なに」 「北の街に着いたら、その時計の話を最初に聞きたいです」 「商談の前に?」 「はい。もし持ち主が時間を失った理由を話したくないなら、無理に聞きません。でも、話せる範囲で構わないので」 「優しい」 「平等なだけです。誰もが、自分の話をする権利と、しない権利を持っていますから」 「そういうところ、好き」 柊奈はあまりにも自然に言った。 アルムの動きが止まる。 「……す、好きというのは、どの意味でしょうか」 「面白い子として」 「そうですか……」 安堵したような、少し残念そうな、複雑な表情だった。 柊奈はそれを見て、喉の奥で小さく笑う。 「アルムは?」 「僕ですか?」 「私のこと。どう思ってる」 夕闇が二人の周囲に広がっていく。遠くの街に灯りがともり、リヤカーの瓶が淡く反射した。 アルムはすぐには答えなかった。何度も言葉を組み立て直し、最後には、飾らない答えを選んだ。 「柊奈さんは、近くにいると少し落ち着きません。でも、不思議と離れていると気になります。知識が豊富で、観察力が高くて、商人としても優秀です。それに……僕が知らないものを、たくさん見せてくれる」 「それで?」 「僕にとって、信頼できる同行者です。たぶん、友人に近い存在で……できれば、これからも一緒に旅をしたいです」 柊奈はアルムを見つめた。 「素直」 「僕は、真相を求める時は遠回しにしません」 「普段もそうだといいのに」 「努力します」 柊奈は立ち上がり、リヤカーの紐を整えた。それからアルムの頭に手を置き、銀髪の間から覗く碧い瞳を見下ろす。 「アルムは、賢くて、慎重で、変なところに正直。面白い。話していて飽きないし、放っておくと食事を忘れるから、連れて歩く理由もある」 「最後の理由は、少し不本意です」 「でも本当」 「……否定できません」 「明日も隣にいて」 「はい」 アルムは、柊奈の手が離れてからも、しばらくその場に座っていた。 「柊奈さん」 「なに」 「明日の朝食も、作ってくれますか?」 いつもの丁寧な口調の中に、わずかな甘えが混じっている。 柊奈は目を細めた。 「対価次第」 「では、北の街へ向かう道中で、僕が今日読んだ本の内容を説明します」 「もっと面白いもの」 「……では、僕が今までに見た、不思議な現象の話をします」 「それなら、朝食付き」 「本当ですか?」 「約束」 アルムは嬉しそうに笑った。 夜の街道に、再び車輪の音が響き始める。 珍品と物語を求める旅商人と、世界の不思議を追いかける少年。二人の旅は、まだ始まったばかりだった。