理街の朝は、世界が滅びかけた翌日とは思えないほど穏やかだった。 空には、昨日まで存在しなかった第二の太陽が浮かんでいる。商店街の時計は、針を三本とも別々の方向へ進めていた。通学路の電柱には「本日、重力は通常営業です」と書かれた貼り紙があり、その下で猫が一匹、地面から三十センチほど浮いたまま眠っている。 それでも、理高校の生徒たちは誰も騒がなかった。 騒いだところで遅刻するからだ。 「お姉ちゃん、靴ひもが左右で違うわ」 校門前で、浪花咽喉はため息をついた。 隣に立つ双子の姉、浪花葉子は、右足に上履き、左足に長靴を履いていた。本人はまったく気にしていない。片手には購買で買った焼きそばパン、もう片手には見覚えのない赤い風船を持っている。 「えっ、そうなん? 今日って雨の日やろ?」 「晴れているでしょう」 「でも風船が雨やって言うてるで」 「風船は喋っていないわ」 「今、ちょっとだけ喋った気がしたんやけどなあ」 葉子は風船を見上げた。風船は当然ながら黙っている。しかし次の瞬間、校門脇の掲示板に貼られた天気予報が、誰にも触れられていないのに書き換わった。 『本日、局地的に風船が降ります』 咽喉は額に手を当てた。 「……また勘違いで現実を変えたわね」 「勘違いちゃうって。私、ちゃんと聞いたもん」 「何を」 「風船が、今日は雨の日やって」 「それはあなたの思い込みよ」 「ほら、やっぱり雨やった」 空から、赤や青や黄色の風船が静かに降り始めた。 登校中の生徒たちは、傘を開く代わりに風船をよけた。誰かが「今日の体育、風船回収か」と呟き、別の誰かが「昨日より平和だな」と答えた。 理高校は、そういう学校だった。 生徒の半数は何らかの異能力を持ち、教師の一部は異能力の使用そのものを校則で禁止している。にもかかわらず、校舎の一階には「世界を滅ぼす可能性のある能力を持つ生徒は、事前に職員室へ届け出ること」という張り紙があり、その隣には「ただし昼休みの使用は自己責任」と小さく書かれている。 咽喉は風紀委員の腕章を整え、葉子の靴を履き替えさせた。 「今日こそ、何も起こさずに一日を終えましょう」 「何もって、授業とか?」 「世界規模の騒ぎよ」 「それなら大丈夫やろ。今日は世界、寝坊してるみたいやし」 「どうしてそう思うの」 「朝から太陽が二個あるのに、誰も起こしに行ってへんから」 咽喉は返事をしなかった。姉の発言は、だいたい聞き流すのが一番安全だった。 だが、その日だけは、校内の空気が少し違っていた。 廊下の掲示板には、見慣れない黒い紙が貼られている。 『本日正午、理高校は静かになります』 署名はなかった。 咽喉は紙を見つめ、眉をひそめた。危険度を測るなら、七。あるいは八。内容だけなら曖昧だが、理高校において「静かになる」という言葉は、しばしば生徒全員の声が消える、時間が止まる、あるいは学校そのものが存在しなくなることを意味する。 葉子は掲示板の前で首を傾げた。 「静かになるって、休み時間が終わるってことやろ?」 「違うと思うわ」 「ほな、先生が寝るんやな」 「それも違うわ」 「じゃあ、学校が静かになるんや」 「書いてある通りでしょう」 「えっ、学校って喋ってたん?」 咽喉は紙を剥がそうとした。しかし指が触れるより先に、黒い紙は淡い光を帯びて、廊下の奥へ滑るように移動した。 まるで、誰かに呼ばれているようだった。 「追うわよ」 「風紀違反?」 「そうね。無許可の掲示、移動、予告、そして不安を煽る行為。少なくとも四件」 「紙にも風紀ってあるんやね」 「あるわ」 二人が紙を追って廊下を曲がると、特別棟へ続く扉の前に、一人の少女が立っていた。 理高校の生徒ではない。