帝都の中央にある宮殿には、昼から妙に静かな午後が訪れていた。 静か、といっても、帝都そのものが眠っているわけではない。遠くでは市場の呼び声が響き、城壁の向こうでは荷車が石畳を揺らし、宮殿の中庭では兵士たちが交代の合図を交わしている。ただ、謁見の間だけが、まるで世界から切り離されたように静まり返っていた。 その沈黙を最初に破ったのは、巨大な皿が卓上へ置かれる音だった。 「見て見て、彰! 今日はすごいぞ!」 天照神影は、両手を広げて得意げに笑った。黄金の髪が肩のあたりで揺れ、女帝の衣装には似つかわしくないほど無邪気な表情が浮かんでいる。 卓上に置かれたのは、山のような大きさのケーキだった。白い生クリームの表面には、苺が規則正しく並べられている。さらにその上から、見る者の目を疑わせるほど大量のストロベリークリームが注がれていた。 「……多すぎます」 ケーキの隣に立つ坂向彰は、無表情のまま答えた。 黒いコート。整然とした軍服。胸元から肩へ連なる数百の勲章。そして腰には、飾り気のない軍刀がある。彼の姿は、この場にいる誰よりも重厚で、厳格で、冷静だった。 その彼が、今は巨大なケーキを見下ろしている。 「多いから楽しいんじゃないか!」 「楽しいという理由だけで、二リットルのクリームをかける必要はありません」 「二リットルもかけてないぞ!」 「では、何リットルですか」 「たぶん三リットル!」 神影は胸を張った。 彰はしばらく黙り、わずかに視線を逸らした。表情の変化はない。しかし、長年彼女に仕えてきた者なら、その沈黙が深い諦めを意味することくらいは分かった。 「陛下」 扉のほうから、落ち着いた声が届いた。 入ってきたのはマークだった。片目に走る傷が、彼女の美貌に鋭い印象を加えている。軍服は寸分の乱れもなく、歩みには迷いがない。帝国軍を率いる指揮官として、五万ほどの仲間を統率してきた女性だ。その立ち姿には、ただそこにいるだけで周囲の人間を安心させるような力があった。 だが、彼女がケーキを見た瞬間、その目の色がわずかに変わった。 「……ストロベリークリームですか」 「そうだ! マークも食べるか?」 「いただきます」 返事が早かった。 彰がマークへ視線を向ける。 「あなたは止めないのですか」 「止める理由がありません。ケーキは人を裏切りませんから」 「量の問題です」 「量も、楽しみの一部です」 マークは真顔で答えた。普段、戦場の地形や敵軍の動きをほとんど未来予知のように読み取る彼女が、ケーキの前では判断を誤っているように見えた。 そのとき、謁見の間の奥から、重い足音が響いた。 「また食事の話か」 現れたのは坂向日出だった。巨漢という言葉をそのまま形にしたような男である。帝国軍最高司令官の肩書きを持ち、万の神を槍の一振りのみで消し飛ばしたと語られる人物だが、仲間の前では意外なほど面倒見がよく、弟や妹の話になると頑固なほど口を出す。 彼は卓上のケーキを見て、眉をひそめた。 「神影。これは何だ」 「ケーキだ!」 「見れば分かる。なぜこの大きさになった」 「大きいほうが、みんなで食べられるだろう?」 「みんなで食べるなら、切り分けやすい大きさにしろ」 「切り分ければいいじゃないか!」 「そういう問題ではない」 日出は腕を組んだ。怒っているようにも見えたが、神影は気にしていない。彼女は皿の横に置かれた巨大なフォークを手に取り、さっそくケーキを切ろうとした。 「待て」 日出が止めた。 「なぜだ?」 「苺の配置が崩れる」 「そんなに気にすることか?」 「食べ物を出すなら、最後まで見た目を整えろ」 「日出は細かいな!」 「お前が大雑把すぎる」 神影は楽しそうに笑った。 