窓の外では、灰色に濁った空からしとしとと冷たい雨が降り続いていた。国家直属の暗殺部隊『鴉』の拠点である邸宅は、外の静寂とは裏腹に、内部にはどこか弛緩した、けれど緊張感の絶えない空気が流れている。 特にリビングルームは、今や特例的な「療養所」と化していた。ソファに深く沈み込み、ブカブカの白いシャツに身を包んでいるのは、情報屋の神崎翔だ。彼が着ているのは彼自身の服ではなく、団長である蓮から「盗んだ」シャツである。サイズが大きすぎるため、肩がずり落ち、白い鎖骨が露わになっていた。 額には冷えピタが貼られ、鼻先には黒いマスク。内気で人見知りな彼がさらに殻に閉じこもったような格好だが、その瞳だけは、隣でタバコを燻らせている男を警戒して泳いでいた。 「……ん。まだ熱あるみたいだな、翔」 低く、どこか愉悦を孕んだ声。黒瀬悠真――コードネーム『クロ』であり、鴉の副長を務める男が、唇に挟んだタバコを指で弾いた。ウルフカットの黒髪が、彼が首を傾げた拍子にさらりと揺れる。黒い半袖から覗く腕は、数多の殺しを潜り抜けてきた強靭な筋肉がついていたが、その表情はいたって明るい。残酷なまでの余裕を湛えた、ドSな笑みだ。 「……っ、こ、こないで……」 翔が消え入りそうな声で呟き、ソファの端へ後ずさる。しかし、逃げ場はない。悠真はゆっくりと、獲物を追い詰める肉食獣のような足取りで距離を詰めると、逃げる翔の腰を片腕で強引に引き寄せた。 「なんだよ、冷たいな。看病してやってんのに。なんなら、もっと効率的に熱を下げる方法があるぜ?」 「……なに、を……ひゃっ!?」 抗議の声は、すぐに短い悲鳴に変わった。悠真が、翔のマスクの隙間を強引に押し上げ、その薄い唇に深く、ねっとりとしたキスを落としたからだ。心拍数が跳ね上がり、翔の顔が真っ赤に染まる。熱のせいか、それとも羞恥のせいか。判別がつかないほどの紅潮だった。 「ん……っ……ふー……。あはは、心臓バクバクじゃん。可愛いな、お前」 悠真が唇を離すと、銀色の糸がわずかに引いた。悠真は満足げに目を細め、翔の耳元で囁く。もはや看病などという名目は建前に過ぎない。彼にとって、この内気な情報屋を翻弄し、困惑させ、翻弄することこそが至上の娯楽なのだ。 「……ばか。……っ、しつこい……っ」 翔は涙目で悠真を押し返そうとするが、体重差も筋力差もある。40kgというあまりに細い体では、62kgの鍛え上げられた身体を動かすことなど不可能に近かった。翔は諦めたように、蓮の大きなシャツに顔を埋めて丸くなる。 「あーあ、もう諦めたか。まあいいや。ちょうど暇だし、なんか面白いことしようぜ」 悠真が思い出したように指を鳴らした。彼が提案するのは、いつだって翔にとっての「試練」である。 「……なに、を……」 「『愛してるゲーム』。知ってるか?」 翔は一瞬、思考を停止させた。情報屋としてあらゆる知識を網羅している彼であっても、このような精神的攻撃に近いゲームは想定外だった。おそらく、相手が「愛してる」と言い続け、先に耐えきれなくなった、あるいは照れて言葉に詰まった方が負けという、精神的な持久戦のことだろう。 「……そんなの、意味、ない……」 「意味があるんだよ。負けた方は、勝った方の言うことを何でも一つ聞く。どうだ? 乗り気じゃない顔してるけど、断ったら……今度はもっと『深い』ところまで可愛がってやるぞ」 悠真の目に、残酷な光が宿る。それは殺し屋としての目ではなく、獲物をいたぶる快楽を求めるドSの目だ。翔は震え上がった。この男が「可愛がる」という時の意味を、彼は身をもって知っている。それがどれほど強引で、どれほど逃げ場のない快楽と羞恥を伴うものであるかを。 「……やる。やれば、いいんでしょ……」 消え入りそうな声で承諾した翔に、悠真は満面の笑みを浮かべた。獲物が罠にかかった瞬間である。 「よし、決定。じゃあ、俺から行くぜ」 悠真はソファに深く腰掛け、翔の顎をクイと持ち上げた。至近距離で視線がぶつかる。黒い瞳が、翔のすべてを暴こうとするかのように見つめていた。 「愛してるよ、翔」 さらりと、まるで日常の挨拶のように言われた。しかし、その声には確かな熱と、逃がさないという執着が混じっている。翔はビクッと肩を揺らし、視線を逸らした。 「……っ」 「お、もう余裕ないか? 続き、行くぞ。愛してる。愛してるよ。お前のそういう、困った顔を見てると、本当にたまらなくなる。愛してるぜ、翔」 悠真の攻撃は速い。そして正確だ。言葉のひとつひとつに、彼なりの「愛」という名の支配欲が込められている。翔は耳まで真っ赤になり、呼吸が乱れ始めた。