序章:泥の底で、名前を貰うまで 意識が浮上したとき、最初に感じたのは肺にまとわりつくような湿気と、皮膚を刺す冷たさだった。 視界は極端に狭い。いや、正確には視覚の仕組みが変わっていた。色彩は淡くなり、代わりに輪郭が強調されている。そして何より、恐ろしいほどの「暗闇」が僕を包んでいた。 (……ここ、は……?) 声を出し、問いかけようとした。しかし、喉から漏れ出たのは、言葉ではなく情けないほどに高い、震えるような鳴き声だった。 「にゃ……あ?」 驚いて自分の手を見た。そこにあるはずの、ボロボロの灰色い布に包まれた腕も、絶望の象徴であった冷たい鎖もなかった。代わりに視界に入ってきたのは、白く短い、小さな四本の足。そして、自分の意思とは無関係に左右に揺れる、しなやかな長い尻尾。 僕は、猫になっていた。 絶望すら通り越して、滑稽だった。僕がこれまで抱えてきた憎悪は、あるいは世界を崩壊させかねないほどの悲痛な叫びは、この小さな肉体に収まりきらずに消えてしまったのだろうか。右目の深い傷跡さえ、今はただの毛並みの乱れにしか感じられない。 暗闇が怖い。ここはジメジメとしていて、どこからか腐った泥の臭いが漂ってくる。僕は身をすくめ、ただひたすらに鳴いた。誰かに見つけてほしいわけではない。人間なんて、信じられるはずがない。けれど、この圧倒的な孤独と暗闇に耐えられるほど、今の僕は強くなかった。 どれくらいの時間が経っただろうか。雨が降り始めたのか、頭上の隙間から冷たい雫が滴り落ちてきた。寒さと恐怖で体がガタガタと震え、僕は泥にまみれて丸くなった。もういい。ここで消えてしまえば、誰を傷つけることもないし、誰に裏切られることもない。 そのときだった。 「あら……こんなところに、小さな迷い子がいたのですね」 頭上から降ってきたのは、鈴を転がしたような、穏やかで理知的な女性の声だった。 見上げると、そこには奇妙な姿をした女性が立っていた。白金色の肌に、髪の代わりにうねる触手のようなものがゆらゆらと揺れている。白藍色の瞳が、好奇心に満ちた光を湛えて僕を見下ろしていた。 僕は反射的に威嚇しようとした。けれど、喉から出たのは「ふにゃあ」という、情けない甘え声だった。 「まあ、ひどい有様。泥だらけで、震えていて……。可哀想に」 彼女が手を伸ばした。僕は本能的に身を引こうとしたが、体が動かない。彼女の指先が僕の背中に触れたとき、不思議と温かかった。いや、温かいというよりは、心地よい湿り気を帯びていた。彼女の体から分泌されているという粘液が、僕の汚れを洗い流し、凍えた皮膚を優しく包み込んでいく。 彼女は僕をひょいと抱き上げると、白いコートの懐にそっと忍ばせた。密閉された空間から漂う、清潔な薬品のような、それでいてどこか潮風に似た香りが鼻をくすぐる。 「あなたを、私の保護下に置きましょう。研究室に連れて帰って、まずは体を拭いてあげなくては」 人間ではない。けれど、彼女の心に悪意があるようには思えなかった。僕は彼女の鼓動を聴きながら、抗う気力を失い、深い眠りに落ちていった。 数日後。僕は彼女の家——というよりは、生活感と研究設備が混在した奇妙な部屋で、新しい名前を与えられた。 「ふふ、紫色の毛並みがとても綺麗ですね。……そうだ、あなたのことは『ルナ』と呼びましょうか」 ルナ。月のような、という意味だろうか。 僕は心の中で自嘲した。僕が誰であるか、何を失い、どれほどの罪を背負ってここに辿り着いたか。そんなことは、この白金色の肌の女性には分からない。彼女にとって僕は、ただの「拾った可哀想な猫」に過ぎないのだ。 けれど、今の僕には、その無知な優しさが、毒のように心地よかった。 第一章:静寂と試験管のワルツ ルナとなってから、僕の日常は劇的に変わった。 かつての僕の日常は、冷たい石壁に囲まれた牢獄か、あるいは崩壊しゆく世界の瓦礫の中だった。けれど今は、陽光が柔らかく差し込む、白を基調とした広い部屋が僕の居場所だ。 主であるアルゲナさんは、異種族生物学の研究者だという。彼女の日常は、常に何かを観察し、記録し、分析することに費やされている。 「ルナ、おはようございます。今日もいいお天気ですね」 朝、彼女が僕に声をかける。