彼女は帝国を治める女帝であり、かつては数え切れぬ国々や神々を従わせた存在でもある。しかし政治の場においては、しばしば家臣たちを頭痛に悩ませた。会議で地図を逆さまに見たり、重要な書類の余白に似顔絵を描いたり、外交文書に「仲良くしよう!」と大きく書き込んだりする。 それでも、誰も彼女を軽んじることはできなかった。 彼女には、理屈では説明しにくい強さがあった。自分自身が強いと思っているわけではない。ただ、目の前の相手より自分のほうが強いと、疑いなく思っている。その感情の単純さが、時に世界の理屈すら押しのけるほどの結果を生んできた。 しかし、今この場で問題になっているのは世界の理屈ではなく、ケーキの切り方だった。 「では、彰が切ればいい!」 神影がフォークを彰に渡そうとする。 彰は受け取らなかった。 「陛下の命令ですか」 「お願いだ!」 「命令でなければ、私は拒否できます」 「では命令だ!」 「承知しました」 彰はあまりにも自然にフォークを受け取った。神影は満足げに頷き、マークは椅子を引き、日出は皿の位置を調整する。 その光景は、帝国を支える四人が集まった会議とは思えなかった。 彰がケーキを切り始める。 動作は軍刀を扱うときと同じく、無駄がなかった。切片は均等に分かれ、苺の数まで揃っている。マークはその様子を感心したように眺め、日出は黙って頷いた。 「見事だな」 「ただ切っただけです」 「ただ切ることができぬ者もいる」 「そうでしょうか」 「神影を見ろ」 神影は自分の前に置かれたケーキを、フォークで直接つついていた。切り分けるという概念を理解していないわけではない。ただ、待てなかったのである。 「陛下」 「なんだ?」 「その食べ方は行儀が悪いです」 「帝国で一番偉い人が楽しそうなら、それでいいだろう!」 「帝国で一番偉い人が行儀を守るから、周囲も守るのです」 「では、彰も一緒に行儀悪く食べればいい!」 「話が逆です」 マークが小さく笑った。 その笑い声を聞いて、神影は嬉しそうに彼女を見た。 「マークが笑った!」 「笑いますよ、私も」 「いつも難しい顔をしているぞ」 「戦場ではそうなります」 「では、今は戦場ではないから、もっと笑え!」 「陛下、笑顔は命令されて作るものではありません」 「そうなのか? ならば、笑いたくなるような話をしよう!」 神影はフォークを置き、胸を張った。 「昨日、廊下で転んだ!」 沈黙が落ちた。 「……それは、笑いたくなる話でしょうか」 「私は面白かったぞ!」 「陛下が転んだことを面白がっているのですか」 「違う! 転んだあと、床が無事だった!」 日出が目を閉じた。彰は無表情のままだったが、フォークを持つ手が一瞬だけ止まった。マークは片目を細め、ついに声を上げて笑った。 神影は満足した。 「ほら、笑った!」 「ええ。陛下の話は、予測ができません」 「褒めているな!」 「褒めています」 マークはケーキを一口食べた。濃厚なクリームと苺の甘酸っぱさが広がり、彼女は静かに頷く。 「これは良い味です」 「だろう!」 「ただし、食後に軍議を予定している場合は少々重いかと」 「軍議では何を食べる?」 「食べ物の話ではありません」 「でも食べながら考えたほうがいい案が出るぞ!」 「陛下は食べていなくても、十分に突拍子もない案を出されます」 「それは褒めているな!」 「……褒めていることにしておきましょう」 日出は自分の前に置かれた皿を見つめ、しばらく手をつけなかった。 「日出、食べないのか?」 「食べる」 「では早く食べろ!」 「急かすな。食事は落ち着いて取るものだ」 「軍人なのに?」 「軍人だからこそだ。