灰色の空から絶え間なく降り注ぐ冷たい雨が、廃墟と化した工業地帯を濡らしていた。錆びついた鉄骨と崩れたコンクリートの壁が、迷宮のように入り組んでいる。そこは本来、誰も足を踏み入れてはならない「禁域」であり、同時にある「標的」が潜伏している場所であった。 ソ連国家保安委員会(KGB)第1総局直属特殊部隊「ヴィンペル」の隊長、イヴァノフ大佐は、軍帽の庇をわずかに下げ、冷徹な眼差しで周囲を走査していた。仕立ての良い士官服は雨に濡れ、重厚な黒と金の装飾が施されたサーベルが腰で鈍い光を放っている。彼の目的はただ一つ。国家の安全を脅かす異端の存在を「処分」すること。国家への絶対的な忠誠心こそが、彼の行動原理であり、精神的な支柱であった。 しかし、作戦の途中で不測の事態が起きた。正体不明の武装集団による、あからさまな襲撃である。彼らは軍の正規兵ではなく、かといってただの匪賊でもない、どこか不気味な気配を纏った連中だった。 「……雑音が多いな」 イヴァノフは低く呟くと、襲撃者が放った銃弾の軌道を、超人的な観察眼で瞬時に読み取った。彼は回避せず、あえて前進する。突き出されたサーベルが空を切った瞬間、敵の銃撃の軌跡と完全に一致する角度で刃が振るわれた。スキル『相殺』。銃弾は物理的な衝撃と共に両断され、その勢いのままイヴァノフの刃は先頭にいた男の喉元を深く切り裂いた。 絶叫すら許さない冷酷な一撃。だが、敵の数は多い。四方から押し寄せる襲撃者に対し、イヴァノフが次なる「鎮圧」に移行しようとした、その時だった。 空から、鋭い風を切る音が響いた。 「おっと、お邪魔して悪いね。でもここの掃除は俺の担当なんだわ」 軽薄とも取れる砕けた声と共に、銀色の閃光が戦場を駆け抜けた。それはスノーボードのような形状をしたハイテク機器――グライダーに乗り、空を舞う一人の美少年だった。由霊志岐である。 志岐はグライダーからビームユニットを展開させ、正確無比な援護射撃を叩き込む。光の奔流が襲撃者たちの足を止め、混乱させた隙に、志岐は空中で鋭い回転を加えると、愛刀「黒龍・無名」を抜き放った。一閃。真空の刃が襲撃者の集団をまとめて切り裂き、彼らは血の海へと沈んだ。 静寂が戻った。雨音だけが響く中、二人の男が対峙した。 イヴァノフはサーベルを正眼に構え、鋭い視線で志岐を射抜く。一方の志岐は、グライダーでゆっくりと地面に降り立つと、刀を肩に担ぎ、フランクに片手を挙げた。 「やあ。助け合いってやつ? 礼を言うよ、おじさん」 「……おじさん、か。不躾な口調だ。貴様、どこの所属だ。この区域はソ連国家保安委員会の管轄下にある。許可なく立ち入った罪、および不審な武装の所持。即座に身分を明かせ」 イヴァノフの声は氷のように冷たい。相手が少年であろうと、彼に容赦はない。志岐は苦笑いし、わざとらしく肩をすくめた。 「あー、まあ、俺は『掃除屋』の第零班班長、由霊志岐。地球っていうか……まあ、ちょっと違う世界から来た旅人みたいなもんでさ。ここの『ゴミ』を片付けに来ただけだよ」 「掃除屋……聞いたこともない組織だ。平行世界などという妄言、私の観察眼が許さない。貴様はスパイか、あるいは未知の工作員か」 互いに警戒心は最大に達していた。イヴァノフは相手の重心、呼吸、視線の動きから、この少年がただの子供ではなく、極めて危険な熟練の戦士であることを瞬時に見抜いていた。対して志岐も、目の前の軍人が纏う圧倒的な殺気と、一切の隙がない構えに、心地よい緊張感を覚えていた。 (このおじさん、マジでヤバいな。冗談が通じないタイプだ) 志岐が内心でそう思った瞬間、大気が激しく震動した。