黒い外套を着ているが、表情は穏やかで、手には紙袋を持っている。年齢は高校生ほどに見えた。 「あなたが貼ったの?」と咽喉が尋ねた。 「ええ。私は理街の住民よ。昼は図書館で働いているわ。所属というほどではないけれど、今日は頼まれて来たの」 「誰に頼まれたの」 「静けさに」 「質問に答えて」 少女は困ったように笑った。 「正午になれば、すべて分かるわ。学校は静かになり、誰も争わなくなる。とても平和でしょう?」 「そのために何をするの」 「言葉をなくすのよ」 咽喉は一歩前へ出た。 少女の能力は、危険度九。声、記憶、意思疎通、ひいては思考の一部にまで干渉する可能性がある。しかも「言葉をなくす」という表現が、声だけを意味するのか、概念そのものを意味するのかは不明だった。 葉子は紙袋を覗き込んだ。 「それ、パン?」 「ええ、昼食よ」 「私もお腹すいたわ」 「お姉ちゃん、今はそういう場合じゃないでしょう」 「でも正午になったら、昼ごはん食べるんやろ?」 「そうだけれど……」 そこで、特別棟の階段から、穏やかな声が降りてきた。 「咽喉さん、葉子さん。そこまでにしておきましょう」 近藤香だった。 理高校の風紀委員長であり、平和主義者として知られる少女だ。病弱で、長く歩くとすぐに息が上がる。それでも校内で彼女に逆らう者は少ない。手にした薔薇の不殺のレイピアは、戦うためではなく、争いを止めるために持たれている。 香は咳を一つしてから、来訪者に向き合った。 「あなたの目的は、誰かを傷つけることではないのですね」 「ええ。争いを終わらせたいだけよ」 「それなら、ここで話し合えます」 「話し合いがある限り、争いもあるわ」 「話し合いがあるから、争いを避けられることもあります」 「でも、正午には間に合わない」 少女の背後で、黒い紙が一枚、二枚、三枚と増えた。壁や床、階段の手すりに貼りつき、『静かになる』『争わなくなる』『すべて終わる』という文字が浮かび上がる。 校内のざわめきが、少しずつ遠のいた。 廊下を走っていた生徒が立ち止まり、口を閉じる。遠くで鳴っていたチャイムが、途中で音を失う。窓の外を飛んでいた風船さえ、空中で止まった。 咽喉はすぐに異変を理解した。 「言葉の強制停止……危険度九。場合によっては十ね」 少女は静かに頷いた。 「私の能力は、誰かの発言を消すものではないわ。言葉が必要になる前に、会話の理由を消すの。伝える必要がなくなれば、誰も話さないでしょう?」 筋の通った主張だった。 能力の性質も、目的も、方法も、すべて正統に見える。争いをなくすために意思疎通そのものを減らす。危険ではあるが、論理は通っている。 咽喉は歯を食いしばった。彼女の能力は、最初から相手の事情を知るために、正統的な主張や行動を受け続ける。だから今も、すぐには遮れない。 香は少女を見つめていた。 「あなたは、誰にも傷ついてほしくないのですね」 「ええ」 「誰にも、ひとりでいてほしくないのですね」 少女は答えなかった。 香は微笑んだ。病弱な顔立ちに似合う、柔らかな笑みだった。 「言葉をなくせば、傷つける言葉も消えるでしょう。でも、助けを求める言葉も、謝る言葉も、好きだと伝える言葉も消えてしまいます」 「それでも、争いよりはいいわ」 「本当に?」 少女は初めて目を伏せた。 「私は、言葉で失敗したの」 それから彼女は、自分の過去を語った。 図書館で働いていたこと。誰かの悩みを聞いたこと。よかれと思って口にした言葉が、相手を追い詰めたこと。謝ろうとしたが、さらに言葉を重ねるたび、すれ違いが広がったこと。 「だから、言葉がなければ誰も間違えないと思ったの」 葉子は真剣な顔で聞いていた。 「それ、私もよくあるわ」 「お姉ちゃんは勘違いが多いだけでしょう」 「うん。