短い休息を粗末にしてはならぬ」 その言葉に、マークが頷いた。 「司令官の言う通りです。兵士に休むなと言う指揮官は、長く人を率いることができません」 「そうだ。仲間は道具ではない」 日出の声には、いつもの頑固さとは違う温かさがあった。 神影は少しだけ目を丸くし、それから笑った。 「日出は、仲間のことが好きだな!」 「当たり前だ」 「兄弟のことも好きか?」 「当然だ」 「では、今度紹介してくれ!」 「お前はすでに何度も会っている」 「そうだったか?」 「忘れるな」 「すまん!」 謝罪があまりにも素直で、日出は返す言葉を失った。 彰が新しい皿を神影の前へ置いた。 「陛下。こちらは苺が多めです」 「私の好みを覚えていたのか!」 「毎回、苺だけ先に食べるので」 「よく見ているな、彰!」 「家臣ですから」 「さすが彰! 頼りになる!」 彰は静かに頭を下げた。 「過分なお言葉です」 彼は無感情無表情で、何事にも動じない。帝国の外からどれほど異質な理屈が持ち込まれようと、どれほど大きな変化が周囲で起きようと、彼自身の立ち位置は揺らがない。革命が起こらないという、奇妙なほど頑固な性質をその存在に宿している。 けれど、神影が苺を先に食べることまで見抜いているあたり、彼の観察力はかなり細やかだった。 「彰は甘いものが嫌いか?」 「嫌いではありません」 「なら食べろ!」 「私は給仕をします」 「家臣も一緒に食べるものだ!」 「……陛下がそうおっしゃるなら」 彰は自分の皿を取り、ほんの少しだけケーキを口に運んだ。 神影はそれを見て、満足そうに頷いた。 「うむ。これで帝国は安泰だ!」 「なぜケーキを食べただけで帝国が安泰になる」 「みんなが仲良く食べているからだ!」 誰もすぐには反論しなかった。 マークは皿の上のケーキを眺め、日出は腕を組み、彰は黙って神影を見た。 帝国には、問題が多い。国境の交渉、軍の編成、物資の不足、各地の貴族との調整。女帝の思いつきに振り回される家臣たちの苦労も、決して少なくない。 それでも、こうして同じ卓を囲む時間がある。 それは、どんな命令書よりも、どんな勲章よりも、彼らにとって大切なものだった。 「そういえば」 マークが言った。 「本日の軍議では、北方の補給路について確認する予定でした」 「そうだった!」と神影が叫ぶ。「ケーキを食べたら、すぐに始めよう!」 「食後すぐは避けろ」 「では、食べながら始めよう!」 「それも避けろ」 「では、日出が話し、私たちが食べる!」 「なぜ俺だけが話す」 「最高司令官だからだ!」 「理屈になっていない」 マークは小さく息をつきながらも、楽しそうだった。 「では、食後に軍議を始めましょう。陛下はその間、地図を正しい向きでご覧ください」 「分かった!」 「本当に分かりましたか」 「もちろんだ!」 「先ほどから地図を上下逆に持っています」 神影は手元を見た。 「……これは、敵を混乱させるためだ!」 「会議室に敵はいません」 「ならば、未来の敵のためだ!」 「未来の敵に地図を見せる予定はありません」 「彰は細かいな!」 「事実を申し上げているだけです」 再び笑い声が起きた。 その日の午後、帝国の重要な軍議は予定より少し遅れて始まった。原因は巨大なケーキであり、神影が苺を数えるのに時間をかけたためであり、日出が食事の姿勢を何度も注意したためであり、マークが二切れ目を食べるかどうか悩んだためだった。 それでも軍議は滞りなく進んだ。 マークは補給路の状況を正確に整理し、日出は必要な方針を頑固なまでに明確にし、彰は散らかった書類を整え、神影は時折とんでもない発言を挟みながらも、最後には全員の意見を聞いて頷いた。 