目を開けた瞬間、鼻腔を突き抜けたのは、強烈な消毒塩素の匂いだった。 「……っ、げほっ! なんだ、この匂い……」 天音かなたは、濡れたタイルに身を伏せていた自分に気づき、慌てて身を起こした。視界に飛び込んできたのは、不気味なほどに真っ白な世界だ。壁も、床も、天井も。すべてが新品未使用の白いタイルで覆われ、頭上では蛍光灯が「ブゥーー」という低いハム音を鳴らし続けている。耳障りなその音は、静寂を強調させるための装置のように感じられた。 「ここ、どこ……? ライブの準備してたはずじゃ……」 彼女が周囲を見渡すと、そこには自分以外にも、およそ一緒にいるはずのない奇妙な集団がいた。 まず目に飛び込んできたのは、真っ赤なパーマに黄色いスーツを纏った、ピエロのような男――ドナルドだ。彼は不気味なほど完璧な笑顔を浮かべたまま、自分の手のひらをじっと眺めていた。 「おやおや、これは驚いた。メニューにない場所へ迷い込んでしまったようですねぇ」 その隣には、巨大なトラの姿をした怪獣、サーベルタイダーがいた。しかし、彼は状況を把握しようという気概など微塵もなく、既にタイルの上で丸まり、大きなあくびをしていた。歩くことさえ億劫そうな、究極の怠惰がそこにはあった。 さらに、奇妙な格好をしたステゴサウルスが一頭。懐中電灯付きのヘルメットに万能ゴーグル、そして機能的な探検チョッキを着用している。彼は言葉を発しないが、その鋭い眼差しで周囲の構造を分析していた。 そして、足元の水溜まりには、小さな魚――アンドレオレピスが四匹、ひょこひょこと泳いでいた。一匹は弱そうだが、彼らが群れをなして泳ぐ姿には、どこか得体の知れない威圧感がある。 最後に、ひどく違和感のある男。句読点。彼はただそこに立っていたが、彼が存在するだけで、周囲の「空気」が塗りつぶされているような、あるいは物語の整合性が崩れているような感覚に陥る。 「……あの、皆さん? ここがどこか分かりますか?」 かなたが不安げに問いかける。しかし、返ってきたのはドナルドの軽やかな、しかし温度のない声だった。 「さあて? 案内板もなければ、店員もいません。ただ一つ言えるのは、ここは非常に『清潔』だということですね。お掃除が行き届きすぎていて、吐き気がするほどに」 ステゴサウルスが、静かにヘルメットのライトを点灯させた。白い光が、どこまでも続くプールの通路を照らす。水は透き通っており、底まで見通せるが、その先には出口などない。ただ、不規則に、それでいて規則的に、階段やスロープが入り組み、迷宮のように広がっていた。どこに繋がっているのかも分からない、プラスチック製のカラフルなプールスライダーが、不気味に壁から突き出している。 「ねえ、これってネットで流行った『Backrooms』みたいなやつじゃない? リミナルスペースっていうのかな……」 かなたが呟くが、その問いに答えをくれる者はいない。ただ、脳裏に直接響くような、形のない直感だけがあった。 『正気を保ち続けろ。ここは不気味な程安全だ』 その言葉に、全員が同時に微かな戦慄を覚えた。敵がいないことが、これほどの恐怖になるなどと、誰が想像できただろうか。 「まあいいじゃないですか。とりあえず、歩きましょう。ここにいてもポテトは出てきませんし」 ドナルドがスタイリッシュにステップを踏みながら歩き出した。ステゴサウルスが先頭に立ち、探検家としての本能で道を切り拓く。かなたは不安に押しつぶされそうになりながら、彼らの後を追った。サーベルタイダーは、誰に押されたのか、あるいは流されたのか、ゆっくりと、本当にゆっくりと、一歩だけ足を動かしてついてくる。 アンドレオレピスの群れは、タイルの隙間に溜まったわずかな水の中を、高速で泳ぎながら一行に同行していた。 しばらく歩いていると、風景が変わった。