でも、聞き間違いしたら、あとで聞き直せばええねん」 「聞き直す?」 「そう。『今の、どういう意味?』って聞いたら、だいたい教えてくれるで」 少女は葉子を見た。 「あなたは、間違いを恐れないのね」 「恐れるっていうか、私、間違えてることに気づかへんから」 「それは誇ることではないわ」 「でも、教えてもらったら直せるし」 葉子は風船を手放した。赤い風船は、ゆっくり天井へ上がっていく。 「言葉って、間違えるためだけにあるんちゃうやろ。分からんことを分かるためにもあるんやと思う」 その言葉が響いたのかどうか、少女の能力が揺らいだ。無音だった校内に、かすかな雑音が戻ってくる。 しかし、黒い紙はまだ消えなかった。 「それでも、正午は来るわ」 時計の針が、十二時を指した。 校舎全体が、深い沈黙に包まれる。 咽喉の声も、葉子の声も、少女の声も消えた。音だけではない。言葉を作ろうとした思考が、口元まで届かない。 少女は勝ち誇った様子ではなかった。ただ、悲しそうに立っている。 香は一歩前へ出た。 そして、声のないはずの空間で、静かに口を開いた。 「あなたの主張はわかったしかし風紀違反よ」 言葉は音にならなかった。それでも、意味だけが校内中に届いた。 【罪状】 【違反内容】 他者の意思疎通を本人の同意なく制限したこと。 助けを求める権利、謝罪する権利、誤解を解く権利を一方的に奪ったこと。 平和を理由に、争いを避ける選択肢そのものを封じたこと。 よって、正午以降に発生した「言葉が消えた状態」は破棄される。 香の風紀は、理屈の外側にまで届く。 破棄は、過去にも未来にも繋がった。消えた声は消えなかったことになり、奪われた意思疎通は奪われていないことになり、少女の能力が成立した事実さえ、校則に反したため無効になった。 音が戻った。 校内のあちこちから、生徒たちの驚きの声が上がる。誰かが「今、授業中だったよな」と呟き、別の誰かが「昼休みじゃない?」と返す。 少女はその場に膝をついた。 「私のしたことは、間違いだったのね」 「間違いそのものが悪いのではありません」と香は言った。「間違いを認められないまま、他人の選択を奪うことが問題なのです」 咽喉が腕章を整えながら歩み寄った。 「あなたの主張は理解したわ。けれど、能力の使用には許可が必要。理高校の生徒でもないあなたが校内全体に作用させた以上、規則に従って事情聴取を受けてもらいます」 「罰するの?」 「必要なら。でも、話を聞くことが先よ」 葉子が手を挙げた。 「私、紙袋の中身を聞いてもええ?」 咽喉は深々とため息をついた。 「……昼食でしょう」 「でも、さっきからずっと気になってるねん」 少女は紙袋を開いた。中には、手作りらしいサンドイッチが入っていた。 「よかったら、みんなで食べる?」 葉子の顔が明るくなる。 「ええの? 私、静かに食べるで」 「それは守って」 「はい」 その返事から三秒後、葉子はサンドイッチを一口食べて言った。 「これ、甘い卵焼きやと思ったら、実は雲やったわ」 「卵焼きよ」と咽喉が訂正する。 「えっ、雲ちゃうん?」 葉子がそう思った瞬間、サンドイッチの中身が白い雲へ変わった。 廊下に小さな雲が浮かび、少女の頭上でぽん、と弾ける。雨の代わりに、砂糖が少しだけ降った。 香は目を細め、咳を一つした。 「……今日は、これで終わりにしましょう」 「終わりって、世界が?」と葉子が聞いた。 「一日が、です」 「なんや、よかった」 理高校の昼休みは、いつも通りに戻った。 第二の太陽は午後一時になると消え、浮いていた猫は昼寝を続け、掲示板の貼り紙は校長の顔写真に変わった。