オオタ管理区の午後は、いつも少しだけ騒がしい。 表通りでは配送車の警笛が鳴り、裏路地では誰かが口論をし、区役所前の広場では子どもたちがボールを追いかけている。高層建築の窓に反射した光が街を白く照らし、制服姿の人々がそれぞれの持ち場へ急いでいた。 その喧騒の中を、栄田華は気怠げに歩いていた。 茶色のボブヘアが肩先で揺れる。警察官の制服はきちんと整っているが、本人の歩き方には緊張感がない。片手には書類の束、もう片方の手には紙コップのコーヒー。黒い片手袋を着けた手で、華は書類の端を軽く叩いた。 「報告書、あと二枚かぁ……」 呟きながら、彼女は大きく欠伸をした。 怠けているように見えても、仕事を放り出しているわけではない。華は面倒ごとほど早く片づける主義だった。後回しにすれば、いずれ倍になって戻ってくる。そうなるくらいなら、気分が乗らなくてもさっさと終わらせたほうがいい。 それが彼女の信条だった。 管理区の詰所へ戻ろうとしたところで、前方から長い青髪の女性が歩いてくるのが見えた。警備会社の制服を着た、ひときわ目立つ長身の人物だ。輝く橙色の瞳が、昼の光を受けて明るく揺れている。 「こんにちは、栄田さん!」 女性は遠くからでも分かるほど朗らかに手を振った。 華は片手だけを上げて応じる。 「どうも。今日はこっちだったんだ、堂安さん」 「はい! 商店街の巡回です。ちょうど休憩に入ったところで、栄田さんを見かけたので」 「見かけたからって、わざわざ寄ってくる?」 「もちろんです。栄田さんと会うと、何となく安心しますから」 堂安友奈は、屈託なく笑った。 その笑顔は、ただ明るいだけではない。相手の言葉を待つ余裕があり、周囲の人間を自然に会話へ引き込む力があった。華のように、どこか距離を取る態度とは正反対だ。それでも二人が話していると、不思議と空気が噛み合った。 「安心ねぇ。私、そんなに頼れそうに見える?」 「見えますよ。何があっても、最後にはきちんと収めてくれそうです」 「買いかぶりじゃない?」 「いいえ。現場の方々がそう言っていました」 「現場の人たち、余計なこと言ってない?」 華は肩をすくめた。表情は気怠げなままだったが、口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。 友奈はその変化を見逃さなかった。だが、指摘することはしない。彼女は人の小さな反応を、無理に引き出そうとはしなかった。 「そういえば、今日は何か食べましたか?」 「コーヒー」 「それは食事ではありません」 「でも温かいし、腹に入るし」 「栄田さん、またそれだけですか?」 「またって言われてもねぇ」 友奈は困ったように眉を下げた。華はその顔を見て、わざとらしく視線を逸らす。 「そんな顔しないでよ。あとで食べるから」 「本当ですか?」 「たぶん」 「たぶんでは困ります」 「じゃあ、努力目標」 「それも少し違います」 友奈が真剣に言い返すので、華は小さく吹き出した。普段の彼女は、周囲から何を言われても適当に受け流している。しかし友奈の心配は、押しつけがましくない。だからこそ、華も完全には流せなかった。 通りの向こうで、子どもたちの歓声が上がった。広場では、数人の子どもがサッカーボールを追いかけている。ボールが一人の少年の足元へ転がると、少年は慌てて蹴り返した。狙いは大きく外れ、近くの植木へ飛んでいく。 友奈はそちらへ顔を向けた。 「楽しそうですね」 「堂安さんも、休日はああいうのやってるんでしょ」 「はい。草サッカーです。人数が足りないと、よく呼ばれるんですよ」 「人気者だねぇ」 「皆で遊ぶのが好きなだけです」 友奈は広場を見つめながら、柔らかく笑った。 「昔は、皆で同じことをするのが苦手でした。自分だけ違うことばかり起きて、周りを傷つけてしまって……」 華は紙コップを持つ手を止めた。 友奈の過去について、詳しい話を知る者は多くない。だが、彼女が能力を制御するために長い努力を重ねたことは、警備業界でも知られていた。並外れた身体能力を持ちながら、それを誇示することなく、技術と鍛錬を何より重んじる。その姿勢は、彼女自身が歩んできた道のりと無関係ではないのだろう。 「それで、サッカー?」 「はい。テレビで試合を見たんです。誰かが誰かへボールを渡して、受け取った人がまた別の誰かへ繋ぐ。その動きが、とてもきれいで」 友奈は両手を軽く動かしながら語った。 「私も、あんなふうに皆と一緒に何かをしたいと思いました。自分だけができることではなくて、皆が真似できる技術を身につけたい、と」 「なるほどねぇ」 華はそう返したが、視線は友奈から外さなかった。 「それで、あんなに上手くなったんだ」 「まだまだです。上手な人はたくさんいますから」 「その謙虚さ、少し分けてほしいな」 「栄田さんは、もう十分に堂々としていると思います」 「私が?」 「はい。現場で誰よりも落ち着いています」 華は一瞬、返事をしなかった。 街では、彼女に関する噂がいくつもある。どこから来たのか、以前は何をしていたのか、なぜ能力者絡みの現場でいつも制服を汚さずに帰ってこられるのか。