水深が深くなり、腰まで水に浸かって歩かなければならないエリアに出た。水は冷たく、しかし不快ではない。ただ、あまりに静かすぎる。 「静かすぎるね……。誰か、喋ってよ」 かなたが無理に明るい声を出す。すると、隣にいたはずの句読点が、ふと口を開いた。 「…………」 彼は喋らなかった。しかし、彼が視線を向けた方向の空間が、まるで消しゴムで消されたかのように「黒く」塗りつぶされた。彼は【メタ】的な視点からこの世界の違和感を消去しようとしたのかもしれない。だが、この世界の「白さ」は、彼の「黒」さえも飲み込んでしまうほどに広大だった。 「あはは! 面白い方ですねぇ、あなたは。でも、この世界には『オチ』がない。それが一番の退屈ですよ」 ドナルドが笑う。その笑顔は変わらない。サイコパス的な愉悦が、静かなプールに溶け出していた。 その時だった。 「え……?」 かなたが振り返ると、そこには誰もいなかった。 ついさっきまで隣を歩いていたはずのドナルドの姿がない。前を歩いていたステゴサウルスも、後ろで眠そうにしていたサーベルタイダーも、水の中を泳いでいた魚たちも、そして句読点さえも。 「嘘でしょ!? みんな! どこに行ったの!?」 叫び声が、白い壁に反響する。エコーがかかった自分の声が、何度も何度も返ってくる。誰もいない。ただ、遠くで「ブゥーー」という蛍光灯の音だけが鳴り響いている。 かなたはパニックに陥りそうになった。だが、彼女には「天使の輪」がある。精神的な浸食をある程度遮断できているため、完全な狂気に飲み込まれることは免れていた。しかし、孤独という名の猛毒は、ゆっくりと彼女の心を蝕んでいく。 (どうしよう。どうすればいいの。誰か、誰か助けて!) 彼女は走り出した。水の中を、もがきながら。どこへ向かっているのかも分からない。ただ、この真っ白な空間から逃げ出したかった。 一方、ドナルドは別のエリアにいた。 「おやおや、お友達とはぐれてしまいましたか。まあ、これも一種のイベントですね」 彼は一人で、迷路のようなプールの中を歩いていた。目の前には、巨大な円筒形のプールがあり、その中央に謎の柱が立っている。彼はふと思いつき、その場で軽快にステップを踏んだ。 「ランランルー!」 瞬間、周囲の空間が歪み、彼の「領域展開:マクドナルドランド」が展開された。本来であれば敵を拘束し、絶望を与える能力だが、ここには敵がいない。展開されたのは、仮想の質量を持った巨大なバーガーやポテトが舞い踊る、狂気的な遊園地のような光景だった。 「誰もいない世界で領域を展開するなんて、贅沢な使い方ですねぇ」 彼は一人で笑い、自分の分体を次々と生み出した。分体たちが一斉にランランルーを踊る。シュール極まりない光景が、白いタイルの世界を彩る。しかし、その派手ささえも、この世界の不気味な静寂に飲み込まれていく。 さらに別の場所では、ステゴサウルスが冷静に探索を続けていた。彼は【熟達の探検家】として、この場所の構造を分析していた。不規則に配置されたプール、意味をなさない階段。彼は【秘密道具】のチョッキから、高性能な地図作成ツールを取り出し、歩いた道を記録していく。 (……この場所には、明確な『意志』がある。だが、それは攻撃的なものではない。ただ、迷わせたいだけだ) 言葉こそ持たないが、彼の思考は極めて論理的だった。彼はふと、足元に小さな魚の一匹が迷い込んできたのに気づいた。アンドレオレピスだ。群れから離れ、不安そうに跳ねている。 ステゴサウルスは静かに、その魚をチョッキのポケットの中の小さな水槽に移した。そして、再び歩き出す。彼にとって、この探索は一種のパズルであり、心地よい挑戦だった。 一方、サーベルタイガーは、そのまま寝ていた。 彼はある広いプールサイドにたどり着いたところで、ちょうど良い日当たりのような(実際には蛍光灯だが)場所を見つけ、そのまま深く眠りに落ちた。