廃墟の中央にある巨大な冷却塔が、内側から爆発したかのように弾け飛ぶ。凄まじい衝撃波が二人を襲い、土煙が舞い上がった。 煙の中から現れたのは、異形のものだった。身長三メートルを超える巨躯に、全身を黒い甲殻のような皮膚で覆われた怪物。その手には、物質を分解する不気味な紫色の電撃がまとわりついており、眼窩には理性など欠片もない、純粋な破壊衝動だけが宿っていた。この地を汚染し、世界を崩壊へと導く特異点――今回の二人の共通の標的である。 怪物は咆哮を上げ、その衝撃だけで周囲のコンクリート壁を粉砕した。その圧力に、普通の人間であれば精神が崩壊し、膝をつくだろう。 だが、イヴァノフは眉一つ動かさず、サーベルを握り直した。志岐はふっと口角を上げ、黒龍・無名を構える。 「……どうやら、目的は同じらしいな」 イヴァノフが低く、しかし断定的に言った。 「あはは、正解! まあ、あんな化け物を相手にするなら、一人より二人の方が効率いいしね」 「勘違いするな。協力などという甘い言葉を使うつもりはない。貴様を信頼しているわけではない。ただ、今は奴を排除することが最優先だ。効率的に、冷酷に、確実に……。それだけだ」 「はいはい、厳しいねぇ。じゃあ、どっちが先に奴のパーツをバラせるか競争しようか」 作戦会議などという時間は必要なかった。二人は同時に、異なる方向から怪物を 향かって跳躍した。 先手を打ったのは志岐だ。グライダーを加速させ、上空から急降下する。同時に、グライダーから火炎放射を最大出力で噴射。猛烈な火炎の渦が怪物を包み込み、視界を奪う。 「今だ!」 志岐が叫ぶと同時に、空中でブレイドディスクを数枚放出した。超高速回転する円盤が、火炎の壁を突き抜けて怪物の四肢を切り刻む。しかし、怪物の再生能力は異常だった。切り裂かれた部位が瞬時に癒え、逆に紫色の電撃を帯びた拳が志岐を捉えようと振り下ろされる。 「遅いな」 その拳が志岐に届く直前、銀色の閃光が割り込んだ。イヴァノフのサーベルが、怪物の電撃を帯びた拳の軌道に完璧に重なる。スキル『相殺』。電撃の衝撃をそのまま利用し、刃が甲殻を断ち切り、怪物の腕を根元から深く斬り裂いた。 「なっ……!?」 志岐が驚愕した瞬間、イヴァノフはそのまま地を蹴り、超高速の連撃へと移行する。スキル『鎮圧』。目にも留まらぬ速度で、斬撃と突きが怪物の全身を襲った。前方、後方、上方、下方――あらゆる方向から同時に放たれるように見える無数の刺突。怪物が怯み、防御の隙が生じたその一瞬を、イヴァノフの観察眼は見逃さなかった。 「処分する」 鋭い突きが、怪物の胸部にある唯一の弱点――核となっている結晶体を正確に貫通した。凄まじい衝撃音が響き、怪物が絶叫を上げる。 だが、敵はまだ死んでいなかった。核を貫かれたことで、怪物は暴走状態に入った。全身から紫色の電撃を全方位に放射し、周囲のすべてを消し飛ばそうとする大爆発を引き起こしたのだ。 「チッ、やりすぎか!」 志岐が瞬時に反応する。グライダーで後方へ飛び退きながら、空中に小さな黒い球体を形成した。スキル『黒渦』。小規模なブラックホールが、怪物が放った電撃の大部分を吸い込み、被害を最小限に抑える。しかし、それでも至近距離にいたイヴァノフは、電撃の余波をまともに受け、士官服を焼き、後方へ弾き飛ばされた。 「大佐!」 志岐が叫び、即座にグライダーで駆け寄る。イヴァノフは地面を転がりながらも、即座に身を起こし、サーベルを杖代わりにして立ち上がった。肩から血が流れ、服はボロボロになっているが、その瞳に宿る冷徹な光は衰えていない。 「……気にするな。