意識が浮上した瞬間、最初に感じたのは鼻を突く強烈な塩素の匂いだった。 冷たい。硬い。そして、あまりにも白い。 クロンは、ゆっくりと瞼を開いた。視界に飛び込んできたのは、どこまでも続く白いタイルの天井と、不気味なほど均一な白光を放つ蛍光灯の列だった。耳の奥で、「ブーン」という低いハム音が絶え間なく鳴り響いている。静寂を強調するためのノイズのような、神経を逆なでする音だ。 「……ここ、どこ……?」 震える声で呟き、クロンは体を起こした。彼女が横たわっていたのは、やはり白いタイル張りの床だった。周囲を見渡すと、そこは巨大なプールのようだった。だが、泳ぐための施設というよりは、水に満たされた迷宮に近い。 足元には、透き通った水が静かに湛えられている。水深は浅い場所もあれば、底が見えないほど深い場所もある。壁はすべて同じ白いタイルで覆われ、継ぎ目さえも完璧に揃っている。新品未使用の展示場のような、生活感の一切ない無機質な空間。そして、どこから来てどこへ繋がっているのか分からない、淡い色のプラスチック製プールスライダーが、不自然な角度で壁や天井を貫通し、複雑に絡み合っていた。 「……っ! だ、誰か! 誰かいませんか!」 臆病な少女、クロンはパニックに陥りそうになりながら叫んだ。しかし、返ってくるのは自分の声がタイルに反射して跳ね返る、空虚なエコーだけだった。 「おやおや、賑やかなお目覚めですこと!」 突然背後から聞こえた、あまりにも場違いなハイテンションな声に、クロンは悲鳴を上げて飛び上がった。 「ひゃあああ!!」 振り返ると、そこにはド派手な羽織を身に纏った、異様な存在感を放つ人物が立っていた。ボンクレーである。彼は腰に手を当て、大げさな身振り手振りでクロンを見下ろしていた。 「あらあら、そんなに怖がらないでちょうだい! あちしも今起きたばかりなのよ。ここは一体どこのスパかしら? お肌に良さそうな匂いだけはするけれど、あまりに殺風景すぎてお洒落じゃないわね!」 「あ、あの……あなたは?」 「あちしはボンクレー! 愉快なオカマよ! あんた、震えてるわね。大丈夫、あちしがついてるわ!」 ボンクレーの圧倒的な陽気さに、クロンの緊張がわずかに緩んだ。しかし、状況は何も変わっていない。ここは一体どこなのか。もしかして、最近ネットで噂に聞いていた「Backrooms」のような場所なのだろうか。あるいは、誰かの悪質な悪夢なのか。 「……ふむ。なるほど、これは奇妙な空間ですね」 もう一つの声がした。二人が視線を向けた先には、銀色の髪を肩まで流し、薄紫の瞳で周囲を冷静に観察している女性がいた。アリシア・シルヴァーストームだ。彼女は白と銀の魔法使いのローブを翻し、手首の銀の腕輪に手を添えていた。 「アリシア……です。あなたたちも、突然ここに飛ばされたということでしょうか」 「そうみたいね! ねえ、お姉さん、ここどこか心当たりないかしら?」 ボンクレーが馴れ馴れしく問いかけると、アリシアはふっと視線を落とし、隣で震えているクロンを見た。その瞬間、彼女の冷酷なまでに落ち着いた瞳に、年下への抗い難い愛しさが灯った。 (あら……なんて可憐で弱々しい子かしら。守ってあげたい。今すぐ抱きしめてあげたい……!) アリシアの心の中で「お姉さんスイッチ」が入った。彼女はゆっくりとクロンに近づき、慈しむような笑みを浮かべる。 「大丈夫ですよ、小さな子。怖くないです。私がついていますからね」 「あ、ありがとうございます……」 クロンは、アリシアの落ち着いた雰囲気に安心し、しがみつくように彼女のローブを掴んだ。アリシアは内心で歓喜に震えながらも、表面上は理知的な魔女を演じ続けていた。 「……。