1日に20時間寝る彼にとって、この静寂は天国のようなものだった。たまに隣に通りかかったナマケモノ(どこから来たのかは不明だ)と、互いの存在を認め合うように、静かに鼻を鳴らして眠り続けた。 そして、句読点。 彼は、この世界の「ルール」を書き換えようと試みていた。彼が指を弾くと、目の前の白い壁が【黒塗り】され、一時的に空間に穴が開いた。しかし、その穴の向こうに見えたのは、さらなる「白い部屋」だった。 「…………(終わらないな)」 彼は呆れたように呟いた(実際には声を出さなかったが、そういう意味の空気を出した)。彼は【四コマ漫画】のスキルを使い、自分自身の移動を「起承転結」で管理しようとした。起:歩き出す。承:加速する。転:空間を跳躍する。結:目的地に到達する。 しかし、この世界には「結(オチ)」が存在しない。彼がどれだけ跳躍しても、たどり着くのは常に似たような白いプールだった。メタ能力を持つ彼にとって、この「意味のなさ」こそが最大の攻撃だった。 そうして、数日、あるいは数時間。時間の概念さえも曖昧な場所で、彼らは彷徨い続けた。 再び、かなたがドナルドと合流した。二人は水の中でお互いを見つけ、かなたは泣きながら彼に抱きついた。 「ドナルドさん! よかった、いたぁー!!」 「おやおや、かなたんさん。ずいぶんとお疲れのようですね。ハッピーセットでもいかがですか?」 ドナルドは相変わらずの笑顔で、どこからともなくポテトの箱を取り出した。その不気味さは相変わらずだったが、今のかなたにとっては、その不気味さこそが「現実」を感じさせる唯一の救いだった。 やがて、彼らはステゴサウルスと再会し、そしてゆっくりと歩いてきたサーベルタイダーと、静かに佇む句読点とも合流した。アンドレオレピスの群れも、ステゴサウルスに助けられた一匹をきっかけに、再び四頭揃って彼らの周りを泳ぎ始めた。 「みんな、揃ったね……。でも、ここからどうやって出るの?」 かなたが不安げに問う。ステゴサウルスが、ゴーグルを調整し、ある方向を指し示した。彼の【熟達の探検家】の能力が、かすかに「出口」の気配を察知したのだ。 彼らは再び歩き出した。もう、最初はあんなに怖かった白い世界も、どこか懐かしく感じ始めていた。まるで、子供の頃に見た夢の続きを歩いているような、不思議な安堵感。 そして、彼らはついにそれを見つけた。 真っ白な壁の中に、一点だけ、ひどく不自然な「木目のドア」が立っていた。 ドアには、手書きの、少し震えた文字でこう書かれた張り紙が貼られていた。 『Exit』 「あ……出口だ……」 かなたが震える手でドアノブに触れる。ドナルドは満足そうに頷き、句読点は無表情に、サーベルタイダーは大きなあくびをしながら、ステゴサウルスは静かに頷いた。 一人、また一人と、そのドアをくぐっていく。 最後に残ったかなたが、振り返って白い世界を見た。そこには、不気味なほど安全で、残酷なほど清潔な、静寂の世界が広がっていた。彼女は小さく「さよなら」と呟き、ドアを閉めた。 ――ガチャン。 気がつくと、かなたは自分のベッドの上にいた。 天井には見慣れた照明があり、部屋には自分の好きなグッズが並んでいる。窓の外からは、現実の街の喧騒が聞こえてくる。 「……夢、だったのかな」 彼女は起き上がり、大きく伸びをした。しかし、ふと、自分のパジャマの裾に、小さな白いタイルの破片がついていることに気づく。そして、鼻腔の奥に、かすかに消毒塩素の匂いが残っていた。 彼女は、あの奇妙な仲間たちのことを思い出した。不気味な笑顔のピエロ、物静かな恐竜、怠惰な虎、正体不明の男、そして小さな魚たち。 「不思議な夢だったなぁ……」 彼女は微笑みながら、再び心地よい眠りに落ちていった。現実という名の、騒がしくも愛おしい世界の中で。