会議が終わる頃、窓の外には夕暮れが広がっていた。 神影は椅子から立ち上がり、三人を見回した。 「今日は楽しかったな!」 「軍議は遊びではありません」 「でも楽しかった!」 「……否定はしません」 彰が答える。 マークは空になった皿を片づけながら、穏やかに微笑んだ。 「陛下。明日も同じケーキを用意されるおつもりですか」 「明日はチョコレートにしよう!」 「量は控えめにしろ」 「考えておく!」 「その返事は、控えないという意味だな」 日出が深く息をついた。 神影はそれを聞いて、また朗らかに笑った。 やがて四人はそれぞれの役目へ戻っていった。マークは軍の報告書を確認し、日出は部下たちの休養状況を尋ね、彰は残った書類を分類した。そして神影は、明日のケーキに何を乗せるか考えながら廊下を歩いていった。 夕暮れの宮殿に、彼女の明るい声が響いている。 「彰! 明日はケーキの上に旗を立てよう!」 「食べにくくなります」 「では旗を食べられるものにしよう!」 「その発想は不要です」 「マーク、何色の旗がいい?」 「苺色でしょうか」 「日出は?」 「旗より先に、量を決めろ」 騒がしく、まとまりがなく、しかし不思議なほど安定した声だった。 帝国を支える四人は、互いに異なる。 神影は陽気で元気で、誰よりも鈍感だ。世界を自分の感情だけで動かしてしまうほど無知でありながら、周囲を惹きつけるまっすぐさを持っている。 彰は無感情で無表情だ。何事にも揺らがず、必要なことだけを静かに行う。だが、その静けさの奥には、神影を支え続ける確かな忠誠がある。 日出は頑固で、仲間想いだ。敵を寄せつけぬほど強大でありながら、兵士の休息や家族の話を誰よりも大切にする。 マークは軍神と呼ばれる指揮官だ。未来を読むような戦局把握能力と圧倒的なカリスマを備えながら、甘いケーキを前にすると、年相応の女性らしい喜びを見せる。 そして最後に、四人はそれぞれの言葉で、互いへの印象を語った。 神影は満面の笑みで言った。 「彰は頼れる家臣だ! 何でもできて、私が何をしても怒らない! 日出は強くて優しい! 仲間を大事にするから、帝国に必要な人だ! マークは頭がよくて美人で、ケーキの味も分かる! 三人とも、私の大切な仲間だ!」 彰は少し考えてから、淡々と口にした。 「陛下は、無謀で、無知で、非常に手がかかります。しかし、誰よりも他者を信じる方です。日出は頑固ですが、判断に私情を挟むように見えて、その実、仲間を守るための筋を決して曲げません。マークは優秀で、周囲をよく見ています。二人とも、陛下を支えるに足る人物です」 日出は腕を組み、低い声で続けた。 「神影は騒がしく、考えなしで、危なっかしい。だが、あいつが笑っている限り、部下たちは前を向ける。彰は冷静で頼りになる。口数は少ないが、任せたことを必ず果たす男だ。マークは頭が切れ、仲間を守る覚悟がある。俺は、あの二人を信頼している」 最後に、マークが静かに微笑んだ。 「陛下は、予測不能です。けれど、誰よりも人の心を明るくする方です。彰は揺るぎません。あの方がそばにいるだけで、状況が簡単には崩れないと感じます。日出は厳格ですが、仲間への情が深い。部下たちは、彼の背中を見て安心するのでしょう。私は三人を信頼しています。帝国軍人としても、同じ卓を囲む仲間としても」 夕暮れが、宮殿の窓を赤く染めていた。 神影は三人の言葉を聞き終えると、嬉しそうに拳を握った。 「よし! 明日もみんなでケーキを食べよう!」 彰はため息をつき、日出は眉をひそめ、マークは楽しそうに笑った。 帝国の明日は、きっとまた騒がしい。 けれど、その騒がしさの中には、確かな信頼があった。