この程度、国家への忠誠心で十分耐えられる」 「冗談言ってる場合じゃないでしょ! ちょっとじっとしてて」 志岐が右手をかざすと、柔らかな光がイヴァノフを包み込んだ。スキル『回復』。深い切り傷と電撃による焼傷が、まるで時間を巻き戻したかのように瞬時に消えていく。イヴァノフは自分の体を確認し、わずかに眉をひそめた。 「……不可思議な能力だ。だが、助かった」 「いいよ、貸し一つってことで。さて、あいつの『本気』が来るぞ」 怪物は、もはや元の形を留めていなかった。全身が紫色のエネルギー体へと変貌し、周囲の空間さえも歪ませている。もはや物理的な攻撃は通用しない領域に達していた。怪物は巨大なエネルギーの塊となり、二人を同時に圧殺せんとして、天高くから巨大な光柱を撃ち下ろした。 逃げ場はない。回避不能な広範囲攻撃。だが、イヴァノフは逃げなかった。彼は静かに目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。周囲の空気の振動、エネルギーの流動、そして数秒後に訪れるはずの絶望的な衝撃。そのすべてをデータとして処理し、最適解を導き出す。 (見えた) スキル『処分』。イヴァノフの瞳が見開かれたとき、そこには数秒先の未来が映っていた。光柱が降り注ぐ瞬間の、わずか数センチの「隙間」。 「志岐! 右へ3メートル、そして跳べ!」 「えっ!?」 指示に疑問を持つ間もなく、志岐は本能的に指示に従った。直後、猛烈な光柱が二人を飲み込もうとしたが、イヴァノフがサーベルを特殊な角度で振り抜いた瞬間、光の奔流が真っ二つに割れた。完璧な受け流し。エネルギーの衝突を相殺させ、むしろその力を利用して反撃の軌道へと変換する。 「今だ! 行け!!」 イヴァノフが咆哮した。彼は自分自身の全エネルギーをサーベルの一撃に込め、光の裂け目へと突き立てた。同時に、志岐がグライダーを最大加速させ、黒龍・無名に全精神を集中させる。ビームユニットが最大限の出力を出し、イヴァノフの切り裂いた隙間に、志岐の超高速の一閃が重なった。 「黒龍――無名!!」 黄金の斬撃と漆黒の刃が交差した。二つの異なる世界、異なる信念を持つ男たちの攻撃が、一点において完全に同期する。 轟音と共に、怪物のエネルギー体は内側から崩壊し、白い光となって霧散していった。後に残ったのは、静まり返った廃墟と、激しい雨に打たれる二人の男だけだった。 静寂が訪れる。イヴァノフは静かにサーベルを鞘に収め、乱れた軍帽を直した。志岐はふう、と大きなため息をつき、刀を鞘に納めてグライダーに飛び乗った。 「ふぅ……。いやー、びっくりした。おじさん、意外といいコンビだったね」 「……二度と、私をそんな風に呼ぶな」 イヴァノフの声は相変わらず冷たいが、そこには先ほどまであった鋭い敵意は消えていた。彼は志岐の方を一度だけ見ると、背を向けて歩き出した。 「任務完了だ。貴様のような正体不明の存在を放置しておくのは、国家保安委員会の規律に反する。本来ならここで拘束すべきだが……」 「あ、やっぱり逮捕される? 勘弁してよ」 「……今回は、特例とする。貴様の『回復』と『支援』がなければ、効率的な処分は不可能だった。貸しにしておこう」 イヴァノフは一度も振り返ることなく、雨の中へと消えていく。その背中は、孤独でありながら、揺るぎない忠誠心に支えられた強固な壁のように見えた。 志岐はそれを見送りながら、小さく笑った。 「貸し、ねぇ。まあいいか。またどっかの世界で会ったら、今度は奢ってもらおうかな」 少年はグライダーを急上昇させ、灰色に染まった空の向こうへと、軽やかに消えていった。