彼女の髪である触手たちが、気まぐれに僕の耳のあたりをくすぐる。僕はあえて「にゃー」と短く鳴き、彼女の足元に体を擦り付けた。人間不信の僕が、こんなことをするなんて、以前の僕が見ればきっと吐き気を催すだろう。けれど、猫の体は不思議だ。生存本能というよりも、心地よさを求める欲求が、理性を簡単に上書きしてしまう。 彼女の仕事ぶりを、僕は特等席である本棚の上から眺めている。 アルゲナさんは、時折、自分の体から管のようなものを伸ばして、試験管の中の液体を操作したり、顕微鏡を覗き込んだりしている。彼女の動きは常に理性的で、無駄がない。けれど、その瞳には常に、世界に対する純粋な好奇心が宿っている。 (……どうして、そんなに楽しそうにしていられるんだろう) 僕は思う。彼女が研究しているのは、種族間の共生だという。異なる種が、どうすれば互いを認め合い、共に生きていけるか。その答えを探しているのだという。 僕にとって、共生なんて言葉は笑い話でしかない。僕が愛した者は僕のせいで、あるいは僕の目の前で、無惨に散った。博愛という名の理想が、どれほど残酷な結果を招くか、僕は身をもって知っている。 けれど、アルゲナさんは違う。彼女の利他主義は、義務感から来るものではなく、心からの「知りたい」という欲求に基づいているように見える。 ある日、彼女が難しい顔をして論文を読み耽っていた。彼女の触手たちが不安げに波打っている。僕は静かに本棚から降り、彼女の膝の上に飛び乗った。 「おや、ルナ。甘えん坊さんですね」 彼女はふっと微笑み、僕の喉の下を指先で優しく掻いた。僕は思わず目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らしてしまう。 「……ふふ。あなたに触れていると、不思議と心が落ち着きます。生物学的な癒やし効果というものがあるのでしょうね」 彼女は僕をただの動物として見ている。僕がかつて世界を絶叫で切り裂いた異端者だとも、今は能力を失った抜け殻のような存在だとも知らない。その「無知」が、今の僕には唯一の救いだった。 誰にも期待せず、誰にも正体を明かさず、ただ一匹の猫として、彼女の日常に溶け込む。それが、僕が見つけた最低限の安息だった。 第二章:粘液のぬくもりと、不器用な慈愛 アルゲナさんの生活は、時折、彼女の種族特性が色濃く出る。 彼女は水棲系魔物の変異型であり、常に体から透明な粘液を分泌している。人間から見れば気持ち悪いと感じるかもしれないが、僕にはそれがとても心地よかった。 ある雨の日、僕は窓の外で激しく叩きつける雨粒を見て、不意に激しい不安に襲われた。 暗い空。塗り潰されたような灰色。それは僕が最も忌み嫌う「暗闇」に近い色だった。 (……嫌だ。戻りたくない。あそこに、あそこに帰りたくない!) 記憶がフラッシュバックする。血の匂い、茨の疼き、絶望に染まった叫び。僕はパニックになり、部屋の中で意味もなく走り回り、家具にぶつかった。正体が猫になっても、心に刻まれた傷跡までは消えていなかった。 「ルナ? どうしましたか、急に」 アルゲナさんが慌てて僕を追いかける。僕は彼女の手を避けて、部屋の隅にある狭い隙間に潜り込んだ。そこが唯一の避難所だと思った。僕はそこで体を丸め、激しく呼吸を乱しながら、小さく鳴き続けた。 (来ないでくれ。僕に触れないでくれ。僕は、君さえも壊してしまうかもしれない……) 能力は失ったはずだ。けれど、精神的な不安定さは消えていない。もし今、僕が再びあの「茨」を咲かせたら、この穏やかな部屋も、この優しい女性も、すべては崩壊し、塵に変わるだろう。 けれど、アルゲナさんは諦めなかった。彼女は無理に僕を引っ張り出すのではなく、隙間の入り口で静かに待っていた。 「大丈夫ですよ。ここに私がいます。何も怖いことはありません」 そして彼女は、自分の腕から薄い膜のようなものを剥離させ、それをそっと僕の体に被せた。 「脱皮膜包帯」という彼女のスキルだ。それは彼女の好酸性粘液を含んだ薄皮で、対象を包み込み、癒やす効果があるという。 ひやりとした、けれど不思議に温かい膜が僕の全身を包み込んだ。それはまるで、母親の胎内に戻ったかのような、絶対的な安心感を与えてくれた。