誰も確かな答えを知らず、しかし誰も深く追及しない。警視長が黙認していることも、皆が薄々理解していた。 華自身も、その話題を好まない。 けれど友奈は、知りたいという顔をしなかった。ただ、今ここにいる華を見ている。 「堂安さんってさ」 「はい?」 「人のこと、あんまり聞かないよね」 「聞いてはいけないこともありますから」 「それ、警備員としてどうなの?」 「必要なことは確認します。でも、話したくないことまで聞くのは違うと思います」 友奈は穏やかに答えた。 「誰かが今、ここで頑張っている。それだけで、尊重される理由になると思います」 華はコーヒーを一口飲んだ。すでに少し冷めていた。 「……そういうところ、眩しいんだよねぇ」 「眩しいですか?」 「うん。直視すると眠くなる」 「褒められている気がしません」 「褒めてる、褒めてる」 二人の間に、短い沈黙が落ちた。 遠くで子どもたちが笑い、商店街の店主が店先に商品を並べ直している。風が吹き、友奈の長い青髪を揺らした。華の茶髪も頬にかかり、彼女は黒い片手袋の指先でそれを払った。 「栄田さん」 「なに?」 「もしよければ、今度サッカーを見に来ませんか?」 「やるんじゃなくて?」 「見に来るだけでも大丈夫です。もちろん、参加してもらえたら嬉しいですが」 「私、運動苦手そうに見える?」 「苦手だとは思っていません。ただ、栄田さんは休日まで仕事をしていそうなので」 「失礼だなぁ。休日はちゃんと休むよ」 「どんなふうに休むんですか?」 「寝る」 「それだけですか?」 「寝て、起きて、また寝る」 「……それは少し寂しいですね」 「そう?」 「はい。皆で遊ぶのは、楽しいですよ」 友奈はそう言って、まっすぐ華を見つめた。 その表情には、勧誘の熱意も、同情もなかった。ただ、自分が大切にしているものを、相手にも知ってほしいという素直な気持ちがあった。 華はしばらく黙っていたが、やがて書類の束を脇に抱え直した。 「……暇だったらね」 「本当ですか?」 「だから、暇だったら。仕事が入ったら行かない」 「分かりました。では、予定を伝えておきます」 「律儀だねぇ」 「約束は大事ですから」 華は目を細めた。気怠げな眼差しの奥で、琥珀色の瞳が静かに光る。 「堂安さんは、諦めないね」 「はい。諦めないことだけは、得意です」 「それ、疲れない?」 「疲れることはあります。でも、誰かを見捨てるよりはいいと思っています」 友奈の声は明るかった。それは無理に自分を奮い立たせている声ではない。何度も迷い、傷つき、それでも自分で選び直してきた人の声だった。 華はその横顔を見ながら、ふと、彼女がただ強いだけの人間ではないことに気づいた。強さを持っているから優しいのではなく、優しくありたいと願い続けたからこそ、強さを扱えるようになったのだ。 「……じゃあ、私も一つだけ約束する」 「何でしょう?」 「ちゃんと何か食べる」 友奈の顔がぱっと明るくなった。 「それは、とても大事な約束です!」 「反応が大げさ」 「食事は大事ですから」 「分かった分かった。じゃ、私は詰所に戻るよ。報告書が待ってる」 「はい。私も巡回に戻ります」 二人は広場の前で別れることになった。 華が数歩進んだところで、友奈が呼び止める。 「栄田さん!」 「今度はなに?」 「サッカーの日、忘れないでくださいね!」 華は振り返り、片手をひらひらと振った。 「忘れてたら、また声かけて」 「分かりました!」 「何回でも?」 「何回でもです!」 友奈の返事を聞いて、華は小さく笑った。 その笑みは、誰かに見せるためのものではなかった。気怠げな日常の隙間から、ほんの少しだけこぼれた、素直な表情だった。 友奈もまた、華の背中を見送った。歩き方は相変わらず気だるそうで、仕事へ向かう姿には華やかさなどない。それでも、彼女がいることで周囲の人々が安心している理由が、少し分かった気がした。 やがて華の姿が通りの向こうへ消えると、友奈は明るく息を吐いた。 「栄田さんは、不思議な人ですね」 誰にともなく呟く。 その声には、親しみと信頼が込められていた。 詰所へ戻った華は、机の上に書類を置いた。椅子へ腰を下ろし、ペンを手に取る。すぐに報告書へ目を通し始めたが、ふと机の隅に置かれた予定表へ視線を向けた。 来週末。友奈が参加する草サッカーの予定が、すでに小さく書き込まれている。 「……暇だったら、ねぇ」 そう呟きながら、華は予定表の横にある食堂のメニュー表を手に取った。 まずは、何か食べることにした。 華にとって堂安友奈は、明るくて、真っ直ぐで、少し眩しすぎる人物だった。だが、その眩しさは目を背けたくなるものではない。疲れたときに、進む方向を思い出させてくれる灯りのようなものだった。 一方、友奈にとって栄田華は、気怠げで掴みどころがなく、それでいて誰よりも周囲をよく見ている人物だった。秘密を抱えたままでも、誰かを安心させることができる。何も語らずとも、必要な場所に立ち続ける。その姿は、友奈にとって静かな強さの手本に思えた。 二人は互いに正反対だった。 だからこそ、また会えば自然に言葉を交わせる気がした。