もともと人見知りで、誰かに強い感情を向けられることに慣れていない彼にとって、この真っ向からの感情攻撃は致命的だった。 (……っ、おかしい。こんなの……っ) 翔は必死に理性を保とうとした。相手は悠真だ。この男は、相手を翻弄することに快感を覚える。ここで照れれば、彼はさらに加速する。負けてはいけない。もし負けて、彼に何を要求されるかと考えただけで、背筋に寒いものが走った。 しかし、悠真の言葉は止まらない。今度は囁くように、耳元で、熱い吐息と共に。 「愛してる。世界で一番、お前をいじめるのが好きだ。愛してるよ、マボロシ」 「…………っ! あ、い……っ」 翔が口を開いた。反撃に出ようとしたのだ。しかし、声が出ない。喉が締め付けられるような感覚に陥り、結局、小さな吐息のような音しか出なかった。 「あはは! 声が出ないか? かわいいなぁ。じゃあ、もう一回。愛してる。お前のその震えてる肩も、潤んだ目も、全部俺のものだ。愛してるぞ、翔」 悠真の攻撃は、もはや言葉の暴力に近いほどの密度の濃い愛情表現へと変わっていた。悠真自身、普段は残酷で冷徹な殺し屋としての顔を持っているが、翔に対してだけは、この歪んだ形での愛情が溢れ出していた。もしかすると、彼自身も気づかないうちに、この小さな情報屋に深く依存しているのかもしれない。 翔は限界だった。心臓がうるさく鳴り、頭の中が真っ白になる。熱のせいか、あるいは目の前の男が発する強烈な色気のせいか。視界がぐらぐらと揺れ、意識が朦朧としてくる。 「……あ、いして……る……」 蚊の鳴くような声で、翔がようやく絞り出した。それは反撃というよりも、もはや白旗を上げたに近い懇願だった。しかし、その言葉を聞いた瞬間、悠真の動きが止まった。 「…………」 一瞬の静寂。悠真は目を見開き、それからゆっくりと、今まで見たこともないような、本当に心から楽しそうな、そしてどこか切なげな笑みを浮かべた。 「……ははっ。お前、今の状況でそれを言うか。反則だろ、それ」 悠真は、我慢できないといった様子で翔を押し倒し、その上に覆いかぶさった。ブカブカのシャツが捲れ上がり、白い肌が露わになる。 「……負け、た……のかな……」 「ああ、負けだ。お前が先に『愛してる』って言ったからな。……いや、俺が負けたのかもな。心臓、うるさすぎるし」 悠真は翔の胸に耳を寄せ、激しく打つ鼓動を聴いた。そこにあるのは、恐怖だけではない。信頼と、彼なりの親愛が混じり合った、速いリズムだった。 「で、勝者の権利行使させてもらうぜ。……今日はもう寝るまで、俺の腕の中から出さない」 「……っ、それは……っ」 「文句ないだろ? お前、風邪ひいてんだから、温めてやるよ」 悠真は強引に翔を抱き寄せ、ソファの上で彼を包み込んだ。翔は抵抗しようとしたが、心地よい体温と、悠真から漂う微かなタバコの香りに、次第に抗う気力を失っていった。 「……蓮さんの、シャツ……汚れる……」 「そんなこと気にしてる場合かよ。……まあ、いいけどな。蓮さんの匂いより、俺の匂いに塗り替えてやるよ」 そう言って、悠真は再び翔の首筋に顔を埋め、いたずらっぽく甘噛みをした。翔は小さく悲鳴を上げ、けれど、その腕から逃げ出すことはしなかった。 外の雨はまだ止まない。けれど、この閉鎖的な空間の中だけは、歪で、けれど確かな熱に満たされていた。殺し屋と情報屋。国家の影で生きる彼らにとって、こうした日常の、くだらなくて、けれど心を満たす時間は、何よりも贅沢な報酬だった。 しばらくして、翔が心地よい眠りに落ちたのを確認した悠真は、その額の冷えピタをそっと指でなぞった。そして、眠る翔の耳元で、ゲームではなく、本心からの言葉を小さく落とした。 「……本当にな。愛してるぜ、翔」 その言葉に応えるように、翔は夢の中で小さく身悶えし、より深く悠真の胸に潜り込んだ。それは、彼なりに返した「愛してる」の答えだったのかもしれない。 静かなリビングに、雨音だけが響き続けていた。そこに漂うのは、独占欲と依存、そして誰にも邪魔されない二人だけの、静謐な時間だった。 * 【お互いに対する印象】 黒瀬 悠真 → 神崎 翔 「最高に可愛いおもちゃ。翻弄して困った顔を見るのが人生最大の快楽。でも、本当は誰にも触れさせたくないし、ずっと俺の腕の中で震えていてほしい。こいつの不器用なところがたまらなく愛おしい。」 神崎 翔 → 黒瀬 悠真 「すごく怖くて、意地悪で、最低な人。……でも、不思議と安心する。強引すぎるけど、隣にいると自分がここにいていいんだって思える。本当は、もっと甘えてもいいと思っているけど、恥ずかしくて絶対に言えない。」