校内放送では、校長が「本日の騒動については、概ね平和的に解決したものとする」と告げた。 少女は図書館へ戻る前に、咽喉と香へ頭を下げた。 「これからは、言葉をなくすのではなく、言葉を選ぶ努力をするわ」 「それが一番大切よ」と香は微笑んだ。 「また間違えたら?」 葉子が横から答えた。 「そのときは聞き直したらええねん。あと、私みたいに勘違いしても、だいたい何とかなるで」 「お姉ちゃんの例は参考にしないで」 「なんで?」 「世界規模で危険だからよ」 少女は少し笑った。 三人は校舎の窓から、風船の降る校庭を眺めた。風船はすでに片づけられ、代わりに生徒たちが箒を持って走り回っている。誰かが転び、誰かが笑い、誰かが「大丈夫?」と声をかけた。 それは、とても当たり前の光景だった。 だからこそ、この異常な世界では、何よりも尊いものに見えた。 帰り道、咽喉は葉子の靴をもう一度確認した。今度は両方とも普通の靴だった。 「今日は騒ぎを小さく抑えられたわね」 「うん。学校も壊れへんかったし、誰も消えへんかったし、サンドイッチもおいしかった」 「基準が低すぎるわ」 「でも大事やろ?」 「……そうね」 香は少し離れたところから、二人を見ていた。病弱なため先に帰る予定だったが、二人の会話を聞きながら歩いている。 葉子が振り返った。 「香ちゃん、今日の私のこと、どう思う?」 「優しくて、少し不安になる人です」 「それ、褒めてる?」 「ええ。あなたは誰かを傷つけるつもりがなくても、勘違いで世界を変えてしまう。でも、最後には誰かの心を軽くすることができる人です」 「ほな、ええ人やん」 「そう言いました」 葉子は満足そうに頷いた。 咽喉は腕章を外しながら、姉を見た。 「お姉ちゃんの印象? 勘違いが酷くて、鈍感で、放っておくと何をしでかすか分からない人。でも……私が止める前に、誰かのために動いていることがある。だから、困るけれど、嫌いではないわ」 葉子は目を丸くした。 「咽喉、今めっちゃ褒めた?」 「褒めていないわ」 「でも嫌いちゃうって」 「そこだけ拾わないで」 香も二人に向き直った。 「咽喉さんは、厳しくて真面目で、とても頼りになる方です。ただ、すべてを自分の責任だと思いすぎるところがあります。葉子さんは、あなたがいるから安心して間違えられるのかもしれませんね」 咽喉は驚いたように香を見た。 「私が?」 「ええ。あなたは、間違いを罰するだけではなく、正しく戻すために怒っているのでしょう」 咽喉はしばらく黙り、それから小さく息を吐いた。 「香さんは、優しすぎます。どんな相手にも事情があると思って、最後まで話を聞こうとする。だから病弱なのに無理をするし、周囲が心配します。でも……その優しさがあるから、風紀がただの規則で終わらないのだと思います」 最後に、葉子が胸を張った。 「香ちゃんは、すごく優しい人。咽喉は、怒るけど私の妹。今日の図書館の人は、怖いことしたけど、サンドイッチを分けてくれた人。つまりみんな、ええ人やね」 「お姉ちゃん、私が妹よ」 「そうやった」 「そこを勘違いするの?」 「双子やから、どっちが姉でも妹でも似たようなもんやろ」 咽喉は呆れ、香は微笑んだ。 空には、もう太陽は一つしかなかった。 それでも理街では、明日もきっと何かが起こる。世界を滅ぼしかねない能力者が普通に買い物をし、異常な現象の隣で学生たちが宿題に追われ、誰かが勘違いによって現実を変えてしまう。 けれど、そのたびに誰かが声をかける。 間違えたなら、聞き直す。 危険なら、立ち止まる。 規則に反したなら、理由を問い、必要なら正す。 そうして人類は、今日も滅びずに暮らしていた。 それが、この不可思議な世界における、いちばん不思議な日常だった。