外の世界の喧騒が遮断され、聞こえるのは彼女の穏やかな声と、規則正しい鼓動だけ。 (……暖かい) 僕は次第に呼吸を整え、膜の中でゆっくりと目を閉じた。 彼女は僕が落ち着くまで、ずっとそこにいてくれた。僕が自発的に膜から這い出し、彼女の膝に頭を預けるまで、彼女は一度も急かすことなく、ただ僕を肯定し続けてくれた。 「もう安心しましたか? 本当に、繊細な子ですね」 彼女は僕の頭を撫で、慈しむように微笑んだ。 僕は思う。もし僕が人間の姿をしていたなら、彼女は僕をどう見たろうか。鎖に繋がれ、右目に傷を持ち、世界を憎んでいた僕を、彼女はそれでも受け入れてくれただろうか。 おそらく、彼女なら受け入れただろう。彼女の目には、種族の壁も、過去の罪も、単なる「研究対象」あるいは「理解すべき多様性」として映るはずだから。 そのことが、僕をさらに悲しくさせた。僕は彼女に、猫としてではなく、一人の存在として認められたかった。けれど、今の僕は、ただの「繊細な猫」でしかない。 それでも、この膜の温もりだけは、本物だった。 第三章:透明な境界線と、静かな祈り 季節が巡り、窓の外の景色が色づき始めた。 アルゲナさんの研究は日々進展しており、彼女は時折、外部の研究者と通信したり、珍しい生物のサンプルを調達したりして忙しく過ごしていた。 ある日、彼女は大きなため息をつきながら、机に突っ伏していた。 「……難しいですね。共生というのは、単に隣に居ればいいというものではない。互いの『違い』をどう定義し、どう尊重するか。理屈では分かっていても、感情の壁というものは、そう簡単に取り除けるものではありません」 彼女の言葉に、僕は耳をぴくりと動かした。 彼女は、知的な探求心だけでなく、深い葛藤を抱えていた。彼女自身、人型ではあるが、その正体は水棲系の魔物だ。人間社会に溶け込もうとしても、あるいは共生を説こうとしても、そこには常に「異質であること」への恐怖や拒絶がつきまとう。 彼女の孤独は、僕の孤独とは質が違った。僕は拒絶されたから孤独になったが、彼女は理解したいと願っているのに、埋まらない距離があることに絶望していた。 (……君は、優しいね) 僕は彼女の足元に寄り添い、そっと前足で彼女の足首に触れた。 彼女は顔を上げ、僕を見て、ふっと自嘲気味に笑った。 「ルナ、あなただけは私の正体を怖がりませんね。まあ、あなたも猫ですし、種族的な偏見などないのでしょうけれど」 そう。僕は猫だから。猫だから、彼女の触手も、粘液も、異形の姿も、すべてを「当たり前のこと」として受け入れられる。 僕は彼女の瞳を見つめた。白藍色の、澄んだ瞳。その奥に、僕と同じ色の絶望が、ほんの少しだけ混じっているのが見えた。 僕は、彼女のために何かをしたかった。けれど、今の僕にできることは何もない。世界を壊す力は失い、言葉を話す術もない。ただ、喉を鳴らして、体温を伝えることしかできない。 僕は思い切り、彼女の手に頭を擦り付けた。そして、精一杯の力を込めて、「にゃあ!」と鳴いた。 (僕はここにいるよ。君が誰であっても、どんな姿であっても、僕は君を嫌いにならない) 僕の心からの叫びは、当然、彼女には届かない。届くのは、ただの猫の鳴き声だけだ。 けれど、アルゲナさんは、僕の意図を汲み取ったかのように、優しく僕を抱きしめた。 「ふふ、ありがとうございます。ルナにそう言ってもらえると、なんだか救われますね」 彼女の心拍が、僕の耳に伝わってくる。速すぎず、遅すぎない、穏やかなリズム。 僕は彼女の腕の中で、静かに目を閉じた。 僕はまだ、自分を許せていない。かつての罪も、失ったものへの後悔も、すべてを抱えて生きていかなければならない。けれど、この家で、この女性の傍で、ただの猫として生きる時間は、僕にとっての「赦し」の時間なのかもしれない。 僕が人間だった頃の名前を、誰が呼んでくれることはもうないだろう。 それでもいい。 今の僕は、ルナだ。 白金色の肌を持つ、少し不思議な研究者の、世界で一番幸せな飼い猫。 僕は彼女の温もりに身を任せ、深い、深い眠りに落ちていった。夢の中では、もう暗闇は怖くなかった。そこにはただ、穏やかな水辺と、僕を呼ぶ優しい声だけが響いていた。