不思議なところ」 ふわりと、霧のように現れた女性がいた。淡い藤色の長い髪を揺らし、ゆったりとしたカーディガンを羽織ったリニアである。彼女はどこか遠くを見つめるような、非現実的な雰囲気を纏っていた。 「あ、あなたもいたんですね!」 ボンクレーが声をかけるが、リニアはぼーっとした様子で、足元の白いタイルを見つめている。 「水が……とても綺麗。でも、音がない。水が流れているのに、音が聞こえない気がする。ここは、記憶の底にあるプールのよう。懐かしいけれど、一度も来たことがない場所」 「リニアさん、でしたっけ。哲学的なことはいいですから、まずは脱出する方法を考えましょう」 アリシアが冷静に促したその時、グループの最後の一人が姿を現した。重厚な足音がタイルに響き、一人の男が歩いてくる。竜の角を持つ、黎天の竜人ルアである。彼は疲れ切った、あるいは悟りきったような表情で、深くため息をついた。 「……ここが俺の死に場所か」 あまりに絶望的な台詞に、一同に戦慄が走る。 「ちょ、ちょっと! いきなり不吉なこと言わないでちょうだい!」 ボンクレーが突っ込むが、ルアは気にせず、天井の蛍光灯を見上げた。 「不気味なほど静かだ。敵も、殺気もない。ただただ、白い。これほどまでに『安全』な場所があるとはな。俺のような強者にとって、これ以上の拷問はない。刺激がなく、死ぬきっかけさえ与えてくれない場所だ」 「……死にたいってことですか?」 クロンの純粋な問いに、ルアは悲しげに目を伏せた。 「ああ。だが、どうやらまだ、あちら側へは行けないらしい。運命というやつは、俺にまだ生きろと言っているようだ」 こうして、性格も目的もバラバラな五人が、この「白いプール」に集まった。彼らはまず、状況を把握するために歩き出すことにした。 歩いても、歩いても、景色が変わらない。白い壁、白い床、透き通った水。時折、水深が変わり、腰まで水に浸かって歩かなければならない区間が現れる。水は冷たく、それでいて不快ではない。ただ、消毒液の匂いだけが、ここが「管理された場所」であることを突きつけてくる。 「ねえ、見て! あそこにスライダーがあるわよ!」 ボンクレーが指差したのは、壁から突き出し、天井の穴へと消えていく黄色いスライダーだった。誰が作ったのか、どこへ行くのか分からない。しかし、彼らは他に道がなかったため、それを辿ることにした。 不規則に、それでいて奇妙な規則性を持って配置された回廊。右に曲がれば浅いプールがあり、左に曲がれば階段があり、それを登るとまた同じ白いタイルの部屋に出る。上下左右の概念が曖昧になり、方向感覚が徐々に失われていく。 「……おかしいですね。さっきの曲がり角、三回目に見ました」 アリシアが眉をひそめた。彼女の魔力による探査でも、この場所の果ては見えない。壁の向こうには何があるのか、魔法で感知しようとしても、「何もない」という答えしか返ってこなかった。 「ふふ……。ここは、テセウスの船のような場所かも」 リニアがぽつりと呟いた。 「テセウスの船?」 「ええ。部品を一つずつ変えていって、最後に全部変わったとき、それは元の船と言えるのか……というお話。この場所も、私たちの感覚を少しずつ、この白い世界に塗り替えていこうとしているのかもしれないわ」 その言葉に、クロンは身震いした。正気を保たなければならない。そう直感した。ここは不気味なほど安全だ。敵はいない。だからこそ、精神がゆっくりと溶かされていくような恐怖がある。 「大丈夫よ、クロンちゃん! あちしが最高にハッピーなダンスで、この退屈な空間を盛り上げてあげるわ!」 ボンクレーがくるくると回転し、白鳥のような優雅なステップを踏む。その陽気さは、この静寂に満ちた世界において、唯一の救いのように見えた。 しかし、異変は唐突に訪れた。 ある角を曲がったときだった。ふと、アリシアが振り返ると、隣にいたはずのクロンが消えていた。 「……クロンちゃん?」 そこには、ただ静かに波打つ水面があるだけだった。つい一秒前まで、彼女の小さな手が自分のローブを掴んでいたはずなのに。 「嘘でしょう!? クロン! どこにいるの!」 アリシアが叫ぶ。同時に、ルアも、ボンクレーも、リニアも、周囲に仲間がいないことに気づいた。 散開。意図せず、彼らは切り離された。 一人になったクロンは、パニックで呼吸が荒くなった。周囲を見渡しても、真っ白なタイルと水しかない。誰の声も聞こえない。ただ、「ブーン」という蛍光灯の音だけが、嘲笑うように鳴り続けている。 「嫌だ……! 誰か、誰か助けて!!」 恐怖に耐えかね、クロンは無意識にスキルを発動させた。 「ザ・タイフーン!!」 激しい竜巻が巻き起こり、周囲の水を激しくかき回した。白い壁に水しぶきが激突し、視界が白く染まる。しかし、どれだけ暴れても、この白い空間は傷一つ付かなかった。竜巻が収まった後、そこにはまた、元の静寂と、不気味なほどの清潔さが戻っていただけだった。 クロンはその場にへたり込み、泣き出した。 (どうして……どうしてここに来たの? おうちに帰りたい……。お母さんに会いたい……) 彼女は、もはや自分がどれだけ歩いたのか、どれだけの時間が経過したのか分からなくなった。空もなく、時計もなく、ただ一定の光が降り注ぐ世界。空腹感さえも薄れていく。ただ、正気を保つことだけが、唯一の生存戦略であることに気づいていた。 一方で、一人になったボンクレーは、案外楽観的だった。 「あらあら、サバイバル形式になっちゃったわけね! いいわ、あちしがこの真っ白なキャンバスに、情熱の赤を塗りたくってあげるわよ!」 彼は一人で歌い、踊り、壁に向かって独り言を言い続けた。孤独による精神崩壊を防ぐため、彼は自分自身を「観客」に見立てて、最高のショーを演じ続けた。たまに、誰もいないはずの通路から自分の足音とは違う音が聞こえた気がしたが、彼はそれを「ファンからの拍手」だと思い込むことで正気を維持していた。 ルアは、ただ歩いていた。彼にとって、この静寂は心地よいものでさえあった。孤独に慣れきっている彼は、誰がいようがいまいが、歩く速度を変えなかった。 「……やはり、ここは死に場所としては不適切だ。刺激がなさすぎる」 彼は時折、壁に背を預けて目を閉じる。危険察知の能力が、周囲に敵が一人もいないことを告げている。あまりにも安全。あまりにも無害。だからこそ、彼は自分が生きていることを実感できなくなっていた。彼はあえて、自分の腕を強く噛んだ。痛みが走る。それでいい。まだ意識はある。 リニアは、夢遊病者のように水の中を漂っていた。 「あぁ……。ここは、世界が作り忘れた隙間のような場所」 彼女は、自分の指先をじっと見つめていた。スキル【テセウスの船】を使い、指の先を少しだけ「可変体」に変えてみる。白いタイルに触れると、タイルの質感が指に溶け込んでくる。彼女はこの世界の構造を理解しようとしていた。ここにあるものはすべて、同じ「素材」でできている。色を変え、形を変えているだけで、本質は空虚であると。 「でも、出口はあるはず。だって、ここが『夢』なのだとしたら、覚める瞬間があるはずだもの」 そして、アリシアは、なりふり構わずクロンを探して走り回っていた。 「クロンちゃん!! どこにいるの!!」 彼女の冷酷な仮面は完全に剥がれていた。年下の、あの可憐な少女を一人にしてしまったという後悔と不安が、彼女を突き動かす。途中で、誰もいないプールサイドに、クロンが落としたと思われる小さなリボンを見つけたとき、アリシアは激しく動揺した。 「……絶対に、見つけ出す。見つけ出して、もう二度と離さないくらいに抱きしめてあげるんだから!!」 愛という名の執念が、彼女を突き動かす。アリシアは【シルヴァーストームγ】を小規模に発動させ、風の振動でクロンの声を捉えようと試みた。しかし、この空間は音を吸収し、歪ませる。絶望的な状況だった。 どれほどの時間が経っただろうか。 一日、あるいは一週間。あるいは一分。時間という概念が消失した世界で、彼らはそれぞれ、絶望と希望の狭間を歩き続けた。 あるとき、クロンは、今まで見たこともない「色」を目にした。 真っ白な世界の中に、ぽつんと、茶色の物体があった。 (……え?) それは、木製のドアだった。白いタイルの壁に、不自然に埋め込まれた、古びた木目のドア。 そして、そのドアには、一枚の古ぼけた張り紙が貼られていた。 『Exit』 クロンは、信じられない思いでそのドアに近づいた。震える手で、ドアノブに触れる。冷たい金属の感触。それは、この世界で初めて触れた「現実的な」質感だった。 「……帰れるの?」 彼女がドアを開けた瞬間、眩い光が彼女を包み込んだ。 ――同時に、別の場所で、ボンクレーもまた、踊りながらそのドアを見つけた。 「あら! いいタイミングで幕が降りるわね!」 ルアもまた、諦めたように歩いていた通路の突き当たりに、そのドアを見つけた。 「……ふん。やはり、死なせてはくれないか」 リニアは、ふわりと微笑んでドアノブを回した。 「おやすみなさい、白い世界」 そしてアリシアは、血眼になって走り回った末に、ちょうど今、ドアを開けようとしていたクロンの背中を見つけた。 「クロンちゃん!!!」 「あ、アリシアさん!!」 二人は激しく抱き合い、そのまま一緒にドアの中へと吸い込まれていった。 ――ガチャン。 意識が、急速に遠のいていく。 次に目が覚めたとき、クロンは自分の部屋のベッドの上にいた。カーテンの隙間から差し込む朝日の温かさ。使い古されたシーツの匂い。遠くで聞こえる車の走行音。 「……夢……だったの?」 彼女は自分の頬を触った。そこには、まだ塩素の匂いがかすかに残っているような気がした。そして、不思議と心は穏やかだった。あの不気味なほど安全な場所で、仲間たちと(たとえ離ればなれになっても)共にいた記憶が、温かい心地よさとして残っていた。 一方、ボンクレーは自宅の豪華なベッドで飛び起きた。 「いやぁー! あのお洒落じゃないプール、あちしの美貌がもったいなかったわ!」 ルアは、旅の途中の宿屋で目を覚ました。彼は天井を見つめ、小さく笑った。 「……まだ、死ねないか。まあ、いい。しばらくは、この退屈な現実を歩くことにしよう」 リニアは、午後の日差しが差し込む部屋で、うたた寝から目覚めた。彼女は、自分の指先を見た。そこにはもう、白いタイルの質感はなかったが、彼女はあのアートのような空間を、どこか懐かしそうに思い出していた。 そしてアリシアは、自宅の椅子に深く腰掛け、恍惚とした表情で空を見上げていた。 「あぁ……。あの子、あんなに不安そうな顔をして……。本当に、守ってあげなきゃいけないわ。今度会ったら、もう一度、あんな風に抱きしめてあげなきゃ……」 彼らにとって、それはあまりにも現実的だった夢の記憶。誰に話しても信じてもらえないだろうし、証明する術もない。 けれど、彼らの心の中には、あの真っ白な空間で共有した、奇妙な連帯感が刻まれていた。 不気味なほど安全で、孤独で、そしてどこか懐かしかった、白いプールの迷宮。 彼らは、それぞれの日常へと戻っていく。けれど、いつかまた、あの「ブーン」というハム音が聞こえてきたとき、彼らは互いの存在を思い出すに違いない。